最初の救援は役立たず1

 島のお祖父ちゃんの家についた頃には、私の体力も自力歩行が可能となるくらいには回復していた。ひとまず漆原を客間に案内した後、冷蔵庫から冷えた麦茶を持ってくる。座卓の上に二人分を並べたところで、改めて漆原と対峙する。お祖父ちゃんは、公民館にて週一で開催されるシニア麻雀会に出かけているところなので、家の中には私と漆原の二人しかいなかった。

 つまりはこいつと二人きりだった。だからなんだ、という話だった。

「それで。結局、何しに来たわけ? 実は漆原もこの島の出身でした、的な落ちじゃないよね?」

「違うわよ。私は、その。……謝罪しに来た、というか。まあ、色々あるんだけど、一番の目的は、青井に演説をさせることね」

 漆原が鞄からノートPCを鞄から取り出した。ウェブカメラやマイクも持参していた。準備は万端、ということらしい。

 正直、ありがたい。船に乗り遅れた時点で、直前演説をするのは不可能だと思っていたから。

 でも、理性ではなく精神的な部分で、その善意を素直に受け取ることができなかった。

「それ、本気で言ってるわけ? あれだけの発言しておいて、心変わりでもしたっていうの?」

「まあ、そんなところ」小さく肩を竦める漆原。

「なにそれ。どういう風の吹き回し?」私はジト目で漆原を睨む。

「どういうって、単純にぶたれたから。それで、流石に目が覚めたっていうか」

「は? ぶられたって誰に――」かは火を見るよりも明らかだ。「え、まさか蓮、殴ったの?」

「殴ったっていうか、平手打ち。でも、容赦ない全力だった。まさか十七になってまで、人前で泣きそうになるとは思わなかったわ」

 ……ああ。そういえばあいつ、次はグーパンじゃなくてビンタにするって言ってたっけ。

 つくづく有言実行を体現したやつだと思い知る。別に褒めてない。

「……えっと。なんというか。それは、申し訳ない。ごめん。本当に」

「なんであなたが謝るのよ。青井に頭下げられたら、私の立つ瀬がないじゃない」

「だけど。いくらなんでも、暴力はいけないと思うから」

「だから、謝らないでって。別にいいのよ。もう羽賀と話はついているから。諸々が終わったら、報復で一発ビンタする約束してきた。それでチャラってことになってる」

「それもそれでどうなの?」

 こんな血なまぐさい連中が次期生徒会の候補だなんて、いよいよ我が校も世紀末じみてきた。

「とにかく時系列順に経緯を話すとね。羽賀が昨日、青井がこっちに帰ったって話を先生から聞いたみたいなの。それで、私との間に何かあったんだろうって勘づいて、問いただしてきた。さあどうだかって白を切ったら、あの子、私の胸ぐら掴んでビンタかましてきて。それから、……まあ羽賀の名誉とコンプライアンスのために詳細は伏せるけど、聞くに堪えない暴言の数々を雨あられと投げかけられた。まるで罵詈雑言の大英博物館だったわ。でも、そのおかげで私も頭が冷えたっていうか、流石に冷静になったっていうか――」

