位置について2
屋外に飛び出た瞬間、蒸し暑い外気が徒党を組んで押し寄せてきた。殺人的な陽光が肌を焼き、頭皮を炙り、網膜を焦がす。くらりと目眩がしそうになって、辛うじて踏みとどまって、陽炎登る石畳の坂道を全力で蹴って、飛び跳ねて、過疎地域なのをいいことに、さっきの自問に対するアンサーを全力で世界に叩きつけてやることにした。
「言えるわけ無いだろ、そんなの……っ!」
だって、火を見るよりも明らかじゃんか! 折角の端正な容貌を悪鬼みたいに激しく歪めて、アホなこと言わないで下さいって吐き捨てて、全力でグーパンしてくるところがさ――!
「私はマゾじゃないんだよ……! あいつにグーパンされるのなんて、死んでも御免だ……!」
大体あいつ、言ってたじゃんか。動機なんてブラックボックス。他者にとってはなんでも同じ。なら私が蓮の無茶振りに付き合い続けた理由とか、選挙に立候補した本当のわけとか、そんな下らない感情論でうじうじ悩んだところで、ただの自己満足でしかないじゃんか。そもそも考えてもみろ。動機が不純なことより何も言わずにいなくなる方が、蓮に対しても私の支持者に対しても、山口先生とか比良とかその他大勢に対しても、よっぽど不義理で不誠実じゃん。
何度も何度も折り返す細い路地を、飛び降りるようにして駆け抜ける。着地の度、膝に割れるような衝撃が走る。磯臭くて重たい空気が背後霊のように纏わりついて、私の身体を押し留めてくる。それを振り払うかのように、息を大きく吐き出して、力強く大地を蹴って、宙を飛んで、着地して、そしてまた全力で蹴る。後はそれの繰り返し。アルゴリズム。数学的帰納法。
どうして私は、走っているのか。現実から目を逸らすためか。何も考えられなくするためか。
――いや、違う。私は今、現実に向けて走ってるんだ。現実の何かのために、現実の世界の中を、現実の肉体を酷使しながら駆けているんだ。だからこれは、絶対に現実逃避なんかじゃない。……え? 一級現実逃避師の称号はどうしたって? 馬鹿言うな! そんな資格があるわけ無いだろ! 欲しけりゃくれてやる! この世の全てはそこに置いてないけどな……っ!
で、結局なんで走ってるのかっていうと……えっと、なんでだっけ? あ、そうだ、思い出した。演説をするためだ。演説は元からオンラインでやることになっていて、私の手元には生涯の伴侶たる魔法の板がちゃんとある。今は二十一世紀。ここは日本。技術大国だなんて口を避けても言えない体たらくぶりを発揮中とはいえ、辺境の孤島のような例外を抜きにすれば、フリーWi-Fiはどこでも飛んでいる。ひとたび船に乗ってしまえば、次に大地を踏んだとき、そこは神戸だ。日本有数の港湾都市にして政令指定都市。小学校の社会科の知識。フリーWi-Fiなんて、消波ブロックの隙間に潜むフナムシ並にうじゃうじゃと、至る所に乱舞している。だからつまり、船にさえ乗ってしまえば、私はあいつとの義理をギリギリのところで果たすことができるんだ。……あ! 言っておくけど別に洒落じゃないから! 息せき切って走ってる最中に、そんな高尚な言葉遊びしてる余裕とかないから! そもそも高尚じゃないかもだけど!
路地を抜けて海沿いの広い道に出る。右手に海を見やりながら、私はなおもひた走った。ギラつく日差しで目の奥が焼け焦げる。視界がぼやける。並走する軽トラの音が聞こえない。自分の呼吸と心拍の音だけが全て。吐く息に血の味が混ざりだす。首元の血管が触れなくてもわかるくらいドクドクと脈打っていて破れそうで怖くなる。……あー、というか今、何時だろう。船が来るまで、あと何分だ? わからない。スマホを見る時間が惜しい。というか、そんな体力がない。小学校以来、衰弱の一途を辿る肉体がさっきから限界を訴えている。うるさい、たまには言うこと聞け! 日頃サボらせてやってるんだから、こんなときくらい黙って働け!
視界が本格的に霞みだす。脚が千切れそうになる。心臓が破れそうになる。そのとき、港の方に船影が見えた。人が降りてる。ちょうど今、到着したところみたいだ。出港まではあと十分。間に合うかどうかはギリギリだった。いや、間に合う。絶対間に合う。ギリギリ間に合う。多分間に合う。だからほらサボってないで脚動かせ! 船に乗ったら全力でぶっ倒れていいから今は走れ。さっさと走れ。死ぬ気で走れ。死んでもいいから走れ。走れ走れ走れ走れ――!
小学校の体育で習うこと。徒競走では、本当のゴールの十メートル先をゴールだと思いましょう。つまり、ゴールは港の十メートル先。でも、そこは海だった。
船ではなかった。
既に船では、なくなっていた。
酸欠。ホワイトアウトする視界。私は海に突っ込む前に埠頭に崩れ落ちた。そして倒れた。
……船は、行ってしまった。
私は、メロスにはなれなかった。
さもありなん。私はメロスではないのだから。
……ああ。やっばい。本格的に、死にそう。喉、痛い。血、吐いてるみたい。心臓、狂ってる。頭、痛い。というか脳みそ、おかしくなってる。自分で、何考えてるか、わかんない。というか、地面、暑い。焼けそう。日焼けじゃなくて、じゅうじゅう焼けそう。うわ、あっちで猫寝てる。あいつ、熱くないのかな。すご。毛生えてて、私より暑そうなのに。根性、あるな。
「……あなた。なんで、こんなところで死んでるわけ?」
あ、待って。割りと冗談じゃなくヤバいかも。なんか、幻覚見え始めたんだけど。
「……あれ。でも、幻覚って、喋るものだっけ」
「誰が幻覚よ。世迷い言吐いてないで、さっさと立ってくれない? 私まで変人だと思われる」
「……いや、でも。仮に、現実だとして、なんで、漆原が、ここにいる、わけ?」
「事情は後。取り敢えず、あなたの祖父の家まで連れて行って。だからほら、早く立ってよ」
「あの。今の私、どっからどう見ても、満身創痍だと、思うんですけど」
漆原は、はぁ、と息を吐き出した。心底嫌そうな顔をしていた。私の脇に腕を差し入れると、「ほら行くわよ」と口にして、私もろとも、ゆっくりと立ち上がった。
ちゃんと触れられた辺り、あながち幻覚というわけでもないらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます