位置について1

 回想を打ち切ると同時に、甘ったるい匂いが鼻を突いた。

 目の前に置かれたグラスの中身は、オレンジジュース。テーブルの差し向かいの椅子を引いて腰掛けたのは、言うまでもなく蓮のお母さんだ。

 あの後、私は蓮母――蓮のお母さんだと長いので、以下そのように呼称――から、家に来ないかと声をかけられた。家とは羽賀家宅のこと、つまりは蓮の実家である。「妹から定期的に訊いてはいるんだけど、やっぱり、学校でのこととかはよくわからないから」という大義名分だった。私としては今更蓮に関わるのにも、本人の知らないところで背景を探るような真似をするのにも、抵抗があった。だけど蓮母から直々の頼みを断るのも無碍に思えた。……ああいや、そんなのは言い訳か。本当は私自身が、知りたいと思ったんだ。素性とか背景とか動機とか、蓮が胸の奥底にひた隠して決して見せてくれなかった、本物の何かを。

 勿論、怖いって気持ちもある。自分の愚かさとか罪深さを思い知らされることになるって、そんな気がして。でも真実に気がついてしまった以上、見て見ぬふりをして蓋をして、何事もなかったように生活を続けることもできそうになかったから。私は、狡くて弱い人間だから。

「今更だけど、飲み物ってオレンジジュースで大丈夫だった? 他にはグレープジュースとコーラとファンタとカルピスとサイダーとミルクティーとココアといちごミルクがあるんだけど」

「あ、このままで大丈夫です」家庭環境が味覚に及ぼす影響って甚大なんだなぁ、と思った。

 飲み物も出てきたところで、頭の中で整理しておいたアウトラインに従って、蓮と出会ってからの経緯を端的に語って聞かせた。蓮に対する恋心とか、そういう部分は勿論隠した。蓮にとって不利になりそうな真実も多少ぼかしたりしたけれど、嘘を吐いたりはしなかった。

 聞き終わると蓮母はゆっくりと頷いて、なるほどねぇ、と声を漏らした。

「生徒会選挙に関わってるって話は聞いてたけど、まさかそこまで大それたことになってたなんて。でも、ごめんね。蓮ちゃんってちょっと強引なところがあるし、大変だったでしょ?」

「い、いえ。そんなことは……」ありますね。正直メチャクチャありますね。

 蓮母は私の内心を見透かしたかのように、本当にごめんね、と再度謝罪してきた。

 この人もこの人で色々苦労してそうだな、とちょっとだけ同情の念が湧いた。

「でも、私としては安心したかな。ちゃんと憧れのお姉さんと再開できたみたいで」

「憧れって、そんな大げさな。……私、蓮に憧れられるほど、大した人物じゃありませんし」

 実際、こうして蓮からも選挙からも逃げ出して、蓮の言うところのクソ田舎でのほほんとやってるわけだし。今更、憧れのお姉さんなんて呼ばれる資格があるとは、私には思えない。

「負担だった? 蓮ちゃんに、憧憬の目で見られるの」

「負担っていうか、……そもそもの話、わからないんです。どうして蓮は、あんなに深く私のことを慕ってくれるのか。そこまでされる覚え、ないのに」

 そもそも私は、あの日の出来事を古びたもの、美しい思い出の一つとして、現実とはまた別のスペースへととっくに追いやってしまっていた。けど、それを不実なことだとは思わない。

 だって、生きていくってそういうことでしょ? 誰だってそんなものでしょ?

 あの日、私達は現実を忘れてボールを追った。現実の重みを忘れた。それはまるで、夢のように美しくって、夢のようなひとときで。でも夢は、どこまで行っても夢でしかない。夢の軽さは、現実の重さに耐えられないから。夢は所詮、儚い泡沫。触れれば割れるシャボン玉。壊さずに残しておくには、引き出しの奥深くに閉じ込めておくより、他はない。

 そうして後生大事に仕舞われた思い出は、色褪せない。劣化もしない。だけど現実の諸問題に入り口を塞がれて、徐々に取り出すのも億劫になって、思い出すことも少なくなって。