 漆原は数瞬考え込んだ後、どこか切なげに目を伏せると、ゆっくりとかぶりを振った。

「いや、違うわね。きっと、私は羨ましくなったんだ。青井のことが」

「……羨ましい? なにそれ、どういう意味?」

「今の青井と羽賀の立場が、私と朝顔にそのまま置き換わったとするじゃない? そのとき、朝顔が私のために青井を殴ったりすることはないだろうな、って。そう思ったのよ」

 ――ああ、と。その一言で、私は全てを了解した。

 別段、驚きはなかった。言葉にこそしなかったけど、薄々勘づいていたことではあったから。

「いいわね、青井は。羽賀に、あそこまで深く慕われていて」

「……別に、よくなんて」

「わかってる。だからこそ辛いんでしょ。羽賀があそこまで無邪気に青井に接してくるのは、裏を返せば、青井を全くもって恋愛対象として意識してないことの表れだもの」

「いちいち言葉にしないでよ。本当、性格悪いなぁ」

「お生憎様。私、青井のこと好きじゃないから。気遣う気になんてなれないの」

 漆原が肩を竦める。とにかく、と真面目な声音で話を戻して。

「青井を羨んでる自分に気づいた瞬間、私の中で、何かが一気に壊れたの。突っ張ってる自分があまりにもみっともなくて、それに耐えられなくなった。私も所詮、大それた理由があって生徒会をやっているわけじゃないから。それどころか青井と同じ。でも朝顔って、アンパン顔したヒーロー並の善性の塊じゃない? 隣にいると、なんだか自分の浅ましさとか卑小さとかを見せつけられてるみたいで、苦しくなることがあって。だから私は、青井のことがどうしても受け入れられなかった。要は、ありがちな同族嫌悪ね」

「……自分のこと嫌いとか言っておきながら、よくそこまで赤裸々に胸中を晒せるね」

「それが青井への誠意だと思ったからよ。まあ、誠意なんて結局は自己満足でしかないんだろうけど、だからといって、場所を取るわけでもないんだし。押し付けさせてもらっても、迷惑にはならないでしょ? ……って、何? その、あからさまに不服そうな顔は」

「別に。なんていうか、つくづく鏡みたいな奴だなって、嫌になっただけだから」

 なによそれ、と不可解そうに眉をひそめる漆原。でも、絶対に説明はしてやらない。

「というか青井、なんだかキャラが変わってない? ここまで投げやりな態度取る人だっけ」

「素はこんなものだよ。大体、他人への追従って、嫌われたくない、好かれたいっていう心理に端を発するものでしょ。漆原には、別に嫌われたくなくないし。というか既に嫌われてるし。そりゃ、開き直りもするでしょ」

 頬杖を付きながらぶっきらぼうに口にする。それもそうね、と漆原が素直に頷く。

「開き直ったっていうんなら、私からも訊いていい? 青井が学校来なくなった理由って、この辺りの事情が関係してるわけ?」

「まあ、間接的にはね。教室で百合小説読んでたら、クラスメイトから女子が好きなのか、って訊いてこられたことがあって。それで、……なんか、色々と疲れたっていうか」

 去年の梅雨どきのことだ。放課後、私が教室で読みかけの小説を終わらせてしまおうと珍しく居残っていたら、クラスメイトの一人にいきなり声をかけられた。そして、こう訊ねられた。

 ――青井さんって、いつもそういうの読んでるけど、もしかして女の人が好きなの?

 今となってはある程度、冷静に受け止め直せてもいる。だけど、言われた当時は結構なショックだったっていうか……なんて、言えばいいのかな。あのとき私は、怒っていたのか。恥ずかしかったのか。怖かったのか。傷ついたのか。正直、今となっても上手く言葉で言い表せない。けどなんだか、頭がかぁっと燃え上がるみたいに熱くなって、居ても立っても居られないような、目につく物を手当たり次第ぶち壊してやりたいような、それでいて頭をかち割って死んでしまいたいようでもあって、今すぐにでも走り去ってやりたい気分でもあって。何をどうすればいいのかわからなくって、結局、下唇をきつく噛みしめることしか、できなかった。

 ――あ、いや、答えにくかったら答えなくてもいいんだけど……。

 ――別に。

 それだけ言うと、私は乱暴に席を立ち、本を鞄の中に放り込んで足早に教室を立ち去った。

 次の日以降、その子がその話を蒸し返してくることもなかったし、噂になっているということもなかった。教室の中は、怖いくらいにいつも通りだった。

 私の胸の内だけが、下水の底で対流するヘドロのように、グチャグチャにかき乱されていた。

 私はただ、好きな小説を読んでいただけ。なのにああして、色眼鏡で見られなきゃいけないんだ。というか、他の子たちも皆、そういう目で私のこと見てたわけ? 私って、皆からそういう認識されてるわけ?

