やってやった

 不意打ちだったから、声が上手く出なかった。

 蓮、と。掠れた声で返すことしかできなくて、でもどうにか、目が逸れるのは我慢して。

 永遠にも思えるような、一秒の後。蓮は、鬼気迫るようだった容貌を、不意に綻ばせて。

「……良かったぁ。さっきから呼びかけても何も反応ないなかったから、またいなくなっちゃったんじゃないかと、心配になっちゃって」

 蓮の寄越した反応は、私が予期して望んでいたものとは、全くの別物だった。

 だからこそ、胸が痛かった。心臓がひときわ大きく縮んで、息をするのも苦しくなって。

「……ごめん、蓮。何も言わずに、いなくなって。何も知らずに、逃げ出して」

「っ、本当です! 本当に……本当に、先輩は、酷い人です。我儘だし勝手だしなんでも一人で抱え込むし、そのくせしてメンタル弱いからすぐ潰れるし、自分で自分を救い上げる強さもないのに頑なに救援要請は出さないし。……本当、迷惑千万以外の何者でもありません。そういう手合が一番たち悪いんですよ。猛省して下さい、猛省」

 少しずつ調子が戻ってきたのか、傲岸に両腕を組んで唇をツンと尖らせて眦をキッと吊り上げながら、私に対する罵声の数々をマシンガンのように浴びせかけてくる蓮。

 その全てを、私は甘んじて受け止めた。むしろ、喜んで受け入れた。別にマゾではない。

「……ま、ギリギリで間に合ってくれたみたいだし、今はいいです。時間もないし。もう準備できたみたいなので、あと三十秒で映像とか切り替えますから。それを合図に始めて下さい」

 わかったと頷いて、それから慌ただしく身だしなみを整え始める。何度も何度も突っ走ったし。埠頭でぶっ倒れたりもした。そのせいで今の私の服装は乱れに乱れていた。本当は制服に着替えるべきなんだろうけど、そんな時間はない。そもそも手持ちに制服がない。汚れを払ったり襟元を正したり髪の毛を直したりして、少しでもマシな身なりになるようにと試みる。

 五秒前になったのか、蓮が手でカウントをし始めた。五、四、三、二、一――

 ゼロになって、画面が変わる。

 数日前に足を踏み入れた講堂が、液晶一杯に映し出される。だけどあのときのような伽藍堂の空間ではない。講堂の座席には一階から二階まで、生徒たちが犇めいていた。全員が壇上にあるカメラレンズの方向を、じっと見やっている。

 画面越しにも拘らず、凄まじいほどの圧を感じて、身体が押し潰されそうになる。

 正直、舐めていた。こんなの、校舎内での演説のときとは人数が大違いだし、あのときは基本、私に好意的な態度を示す人たちしか近くにはいなかった。だけど今は、そうじゃない。好奇。期待。軽蔑。嫌悪。私に対するありとあらゆる眼差しが、一斉に叩きつけられてくる。

 私、こんなにも孤独な舞台に、蓮を一人で立たせちゃったんだ。私の知らないところで傷つけさせるような真似はもう絶対にしないって、決めていたのに。

 いや、反省は後だ。そんなことより今は、早く演説を始めなきゃ。大丈夫。原稿は頭に入ってる。何度も二人で練習した。だから――

 マイクをオンにし、一言目を発しようとした直後。

 中途半端に口を半開きにした状態のまま、表情筋が凍りついた。

 ……やっばい。原稿、飛んだ。いや、でも大丈夫。だってこれ、リアルじゃないし。原稿のワードファイルがあるから、それを見れば――、って、そうだ。これ、漆原のPCなんだ。私の演説の原稿なんて、入ってるはずないじゃん。なに、馬鹿なことやってるんだ私は。ええと、だからとにかく、自力で思い出さなきゃどうにもならない。でも、何だっけ。一文字目。一文字目さえ出てくれば、後はどうにかなる。なのにその一文字が、どうしても思い出せない。

 口の中が乾いていく。意味もなく息が荒くなる。心臓の鼓動がうるさくて、そんなどうでもいいことに意識を向けている自分がいて、でもそれはただの現実逃避でしかなくて。

 どうしよう。その言葉だけが、脳内を埋め尽くす。頭の中が白紙に帰る。冷や汗がだらだら垂れて。もうやめたい。もう逃げたい。でもこの期の及んで逃げ出す事もできないし、大体そんなことしたら蓮に対して顔向けできない。だけど、一体どうしたら――

