エピローグ

「――それじゃ先輩、行きますよー」

「ん、了解。どんとこーい」

 グローブを嵌めた左手をぶんぶんと振りながら、十五メートルほど先の蓮に、私は元気よく呼びかけた。緩やかな放物線を描いて飛んでくる白球を、心臓のあたりでキャッチする。右手で取り出して、軽く振りかぶってからボールを放つ。明後日の方向に飛んでいくことも、飛距離不足で途中で落下することもなく、白球はすっぽりと蓮のグローブに収まった。

 ボールを再び私に向かって投げながら、蓮は相変わらず偉そうな口ぶりで、言う。

「先輩の投球も、相当まともになりましたよね。正直、意外です」

「そりゃ、三週間も毎日欠かさずキャッチボールしてれば、誰だって上達するよ。大体、私は勘を忘れていただけであって、元はそんなに下手くそじゃなかったんだし」

「ま、それもそうですか」

 なんてことない返事とともに、蓮が白球を飛ばす。私が受け取る。一連の作業を、私たちはダラダラと数学的帰納法的に繰り返す。

 八月十五日。お盆。天気は快晴で、水平線近くには真っ白い入道雲の作る山嶺が聳えていた。昨日からお母さんとお父さんもこっちに来ていて、つい一時間ほど前に、お祖父ちゃんも含めた四人でお墓参りをしてきたところだった。

 お墓参りが終わったところで、「遊びに行ってくるから」とだけ口にして、スニーカーを履いて家を出た。庭に置いてある自転車に跨って、ぎぃぎぃと耳障りな音を立てながらペダルを漕いで、なんだか小学生の頃の夏休みに戻ったみたいだな、なんて感慨を抱いたりしながら待ち合わせ場所の公園に辿り着いたのが、十分ほど前のこと。

 なんとも牧歌的な夏休みを謳歌している私ではあるけれど、生徒会選挙の結果はどうなったのかというと、それは勿論、万事が万事うまく行き、対立候補の漆原を僅差で破って、私は史上初の不登校副会長の座に就任したりはしていなかった。

 私は落ちた。普通に落ちた。ものの見事に落ちていた。

 惨敗とまでは言えずとも、惜敗とは口が裂けても言えないくらいの票数だった。比良、越えられない壁、漆原、超えがたい壁、私、谷川というのが、最終的なリザルトだった。

 事前アンケートの結果は何だったんだと叫びたくなる結果だったけど、その実施方法を漆原から聞いたところで、得心がいった。あのアンケートは、放課後その辺をほっつき歩いていた生徒に声をかける、という形式で行われていたらしかった。当然、アンケートの対象になるのは帰宅部や緩い部活に所属している生徒らがメインとなる。そしてそれは、私の支持層と見事に一致する。要するに、アンケートの母集団に偏りがあったというわけだ。

 蓮は最初、ばつが悪い表情で「ごめんなさい。約束、守れなくて」と謝ってきたけれど、私はそれをサラリと流して、二学期以降も学校はやめない旨を伝えた。すると蓮はなんだかホッとしたような顔になり、しばらくの沈黙の後、そうですか、と。その一言だけを口にした。

 選挙そのものに対しての後日談――正確には同日談だけど――は、こんなところかな。ひどくあっさりした幕引きけど、そんなのは当然だ。私も蓮も、結局は相手と繋がりを持つための手段として選挙を利用していただけなのだし。

 とはいえ、万事が万事、平穏に幕を閉じて話は終了、というわけにはいかなくて。

「今更ですけど、先輩はどうして私の実家にいるんですか?」

 選挙結果の発表があった後、蓮は待ちかねたかのように切り出した。Wi-Fiがあるからと単純かつ明快な理由を口にしてはみるものの、蓮が望んだ解答は理屈の部分にあるわけじゃない。