 ひとたび意識してしまうと、駄目だった。自分が周りにどう見られているか。そればかりが気になって、今まで以上に周囲の視線や話声に敏感になってしまった。教室にいるだけでも息が詰まった。昼休みには、人のいない場所で一人で昼食を取るようになった。誰かの話し声が聞こえた瞬間、ビクッと肩が震えるようになった。制服を着ている間は、絶対に本を読まなくなった。だけどどうしても、自分自身のそういう感情がふっと頭をのぞかせてくる瞬間が時折あって、その度に誰かに見透かされていたらどうしようって、恐ろしさのあまり身の毛がよだった。同級生に対してそういう目線を一瞬でも向けてしまったことが、なんだかひどく厭わしく、罪深いことのように思えて、いつも決まって自分を責めた。手のひらに爪を突き立てた。

 そうやって些細なことで馬鹿みたいに神経を震わせて精神を摩耗させていくうちに、段々と嫌気が差してきた。疲れたし、辛かったし、苦しかった。勉強なんて家で一人でもできるのになんでこんな思いしてまで学校行ってるんだろうって、阿呆らしくもなってきた。

 一学期の間は、どうにか意地で乗り切った。夏休み中は、少しは気が休まって楽だった。だけど九月は近づいてくるに連れ、どんどんと気が滅入っていった。

 九月一日の朝。行ってきます、と何食わぬ顔で玄関を出た。

 扉の閉まる音を聞いた、次の瞬間。私の脚は、凍りついたみたいに微動だにしなくなった。

 唖然とした。自分の脚なのに。自分の身体のはずなのに。何故か言うことを聞いてくれない。こんな感覚は初めてだった。怖かった。恐ろしかった。動いて。ねえ動いて。早く行かなきゃ遅刻する。誰かに見られたら変に思われる。首元から冷や汗がだらりと垂れた。焦燥だけがただただ募って、息が上手くできなくなった。行かなきゃとわかってるのに、歩かなきゃと念じているのに、足が少しも持ち上がってくれなくて、背中がべったりと汗で濡れてそれがやけに気持ち悪くて、次第に立ち続けることにも疲れ果ててきて、気づけば私はその場にしゃがみ込んでいた。どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしよう。頭の中を埋めるのはただその一言だけだった。途方に暮れる思いになって無意識に頭をグシャグシャと掻きむしった。顔面を両手で覆った。ひどく心細い気持ちになって、わけもわからず泣きそうになってしまって、そんな自分がなんだか無性に情けなくてもうどうすればいいのかわからなくて、いつの間にか両目から涙がこぼれているのに気づいてそれでますます混乱してやばい涙止めなきゃって焦ってでも止めようとすればするほど余計に目頭が熱くなって嗚咽さえ漏れてきてえっぐえっぐってうるさくてだから息を止めてみたけど涙も声も止まらなくてどうにもならなくてもういっそ目でも潰せばいいんじゃないかと思い始めたところになって「ちょっと、どうしたの⁉」

 私から五分遅れで家を出たお母さんが、玄関前で蹲っている私に気がついた。

 お母さんは最初、身体の心配をしてきた。だけどすぐに違うと勘づいたのか、「とりあえず、うちに入ろう。大丈夫だから」とやけに優しげに語りかけてきた。

 私はお母さんに連れ添われながら、家の中にゆっくりと戻った。

 そのとき抱いた心情は、恐怖が八割。これからどうなっちゃうんだろう。怒られるのかな、失望されるのかな、諭されるのかなって、怖かった。もう一割が罪悪感。ちゃんとできなくてごめんなさい。良い子でいられなくてごめんなさい。いい歳して迷惑かけてごめんなさい。

 そして残りの一割が、安堵。ああ、これでやっと楽になれる。もう苦しまなくて済む。そう思うと、少しだけ胸が楽になるのを感じた。多分それは、ずっと私が望んでいた現実だった。

 だけど同時に、ここまで追い込まれなければ口にすることさえ叶わなかった、願望だった。

 リビングのソファに並んで座って、私はお母さんの隣で顔を覆いながら泣いた。疲れ果てて眠ってしまうまで、涙が枯れることは一切なかった。顔をずっと覆っていたから、お母さんがどんな顔をしてたのかはわからない。でも、嗚咽を漏らす私の背中を何時間もさすり続けてくれていたこと、そしてその手のひらの感覚だけは、今もよく覚えてる。

 それから一ヶ月くらいは、同じ学校の子と鉢合わせたりするのが怖くて、外に出ることさえ叶わなかった。でも、学校にいかなくなったことで徐々に精神も落ち着いてきた。教室にこそ入る気はしなかったけど、必要とあらば学校を訪れることもできるようになった。気晴らしにアルバイトを始めてみたりもした。私は徐々に、不登校としての生活様式に順応していった。