 そうしていつか、とめどのない現実に埋没するようにして、忘れていく。

 そんなもののはず、なのに。

「――多分だけど、蓮ちゃんにはそれしかなかったんだと思う」

 物思いの海の底に沈んでいた私を、蓮母の一言が連れ戻した。

「蓮ちゃんって昔から、友達作るのとか、あんまり上手じゃなくってね。気が強くて自分を曲げない性格だから。良くも悪くも、他人に合わせるってことが嫌いなのよ。そのくせして、一人で生きていけるほどの強さはなくて。だからあの子、なんだかいつも苦しそうっていうか、寂しそうで。……あの子が一時期、学校に行かなくなったことは知ってるんだっけ?」

「はい。蓮から、四年前に聞いてます」

「私ね、蓮ちゃんが同級生殴ったって聞いたとき、本当に焦ったの。まだこっちに越してきたばかりだったし、変にトラブル起こしたら蓮ちゃんが島中から疎まれたりするんじゃないかって、心配になって。私と旦那は大人だからともなく、蓮ちゃんは小学生だったから。いじめは言うまでもないとして、孤立するだけでも大問題じゃない? だから必死で謝らせて、仲良くやるように言い含めたんだけど……。逆効果、だったんでしょうね」

 間を置くように、ふぅ、と蓮母が息を吐き出した。それから、苦い現実を紛らわすかのように、甘ったるいオレンジジュースを口に含んだ。

 蓮の話を聞いたときには、蓮の親が自己保身だけを考えている用に思えて、憤った。でも、そういうわけでもなかったんだ。蓮母も蓮母で、蓮のことを思いやってはいたらしい。

 だからどう、というわけじゃない。すれ違いが判明したところで、向けている感情のベクトルが重なってない以上、交点に軋轢が生じるのは必然だ。両者がたちまち手のひら返して蟠りが解けるだなんて、それこそお笑い草のご都合主義というもの。

 現実は非情だ。すれ違いが判明したところで、生まれるのは解決じゃない。哀しみだ。

 互いに互いを思っていても、いや、思い合っているからこそ、両者の間に痛みが生まれることが、避けられない。哀しいだけの、無情にして酷薄な、現実。

「夢ちゃんと出会ったっていう日からしばらく経って、どうにか学校には行ってくれるようになった。虐められることなんかはなかったみたいだけど、煙たがられてるのは確かでね。やっぱり、友達とかは一人もできなかったみたい。だけどあの子、夢ちゃんが来てくれるのだけは心待ちにしていたみたいで。放課後も休みの日も、ひたすら野球ボールとグローブを持って、一人で丘の石段を登っていった。……だけど」

「私は、約束を果たさなかった。次のお盆、この島には来なかった」

 言いづらそうに口ごもる蓮母に変わって、声に出す。蓮母が、ん、と曖昧な返答をする。

 誰が悪いというわけでもない。新型コロナの爆発的流行。あればかりは、どうしようもない。

 三年前の夏。その頃はちょうど感染が小休止状態となっていて、GoToトラベルなんて取り組みが行われていたりもした。だけど高齢化の極みにある閉鎖環境に、ウイルスという脅威を持ち込む訳にはいかなかった。お母さんはその年の帰省を諦めた。でも私もお母さんも、来年は行けるだろう、と思いこんでいた。その頃にはワクチンも開発されて、誰もが抗体を獲得しているはずだから、と。だけどそれは楽観的な見方でしかなかった。実際にはワクチンは国民の精々半分にしか行き渡らず、四度目の緊急事態宣言が発出される事態にもなり、そんな中でも東京五輪が敢行されて、やっぱり帰省することなんて叶わなくって、それでも翌年にはきっと収束するだろうと心の何処かでは信じ込んでいた。だけどそれも、根拠のない希望的観測でしかなかった。国民の大半がワクチンを打ちはしたけれど、度重なる変異株の出現を前にして感染を完璧に封じ込むことなどできず、そうして三年目の夏も帰省できないまま過ぎ去った。

 けれどその頃には、コロナウイルスによる死者や感染者が毎日のように出る状態に誰しもが慣れきっていた。感染症がすぐそばにいる現状に、慣れきっていた。特に終息宣言がなされたわけでもなかったけれど、年が開けたあたりから生活は徐々にコロナ以前の有り様を取り戻していった。年度が変わる頃にはマスクを外して街中を出歩く人の数も増えて行き、夕方や夜のニュースでその日の感染者数と死亡者の数が報道されることもなくなり、そして私は、三年半もの年月を経た末に、蓮との再会を果たすことになる。

