勿忘草に紡ぐ
響 蒼華
勿忘草に紡ぐ
下町にその店に、彼女が目を留めたのは不思議な重なりの帰結だった。
触れていた感触は固く冷たかったような気がしたのに、今は上りくる日の柔らかな温もりの中にいる。
彼女は周囲を見回してみて、何処かの下町に居る事に気づく。
けれど、其れだけ。
何故其処に居るのか、どの様に其処に来たのか。
そもそも、此処は何処であるのかも分からない。
自分が其処に在る目的が、自分の中から消えてしまっていることに気づいた時に。
目を引いたのは、窓から見えたさざめく微かな彩と光。
古ぼけた銅の看板を見てみれば、成程其処は仕立て屋であるらしい。
窓から見える小さな店の中に、客の姿は見えない。
どうせならと店内へと足を運んでみたならば、奇妙な事に客を出迎える人間が在るべきカウンターには、青い小鳥。
店内に並ぶ数々のドレスに、美しい刺繍の手袋や帽子。
さながらそれは艶やかな色糸で描かれた絵画の数々、其れならばここは美術館であろうか。
余程の刺繍の名人が居るのね、素敵だわ。
そんな事を裡に呟きながら、並ぶ品々の合間をワルツを踊るようにゆるりと歩みを進めて。
小鳥が鳴いた。
彼女に何かを告げるように囀った小さな青は、ふわりと羽ばたいて奥へ奥へと進んでいく。
その導くままに、彼女は階段を上る。
初めて訪れた店舗で断りもなく踏み込んでいくなど、してはならない事であるはずなのに。
そうするのべきなのだと、裡に響く柔らかで不思議な響き。
軋む音の鳴る階段を慎重に進んだ先、屋根裏に辿り着いた彼女は瞳を瞬いた。
綺麗、とぽつり呟いた彼女の眼差しの先。
天窓から差し込む光に照らされた、一着のドレス。
薄青の滑らかな光沢は流れるような線を以て裾へと至り、裾に施された刺繍は絹地の裳裾を可憐な花畑で彩る。
沢山のドレスを見る機会はあったが、此処まで美しいものを見た事がない。
流行の形ではないけれど、其れは却って彼女には好ましく映る。
溜息が出る程に見事で、あまりにうつくしいドレスが其処に在る。
きっと店に置いてあった品々を作りあげた人の手によるものだろう、彼女は見惚れながらぼんやりと思う。
お待ちしておりました、そう言われて彼女は其処に誰かが立っている事に気づく。
質素なまでの黒のワンピースを纏った、目鼻立ちの整った愛らしい少女。
名乗りを聞いたなら、年若い少女はこの店の主であると言う。
このように年若い娘さんが、とふわり胸に湧き上がった言葉は溶けるように消えて行く。
少女は続けて紡ぐ。
『此れは、貴女の為のドレスです、どうかお召しになってください。旅立ちにふさわしいものを仕立てさせて頂きました』
何故か人形を思わせる少女は、そういってトルソーにかけられたドレスを差し出した。
少女の手を借り、気が付いた時には。
旅立ちの朝に、彼女は美しい晴れ着を纏っていた。
そう、旅立ち……。
自分は『旅立ち』を迎えたのだと言う事を、彼女は記憶の靄の中から手繰り寄せた。
――とても寒くて悲しい日々を歩んできた気がする。
あの人が写真の中だけに姿を留めるようになってから、彼女は一人で生きていた。
再縁を勧める声もあった、けれど穏やかに微笑む彼女は終ぞ首を縦に振る事はなく。
気が付けば彼女は館に一人きり、孤独の内に只過ぎ行く歳月。
静かに一人の刻を重ねて、今日この日を迎えたのだ。
体面を保つのが精一杯で、満足な式を挙げる事もできなかった事を悔いていた彼。
素敵なドレスを貴女に贈るから、今一度式を挙げようと。
晴の青空のような笑顔で遺して、曇り空のような灰の荒れ海に飲まれて消えた。
遺されたのはたった一つの小さなブローチ。彼が結婚の証にとくれた唯一の。
恋人にその花を遺していった青年が想いを託したという、勿忘草の綺麗な――。
旅立ちの晴れ着となるドレスは、そのブローチと同じ薄青の絹糸で精緻な刺繍が施されている。
其れは、亡き人の瞳と同じ色。
あの人を忘れる事なかったこころの証。彼女の胸元を絶えず飾り続けた花が咲いている。
光を弾いて、一粒の雫が落ちた。
彼女の頬には透明な泪が伝っている、其れは止まる事を知らず流れ続ける。
嫌な予感がしていた、行かないでくれと本当は言いたかったが紡げず終わった言の葉。
賢しら口を利かぬ物分かりの良い妻と思われたくて、手を離してしまった事を後悔していた。
あの時もっと強く引き留めていられたなら、もしかしてと。
悔いるこころは己を苛む茨となり、棘の痛みは哀しみを忘れさせてはくれなくて。
永く暗い闇を越えてたどり着いた、今ここには静かな光満ちた朝がある。
そうだわ、と女性は呟いた。
あの人を失ってから長い長い時間が過ぎたのだ、自分がこんな若い姿の筈がない。
手にも顔にも皺もなく、白髪の一筋すら見当たらぬ若々しい姿の筈がない。
それに――。
気が付いた、本当の自分はとうに硬い棺に寝かされて、冷たい土の中に在る事に。
月すら見えない暗闇の中で、一人密かに胸の鼓動を止めたのだ。
身よりのない自分は、僅かばかりに付き合いのあった人々の手のよって弔われ、教会の墓地に眠った筈、なのに。
其れなら、何故わたしは此処に居るの……?