「そっちに、私のマ――いや、母がいるんですよね?」

「そうだけど……話す?」

「いえ、遠慮します。でも、確認させて下さい。あの人から、あることないこと吹き込まれてないですよね?」

「大丈夫よ、あることあることしか話してないから」

 画面に映らないところから、黙って私達のやり取りを静観していた蓮母が、口を挟んだ。

「えっと、……久しぶり、蓮ちゃん。元気にしてた?」

 つかつかと画面の前に移動する蓮母。私と漆原は気を利かせて、脇に避ける。

 画面越しではあるけれど、この二人は、約四ヶ月ぶりに対峙することとなったのだった。

「連絡してっていったのに、既読すら付けてくれないんだから、心配したわよ。でも、安心した。ちゃんとそっちで元気にやってるみたいで。夢ちゃんとも、仲良くやってるんでしょ?」

「……あれだけ反対しておいて、今更、どの面下げて言ってるの?」

「それは……。その、ごめんね、蓮ちゃん」

「だから、ちゃんづけで呼ぶなって前から言ってんじゃん。大体――」

 私と漆原は目配せするなり、家の外に出た。二人の話が落ち着くのを待ちわびた。

 二人の間に、どんな話し合いがなされたのかは、知らない。だけど、それから十五分ほどが経ったところで、蓮母が「ちょっといい?」と私を呼んできた。

 画面の先では、蓮が憮然とした表情で腕を組んでいた。

「先輩って今、退屈ですか? 私がいなくて寂しいですか? 会いたいと思ってますか?」

「は、はぁ? なんなの、急に。らしくもないこと訊いてきて」

「だから、私のことが恋しいかって聞いてるんです。イエスかノーで答えて下さい」

「……そりゃあ、会えるんなら会いたい、けど」

「そうですか、奇遇ですね。実は私も、先輩に会いたくて会いたくてたまらなかったんです。だから、明後日くらいにそっち行きますから」

 とまあ、そんな流れで蓮の帰郷が決定したわけである。

 投票日の二日後に、蓮は約四ヶ月ぶりに島の大地を踏んだ。漆原は蓮と入れ替わる形で本土に帰った。蓮の顔面にビンタをかましていったりはしなかった。貸しにしておく、とのことだ。

 ――考え事をしていたせいで、キャッチの構えを取るのが遅れた。頭に激突しそうになった白球を、すんでのところで受け止める。あっぶない。死ぬかと思った。

「ところで先輩、生徒会の件はどうするか決めたんですか?」

「ああ、それねぇ。……どうしようかなぁ」

 取ったボールをすぐに返すことはせず、右手とグローブの間をぽんぽんと行ったり来たりさせながら、私は考えを巡らせる。そうしていると自然、意識が再び過去へと引っ張られていく。

 私と漆原が蓮と蓮母に気を使って、家の外に出ていたときのことだ。

「そういえば、まだおめでとうって言ってなかったよね。当選おめでとう、漆原」

「どうも。そっちは……それほど残念ってわけでもなさそうね」

「まあね。別に私は、蓮と二人で何かできれば、それでよかったし」

「シンプルにクズね」

「……うるさいなぁ。別にいいでしょ、見事に落選してるんだから」

「そういう問題じゃないわよ。一応、青井のことを信頼して票を入れてくれた人もいたわけでしょ? その人達に対して、申し訳ないって気持ちはないわけ?」

 それは、と口ごもる。投げやりなことを言いはしたけど、私のことを慕ってくれた子たちに対して引け目があるのは、事実だったから。

「あのさ。もし青井にその気があるなら、うちで働いてみない?」

「え? 私を漆原家の下女にでもしようってわけ? 流石に発想が悪辣すぎない?」

「……なわけないでしょ。青井のメイド服姿とか、別に見たくないから」

「なんでメイド服が前提なの? そういう趣味なの?」

「下らないことで話の腰を折らないでくれるかしら」

 靴の側面を軽く蹴られた。蹴り返してやった。二十回ほど不毛なやり取りを繰り返したところで、漆原が平和協調路線に舵を切った。何事もなかったみたいに話を戻した。

「生徒会役員として働かないかって言ってるの。現状の制度では四人で運営することになってるけど、増やそうと思えば増やせるし。どう? やってみる気はある?」

「……話が、よく見えないんだけど。なんでいきなり、そんなこと」

「良くも悪くも、青井という候補は唯一無二で、今まで明るみに出なかった声をサルベージしてくれた。そういう点では、私も朝顔も見解が一致してるのよ。そしてそれは、青井じゃなければできないだろうってことも」

