最初の救援は役立たず2
絶望的な状況を前にして、私たちはもはや悟りを開きつつあった。どうにもならないのだから互いに罵り合うだなんて無益で醜いことはやめ、仲良くお茶でも飲みながら世界の終わりを迎えましょう、と。そんな仏じみた平和思想に支配されていた。まさに平安、平穏の極地。
そのとき、灰色に塗りたくれた静穏を破壊するかのように、呼び鈴の音が鳴り響いた。
「夢ちゃーん! さっき夏みかん忘れていったでしょー! 届けにきたんだけど、いるー?」
ハッとした。その発想に至るや否や、訪問者は救世主へと格上げされた。「っ、います! いますいますいます!」私は叫びながら玄関へと突っ走った。漆原も私のただならぬ雰囲気を感じ取ってか、後ろから付いてきた。扉を開けて、「あ、よかった、帰ってて」ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべる蓮母を前に、私は猛烈な勢いで頭を下げた。そして言った。
「Wi-Fi貸して下さい」
――というわけで、舞台は再び蓮の実家へと舞い戻る。
私と漆原は横並びになる形でテーブルについた。既に直前演説の開始予定時刻を回っていたので、超特急でWi-Fiに繋げてミーティングに入室した。蓮母は私達の数歩後ろに佇んで、PCの画面をさり気なく覗いていた。
無事に接続されるや否や、画面の向こう側に表れたのは山口先生だった。やけに薄暗い。体育館の舞台裏だろうか。つまりそこは禁煙であり、にも拘らず堂々と開封済みの煙草の箱を手にしているこの人は、ただちに罷免されるべきだと私は思った。
「あ、やっと繋がった。もう、ヒヤヒヤさせないでよ。ジョジョ見て一時期練習してた、口の中に煙草入れる隠し芸で、間を持たせる羽目になるかと思った」
煙草をポケットへと仕舞いながら先生が言う。この人のボケに一々ツッコミを入れているとすこぶるテンポが悪くなるし、というか今はそんな場合でもないのでスルーする。
「それで先生、演説はどこまで?」漆原も私と同じ方針らしく、用件だけを口にした。
「さっき比良の演説が終わったところ。ちゃんと立派にやってたから、安心なさい」
「そうですか」ホッとしたように息を漏らす漆原。「今は、誰が話してるんですか?」
「羽賀だよ。羽賀の応援演説。だからこの後、すぐに青井の演説になるんだけど――」
できる? と。そう問いかけるかのように、画面向こうの先生の視線が、僅かに動いた。
私はこくんと頷いた。ここまで来て逃げ帰ることはしない。でも、それはそれとして。
「……あの。本当に、ごめんなさい。色々、お騒がせしましたよね」
「そんなのいいよ。お詫びで菓子折り持ってきてくれたら、全部チャラ。それより、準備は大丈夫なの? もうすぐ羽賀の演説終わるから、何かやるんなら今のうちだけど」
「いえ、このままで問題ないです。特に環境音とかもありませんし」
「部屋の中に人がいても、大丈夫?」漆原が矢庭に口を挟んだ。「青井はいつも、自室に一人の状態で演説やら討論会やらをやってきたわけよね。普段どおりの環境の方が良いんじゃない?」
「……言われてみれば。確かに、どちらかというと一人の方がやりやすいかも」
「じゃあ、蓮ちゃんの部屋使う?」
背後に佇んでいた蓮母が、ぽんと手を打った。え、と反応したきり、私は固まる。
「あ、羽賀の演説終わったみたい。私、今から会場の方のセッティングしてくる。五分弱はかかると思うから、それまでになんとかしといてね」
それだけ言って、山口先生はPCを舞台裏に放置したまま、どこかへいなくなってしまう。
「ささ、こっちだから。時間ないんでしょ、急いで」
ちょいちょいと手招きしながら蓮母が歩き出す。いやでも、と躊躇する気持ちがあって、私は中々その後を追うことが叶わなかった。グズグズと、椅子の上に居座ってしまう。
「気になる? 私達がリビングから出る形にした方がいいなら、それとなく伝えてくるけど」
耳打ちしてきた漆原に、小さくかぶりを振って答える。PCを抱えて、席を立つ。
「ううん、大丈夫。それは流石に申し訳ないから。部屋くらいなら問題ないよ」
「わかった。じゃあ、頑張ってね」
端的な応援を、ゴムボールでも手渡すくらいのノリで、ぽんと放り投げてくる漆原。私はやっぱり軽い気持ちでそのボールを受け取って、どうも、と軽薄な返答を放っておく。
蓮母の後を追って、二階に上がる。トントントン、と軽快な足音につられるように胸の鼓動が早くなる。蓮の部屋は二階の奥だという。蓮母がドアノブに手をかける。押し開かれた向こう側に広がったその部屋は、その景色は。