 パッ、と。映画の場面転換のように、画面の向こうに映る景色が、またもや変わる。

 そこにいたのは、蓮だった。

 私だけ見てろ。そう言わんばかりに、自分の姿をウェブカメラの前に堂々と晒して。

 まったくもう、とでも言いたげな憮然とした表情で、私のことを見据えてきていた。

 いつかと、全く同じ状況。だけど今度は、ものの見事に吹き出したりはしなかった。

 漏れ出そうになったのは、笑いというより、涙の方で。だからこそ、余計に困った。

 蓮が何事かを訴えるかのように、唇をパクパクと動かし始めた。口の形からして……なんだろう。いや、わかんないよ。わかるわけないじゃん、読唇術なんて身につけてないんだし。

 それなのに、どうしてだろう。発話の内容はわからないけど、言わんとしていること自体は伝わった気がした。好きにして。喋りたいことを喋ればいい。蓮は多分、そんなことを言っているんだ。原稿なんてどうでもいいから、さっさと言うこと言っちゃって、終わらせましょうよ、それで二人だけで話しましょうよ、と。そんな感じの言葉を、伝えたいのだと思う。

 ……そっか。うん、そうだね。ぶっちゃけ私も、演説なんて放り出して蓮と話をしたいんだ。

 謝りたいこと。訊ねたいこと。分かち合いたいこと。笑い会いたいこと。今までのこと。これからのこと。その他諸々、エトセトラ。

 話しの種は、尽きない。だから、うん。本当に何を語ってもいいっていうんなら。

 視線は正面。真っ直ぐ、蓮を見つめたままで。蓮だけを、視界いっぱいに映して。

「まず初めに、謝罪をさせて下さい。――ごめんなさい」

 本当に、好きなことを喋ってもいいんなら。蓮に聞いて欲しいこととか、知っておいて欲しいこととか、それを素直に言葉にしてみようって、思うんだ。

「開始早々、謝罪なんかされて戸惑ったと思うんですけど、実は私、今日やらかしてるんです」

 私はPCを持って立ち上がる。ウェブカメラをくるりと回して、窓の外側へと向けた。

「えっと、見えてますかね? 見えてると信じて続けますけど、ご覧の通り海です。でもこれ東京湾じゃないんです。瀬戸内海です。私は今、瀬戸内の島にいるんです。綺麗な海ですよね。青々としていて。私は嫌いじゃないんですけど、でも、ある人の談によればここはクソ田舎です。私も否定はしませんが。それはさておき、一体全体なんで島なんかにいるのかというと――、逃げたからです。生徒会選挙から。そして何より、……私のことを、信じてくれた人から」

 PCを抱えて、再び机へ。蓮と一対一で向かい合う。って、あれ。なんか蓮、愕然とした顔をしていない? あ、そっか。今になって、ここが自分の部屋だって気がついたのか。私が蓮母と会ったこととかも、この瞬間に察してるんだ。そりゃ、そんな顔にもなるか。

 まあそれはさておいて、今は演説を進めよう。じゃなきゃ、いつまで経っても終わらない。

「私は今まで、不登校の生徒の権利回復、ひいてはより多くの人たちが無理なく学校生活を遅れるようにと、選挙に立候補したと言ってきました。だけどそれは、嘘です。建前です。私はただ、この選挙を通じて大切な人たちと繋がりを持っていたかった。多分、それだけなんだと思います。だから、ある意味では私が生徒会役員になる資格とか必要性って、全くもってないんです。声を上げたことには意味があっても、私自身が生徒会に入る意味はなにもない。そのことを痛感したから、選挙から逃げました。学校にも金輪際、顔を出さないつもりでした」