 買いかぶり過ぎだよと言いかけて、その言葉をどうにか飲みこむ。しばらくの沈黙の後。

「それに、青井が入れば羽賀が手を貸してくれるだろうしね。そしたら朝顔の負担も減って、生徒会室で私とゆっくりしてくれる時間が増えるかもしれないし」

「……結局はそれが理由かよ。漆原だって充分、身勝手じゃん」

「青井には負けるけどね」

「それ、こっちの台詞なんだけど」

 嫌味の応酬をしながら、今度は肘打ちをしあう私達。歴史は繰り返す。

「それで、どうするの?」

「……まあ、考えてみる。蓮とも相談して」

「わかったわ。結論は、二学期までに出してくれればいいから」

 漆原のその言葉を最後に、やり取りが途切れた。次の話題が出る前に蓮母が私に救援を求めて来たので、話はそこで打ち切りとなった。

「――まあ、蓮が手伝ってくれるなら、やってもいいかな」

 冗談めかして言うと同時に、勢いよくボールを投げた。が、余分な力が入ってしまったらしく、白球が大きな放物線を宙に描いた。蓮は何歩か後退した末、危なげなくボールを取った。

 蓮は相変わらず堂に入ったフォームで右足を大きく振りかぶると、私とは反対に直線的な近い軌道で投球してきた。ズバン、と力強くグローブに収まる。左手が、少し傷んだ。

「なんですか、その理由」

「あれ。もしかして、駄目だった?」

「だ、駄目ってわけじゃ。元々は、そのつもりだったわけですし」

「じゃあ、やってくれる?」

「でも、……いいんですか? 本当に、私なんかで。だって私、今まで散々偉そうな口利いてきましたけど、結局は周囲と折り合いをつけることが、苦手なだけで。でも先輩は、そんな私を否定しないから。それで私は、先輩に付き纏っていたっていうか、甘えていただけで――」

「その発言、矛盾してるよ」私は苦笑しながら言った。「だって蓮、前に自分で言ったじゃん。動機なんて、他人にとってはなんであれ同じようなものなんだって」

「……確かに言いました、けど」

「蓮が内心、どんな思いを渦巻かせたていたのかは知らないよ。だけど私は、蓮がしてくれたことが、嫌じゃなかった。店に押しかけてきたことも、客のくせして妙に絡んで来たことも、人のプライバシーに土足で入り込んで来たことも、変なところで子供っぽくて喧嘩っ早いことも、人の心境ガン無視で自分の意志をゴリ推してきたことも、何もかも。その瞬間はともかく、今こうして振り返る限りでは、嫌じゃなかった。――私にとっては、それだけが全てだよ」

 しばし、呆気に取られたような表情で固まる蓮。すると再び、右膝で天球を突くように大きく足を持ち上げて、両腕を高く、高く、青空を突くようにかざして、ボールを投げた。

 ごう、という空を切る音。反射的に顔面の前に掲げたグローブのど真ん中に、白球は収まった。レーザービームとしか形容のしようのない豪速球。左手が激しく痛む「いった!」と叫びながらグローブ越しに左手を抑え、ぴょんぴょんと跳ね回る。「何するの」と抗議するけど、蓮は悪びれること一切なしに、相変わらず偉そうに腕組して端正な横顔を私へと差し向けて。

「……前から思ってたんですけど。先輩って、実はマゾですよね」

 顔をやけに赤くしながら、横目に私を睨みつけてくるのだった。

「は、はぁ? マゾって、そんなわけ――」

「うっさいです。先輩に発言権はありません。そしてどちらかというと私はサドです。自分で主導権握って、相手のことを自分の意志で動かすのが気持ちいいタイプです」

 サディスト宣言を裏付ける通り、蓮は私の発言を無理やり封じ、そして、こう問うてきた。

「だからその――。先輩は、また私についてきてくれますか?」

 私の返答は、割愛。だってそんなもの、語るだけ野暮というものじゃない――?

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不登校でも入れる生徒会はありますか? 赤崎弥生 @akasaki_yayoi

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