 そして、すっかり不登校が板についてきた、今年の四月。

 私は蓮に見つかって、生徒会選挙に立候補して、なんやかんやあって今に至る。

 これが私の、不登校遍歴の大筋だった。とはいえ、こんな長々とした自分語りを漆原に聞かせる気にはなれない。私は澄まし顔で麦茶を飲んで、大したことないですよ、って顔を繕う。

 なるほどね、と漆原が得心のいったように頷いた。その安っぽい反応にホッとする。下手に深刻な表情をされるよりかは、話半分で軽い相槌を打たれるくらいが、ちょうどいい。

「逆に、漆原は葛藤とかないの? 合宿のときとか、比良とお風呂、一緒だったでしょ」

「そりゃあ気にならなくはないけど、小学校の頃から同じ部屋で着替えさせられたりしてるから。多少は慣れたっていうか、そういうものだと割り切ってるっていうか」

「……やっぱ、私が意識しすぎなのかな」

「その辺は人によりけりじゃない? 青井に抵抗があるっていうんなら、お風呂とか着替えのときとかは、それとなく理由をつけて距離を置くしかないんじゃない? 私に協力できることがあれば、言ってくれれば気を回すけど」

「それは、どうも。……えっと。じゃあ、もし次があれば、よろしく」

 私は頬をポリポリと掻きながら、答える。ん、と漆原が小さく首肯して返事する。

 しかし、なんだろう。ものすごく奇妙な感覚だ。こんなふうにして自分の性的指向について誰かと話をすることになるなんて、思ってもみなかったから。それも存外、軽い気持ちで。

 ……ま。私は漆原が嫌いだし、漆原も私が嫌いだからな。お互いに気を回す必要がないから。

 取り敢えず、そういうことにしておこう。

「で、話を元に戻すけど。要するに漆原は、蓮にビンタされた結果、自分の言動を顧みて、尻拭いも兼ねてわざわざこっちまで足を運んで、私に演説するよう焚き付けに来た、ってこと?」

「概ねそんなところ。強いて補足するなら、最初は羽賀が直々に乗り込もうとしてたってことかしらね。学校経由で居場所突き詰めたのは、羽賀だったし。でも応援人までいないとなると色々不都合があるだろうから、とめておいた。青井が逃げた理由を知ってるのも私だったし」

「なるほどね。ところで、随分と呑気に話し込んじゃってるけど、時間、大丈夫なの?」

「ええ。まだ問題はないわ。生徒会長に、挨拶で二十分は持たせるよう脅してきたし。でも、そろそろミーティングに入っておくくらいのことはした方がいいか」

 漆原がノートPCを開いた。起動して、外部デバイスのセッティングを手早く済ませた。すると漆原は、平然と、泰然と、さもそいつの存在が当然であるかの如く、真顔でこう訊ねた。

「ごめん青井、Wi-Fiのパスワード教えてもらっていい?」

 愕然とした。「……は?」と間の抜けた声で訊き返すことしか、できなかった。

「だから、Wi-Fiのパスワード。ネット繋がなきゃ、通話できないじゃない」

「……えっと。でも漆原、スマホにSim入ってるよね? それでテザリングとかできないの?」

「ああ、それは無理。さっき通信制限かかっちゃったから。厚かましいこと言っているのは承知だけど、もったいぶらないで教えてよ。早くしないと、直前演説始まっちゃうわよ?」

「うちにWi-Fiはありませんが?」

「…………………………………………………………はい?」

「高齢者の一人暮らし宅に、Wi-Fiなんてありませんが?」

 しばし、無言。どこかで鳶が鳴いていた。ぴーひょろろー、ぴーひょろろー、と。

「あ、でも! フリーWi-Fiがあるわよね⁉ コンビニとかファミレスとかカフェとか――」

「瀬戸内の島には、コンビニもファミレスもフリーWi-Fi完備の喫茶店も、ありませんが?」

 再びの無言。鳶の鳴き声だけが間断なく沈黙を埋め、私達の間には絶望だけが降り積もる。

 物語のお約束。最初の救援は役立たずであり、思わせぶりであり、約束された犠牲者である。

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