 一旦、ここで間を置いた。大切な場面だからというのもあるし、実際にはもう一つ、語るべき内容があるからでもあった。そっちの方は、今はまだ言えないけれど。

「だけど私、気づいたんです。私が生徒会に入らなきゃいけない理由も、ちゃんとあるんだってこと。――救われた、って。こんな私に対して、そう言ってくれた人がいたんです。自分では良くわからないんだけど、その人によると私って、話を聞く才能があるらしくて。陰気で臆病なたちだから、人の話に口を突っ込むのが苦手で、それが逆にいいとかで。でも、だからこそ私に愚痴とか不満とかを吐露してくれた人たちが沢山いて、そういう人たちは、自分で言うのも何だけど、相手が私だったから吐露してくれたのかもしれないなって、そうも思って。だって、言っちゃなんだけど、生徒会なんて陽キャの巣窟みたいなイメージありません? 陰気な発言しようものなら一発でぶっ叩かれる、みたいな。だからこそ、私みたいな不登校でネガティブなやつが一匹くらい紛れ込んでいたほうが、そういう後ろ向きな発言とかもしやすかったりするのかな、って。そんなふうに思ったんです。それで、こうして土壇場で戻ってきて、話をさせてもらっています。それが私を応援してくれた人達への、誠意でもあるだろうから」

 蓮は特に何かを訴えるでもなく、黙念と私の話に耳を傾けている。これでいい、ってことなのかな。軽く胸を撫で下ろしながら、話を続ける。

「とはいえ、不安もあります。本当に当選しちゃったらどうしようって、実は今も心臓がバクバクで。こんな候補、皆さんとしては心底情けないかもしれないですけど、それでもいいかなって投票してくれる人がいれば、嬉しいです。勿論、プレッシャーもあるんだけど、それでもやっぱり、嬉しいです。……ええと、言いたいことはこんなところ、ですかね。ここまで来たので言っちゃいますけど、実は私、暗記したはずの原稿が飛んじゃったんですよね。だからこれ、全部アドリブです。それ自体は問題だけど、でも私、今、初めて生身の言葉で話ができた気がしていて。これはこれで良かったのかなって、思わなくもないです」

 そのとき、蓮が矢庭にペチペチと手首を叩くジェスチャーをし始めた。

 やけに必至の形相をしているものだから、無視することもできない。なんだろう?

「――って、あ⁉ もしかして、時間⁉ うっわ、ごめんなさい。思いっきり時間超過してますね。ええと、……と、とにかく皆さん! 気が向いたら投票してくれると嬉しいです!」

 適当な言葉で纏めて、頭を下げる。そのまま五秒ほど固まって、ゆっくりと顔を持ち上げる。

 蓮が、何か言いたげな容貌でじっと私のことをガン見していた。音声をオンにして、「会場側のプロジェクターとスピーカーは、もう切ってますから。お疲れ様でした」とだけ言うと、映像を会場全体が映るものへと切り替えて、マイクもカメラもオフにしてしまった。

 素っ気ない反応だな、とちょっとだけ不本意に思う。でも、当然と言えば当然か。直前演説はまだ終わっていないわけだし。私もぼさっとしてないで、漆原にPC返さなきゃ。

 リビングに下りると、漆原と蓮母がスマホの画面をじっと覗き込んでいた。スマホからミーティングルームに入室していたらしい。私の演説も見ていたようで、お疲れ様と言ってきた。

「グダグダこの上ない演説だったけど、ま、あれはあれでいいんじゃない? 青井らしくて」

「なにそれ、皮肉?」

「そりゃあね。私と青井って、政敵だもの」

 飄々と言って、漆原が肩を竦める。ふん。相変わらず、愛想の欠片もないやつめ。

 ま、いいや。今は、こんな奴に構っている場合じゃない。私は蓮母に断って、スマホをWi-Fiに繋げた。堰を切ったように大量のメッセージが端末に流れ込み、狂ったようにぶるぶると連続的に震えだす。宛先は九十九パーセントが蓮。残る一パーセントが漆原だった。

 はぁー、と。長ったらしいため息が出た。目を通すのが、心の底から恐ろしかった。でもそれが礼儀だよなと自分に自分を言い聞かせ、トーク画面を開こうとした、その刹那。

 コール音をかき鳴らしながら振動するスマートフォン。ビクリと肩を震わせて、でも気づけば口元を緩ませている自分がいて、ちょっと出てきますと声をかけてから、外に出た。

 スマホを胸に抱きながら、一度、小さく深呼吸。それから、発信ボタンをタップした。

「もしも――」「やりやがりましたね、先輩」

 初手で怒鳴られた。どうやら私はこの後、こっ酷く叱られるらしい。

 それでこそ蓮だよな、と私は笑った。言うまでもなく、蓮は怒った。

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