戸惑いの光を宿す瞳と、不思議な灯を宿す瞳が交錯した。
少女は声なき問いに答えるように、何処か謳うような声音で囁く。
『私は、貴方から願いをお預かり致しました。終の奇跡を結ぶが私の役目』
ねがい……。
言われて、またひとつ靄が晴れ行くように記憶が鮮明さを取り戻していく。
確かに、床についた自分は願った。
どうせ逝くなら、病みやつれた姿ではなく美しい自分であの人に会いたいと。
あの人と過ごせて幸せであったままの、自分で会いたいと――。
落ち行く雫は差し込む光にきらきらと。
最早彼女は言葉を紡ぐ事すらできず、美しい纏いに身を包んで思いを馳せるのは亡き人の事。
会いたい、そう会いたいのだ。
望んでいたのは豪華な式でも華やかなドレスでもない、応えてくれる声と握り返してくれる優しい手。
何はなくとも、其れだけがあれば。あの人が居てくれさえすれば、それで。
でもそれは、最早永久に失われてしまって……。
そんな彼女の耳に優しく触れたのは、少女の穏やかな言葉。わたしがお預かりした願いは、ドレスだけではありません、と。
如何いう事かと問いを紡ごうとした彼女に、少女は微笑って続ける。
『さあ、あちらをご覧になってください……』
糸が紡ぐのは、亡き人の願い。糸が結ぶのは、亡き人と今在る人との絆。
不思議な夢の中いるような自分は、更に夢を重ねているのだろうか。
あまりに願い過ぎて、望み過ぎて、遂に其れが形を成してしまう程に。
そうでもないならば、何故其処に。
其処に、逝ってしまったあの人がいるのだろう……。
長く一人してしまってすまないと、少しだけ罰の悪そうな微笑を浮かべる在りし日の夫が……。
すらりとした姿に、はにかむ優しい笑みは記憶にある姿そのままで彼女へと両腕そ差し伸べている。
在るわけがない、有る筈がない。そう思う心があるのは事実、けれど。
――あいたかった
彼女は弾かれたように、その人の胸へと飛び込んだ。
夢ではないのか、いや夢であっても構わない。
この腕に感じる温もりは、わたしにとっては確かなものだから。
彼は言った、後悔していたと。
勿忘草に託した伝言は、彼女の人生を縛ってしまったのではないかと悔いたと。
自分の事を忘れる事が出来れば、新たな幸せを掴めたかもしれないのに。結局、彼女は独りのまま生きて。
いいえ、と彼女は首を振る。
忘れたくなかったのは自分だと、勿忘草の言の葉を誰より願ったのは自分だと。
忘れないで、忘れたくない、其れはどちらの願いで、想いだったのか。其れはもう、何方でもいい事。
何方からともなく紡がれるのは、もう離さない、もう離れない、交わされる新たな誓い。
白い雪のように降り注ぐ光は、神の祝福。
其れは静かな朝の、うつくしい婚礼の光景。
其れは幸せな夢だったのかもしれない、或いは本当にあった奇跡だったのかもしれない。
確かな事は、旅立った人が幸せに微笑んでいたという事実。
二人の手が、二度と離れる事が無いと言う事――。
再び訪れた静寂。窓から差し込む温かな光は変わないけれど。
其処には裾をつまみ深い礼を取る少女の姿だけがあった。
長き時の流れにおいては刹那とも言える間の事、だからこそ。
有限だからこそ、何かを生み出せるのだと、何かを遺せるのだと。
何時までも有ると思うものならば、尊いと感じる事もなかろうと。
だからこそ。
たとえ僅かな間であろうとも、世にて一番思い合える者同士を、神は出合わせるのかもしれない。
多くのものを、与えあえるもの達を。
誰もいなくなった窓辺には、何もかかっていないトルソーがぽつんと立っている。
ひとつが終りを迎えたのだと静かに頷いて、少女は白い掌をゆっくりと開いた。
其処に輝くちいさなちいさなひとかけら、それが少女が望んだ唯一つの対価。
――あなたの願いも、いつか叶いますように。
優しい花嫁が残してくれた涙の一滴は、キラキラと差し込む光に輝く一粒のビーズとなり。
少女は其れを白い絹地に縫い留めた。
いつか、私が赦される日が来ますように。
いつか、私もあの人に――。
何時の日かを信じたい、儚いけれど揺らがない願いの呟き。
願いが叶うその日は何時かくるのだと、一つの灯火胸に抱いて。
穏やかな沈黙に、少女は揺蕩った。
下町にある仕立て屋の屋根裏で、今日も布地の上に針は踊り続ける。
街外れに住まう老婦人が亡くなったという報せが、人々に届いた。
新婚の時分に夫を亡くし、一人で暮らしてた婦人は静かに葬られたという。
その事実は、何時しか人々の記憶からも消えていくのだろう。
けれど、此れは確かにあった物語。
不思議な少女の仕立て屋で、紡がれたしあわせな旅立ちの物語――。
勿忘草に紡ぐ 響 蒼華 @echo_blueflower
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