蝉の抜け殻。テナント募集中の空き店舗。捨て置かれた渡り鳥の巣。
そんな言葉が、ぽつん、ぽつん、と意識の中に浮上した。
「じゃあ、私は下で待ってるから。終わったら下りてきてね」
ばたん、と扉が閉まる音がする。そうして一人、部屋の中に取り残される。
部屋に至るまでの数秒間、私の脳内にはめくるめく雑念が、雪解け水で水量を増した河川のように、どっと迸っていた。大丈夫とか言ったくせして、かつての蓮の残り香を感じたらどうしようとか、アルバムとか置いてあったらすごく見たいなとか、中学ではどんな制服着てたんだろうとか、好きだった本とか漫画とか絵本とか置いてあったりしないかなとか、家具とか小物の趣味はどんな感じなんだろうとか、いくつもの雑多な想念が頭の中を駆け回っていた。
要は、蓮のことをメチャクチャに意識していた。意識しまくっていた。
こんなときに何考えてるんだってやじが聞こえてくるようだけど、でも、仕方ないと思う。家族以外の人の部屋に入るのなんか、小学校のとき以来だし。ここまで明確に好きを意識した相手の部屋に入るのなんて、生まれて初めてのことなわけだし。
だけどその密かな胸の高鳴りは、蓮母がドアを開けた瞬間に、夢のようにかき消えた。
蓮の部屋に、かつての生活の匂いや足跡を感じさせる物品は、何一つ残ってなかった。
本棚はスカスカで、入っているのは中学時代のものと思しき使い古した教科書と参考書くらい。どちらも私が使っていたのと似たようなもので、ありきたり。本や漫画の類は一切皆無。ベッドはマットレスが壁に立てかけられているせいで使用感ゼロだったし、壁にポスターやカレンダーが飾られていることもなかった。賞状やトロフィー、卒業アルバムの類もない。部屋の隅にぽつんと置かれた勉強机には、写真立てどころか消しゴムのカスすら転がってない。
前に見た、今の私室の散らかりようからは考えられないほど、小綺麗な部屋。
私には家を出た経験がない。一般に、荷物をどれくらい持ち出したり処分したりするものなのかは、わからない。だけどこの抜け殻のような部屋からは、何があっても絶対に帰らない、帰ってやらない、という執念にも似た強い意志が焼き付いているようで。
蓮の部屋は空っぽだった。無ではなく、空。空虚であり、空疎であり、空隙であり、空白。
蓮の存在はどこにもないのに、透明な虚ろの中に、研ぎ澄まされた蓮の不在が満ちていて。
……だから、だろうか。こんなにも強く、切実に、蓮のことを恋しいと感じてしまうのは。
蓮に、会いたい。顔が見たい。声が聞きたい。馬鹿じゃないんですかって、罵られたい。なに逃げてんですかしばきますよって、脅されたい。あ、言っておくけど、勿論私はマゾじゃない。だけど、あの小綺麗な顔を惜しげもなく歪めて、ふんと偉そうに鼻息を漏らして、生意気な台詞を吐いてくる姿が、蓮には合っていると思うから。
私が好きになったのは、そういう蓮で。それこそが、蓮で。
ああいや、もしかしたら順番があべこべで、好きになったからこそ、そういう小生意気でムカつくところも、可愛いな、好きだなって、思えるようになったのかもしれないけれど。
まあ、別にどうだっていい。過程にしろ、動機にしろ、どんなものであれ大差はない。
確かであり大切なのは、ただ一つ。私は、蓮のことが好き。それだけのこと、だから。
……決めた。この選挙が終わったら、私はちゃんと蓮に向き合おう。あの子が今まで見せてくれなかったもの。見せないようにしてたもの。それを、ちゃんと知りたいって思った。どうでもいいことだって沢山知りたい。蓮が好きなもののこと、好きな音楽のこと、好きな食べ物――は、もう結構知っちゃってるからいいとして、休みの日は何をしてるのかとか、小説や漫画はどんなのが好きかとか、映画はどういうのに興味があるのかとか。
色んな蓮を知りたいし、見たいと思った。あの子の何もかもを知って、その全てを愛おしみたいと、何の衒いも捻りもなしに感じている自分がいた。
――って、待った。なんか私、ものすごく死亡フラグじみた思考に走ってないか? 全体的に恋愛脳っていうか、さっきから蓮のことしか考えてない気が。落ち着け私。一旦、冷静になれ。脳内のTo Doリストを確認。一番上に出ているのは直前演説。今やるべきことはそれだ。
大人しく勉強机に腰掛けて、畳んでいたノートPCを再び開く。
画面が表示された瞬間、私は、呼吸を止めていた。
「――せん、ぱい?」
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