 だけどそのとき、私は既に蓮と交わした約束を、思い出というガラス玉の中に封じ込めてしまっていた。現実ではなく思い出として。夢の中の出来事として、綺麗なままで。

 でも、蓮は違かった。破天荒、常識破り、荒唐無稽を地で行くあいつは、そんな道理を捻じ曲げて、踏み躙って、強固な意志で刺し貫いた。私のことをただただ一途に、一心に思い続けて、十五歳にして一人で家を飛び出してくるまでに、あの日の夢の続きを、夢見ていた。

 夢だけを――、私だけを、見据えていた。

「今思えば、あの子が学校に復帰して勉強に精を出し始めたのは、夢ちゃんと同じ学校に行くためだったんでしょうね。蓮ちゃんってば中三のとき、青井さんのお爺ちゃんのところに夢ちゃんの学校を訊きに行ったみたいなの。それで、自分で勝手に書類とか取り寄せて、勝手に印鑑を押して願書まで出しちゃって。だけど受験料と交通費だけはどうにもならなかったみたいで、その段になってようやく出願したって打ち明けてきたの。本当、愕然としたわよ。その歳で一人暮らしするつもりなの、馬鹿なこと言わないで、って言ったら、近くに住んでる叔母に居候させてもらう、既に話は通してるって返してきて。本当、子供とは思えない用意周到さよね。驚きもしたし憤りもしたけど……でも一番は、哀しかった、かな。親子なんだから、そんな政争みたいなことする前に、素直に相談してほしかったな、って」

 ふぅ、と。再び吐息を漏らした後、蓮母はほんの少しだけ視線の向き先を落とした。

 私へと、今まさに、現実で向き合っている私へと焦点を合わせて、こう続けた。

「少なくとも蓮ちゃんにとっては、夢ちゃんとの思い出だけが現実を生き抜くための……希望っていうか、ちょっと上手い表現が思いつかないけど、とにかく拠り所になっていたのよ」

「拠り所、って。……やっぱり、よくわからない。いくら孤立してたとしても、そこまでして私を追いかける理由なんて、どこにもないのに」

 自答のない、自問自答。けれどその問いかけに、蓮母が代わって答えた。

「寂しかったのよ、きっと」

「……寂し、かった?」

「そう。寂しかった。一人ぼっちでいることが、寂しかった。だからこそ、夢ちゃんが一緒にいてくれたのが、キャッチボールをしてくれたのが、話を聞いてくれたのが、嬉しかった。あのときの蓮ちゃんにとっては、たったそれだけのことが、救いになってくれたのよ」

 だから、ありがとう。そう結ばれた語りの中身は、至極ありふれたものだったけれど。

 だけどそれは、ありふれているが故に、私にとっては致命傷以外の何物でもなくって。

 ありふれているということは、現実的ということで。現実的ということは、それ即ち。

 ――夢にとっての天敵、ということになるのだから。

 言葉が、出ない。熱で溶けた鉛みたいにひたすら重いため息がこぼれて、漏れて、落ちる。

 ……寂しかったって、なにそれ。それらしい理屈でガッチガチに武装しておいて、始まりは感情論なわけ? なんだそれ。自己矛盾の塊じゃん。心の底から、馬鹿げてるとしか思えない。

 結局、あいつの動機も私の理由も蓋を開ければ欺瞞だらけで、私と蓮の間には、本当なんてただの一つもなかったんだなと、今更のように思い知る。本当に、今更。

 人は、夢の中では生きていけない。だけど、夢を追うことは、できる。

 蓮はずっと、あの日、見た夢を――私を、追いかけてきたというのか。

 夢の続きを、始めるために。いつかの夢を、現実のものとするために。

 ……いや。いやいやいや。重いって。重い重い重い。重いんだよ。あいつもあいつの母親も。何が重いって、話が重い。空気が重い。過去が重い。記憶が重い。言葉が重い。期待が重い。希望が重い。軌跡が重い。気が重い。頭が重い。心臓が重い。想いが重い。そして、何より。

 私の罪が、どうしようもないほどに、重すぎる。

 過ぎ去りし日々にしよう。蓮との日々は時間軸の後ろ側に追いやってしまおう。そう思ってここに来た。だけど人は、現実の中にしか生きられない。だから私は、現実を突きつけられた。

 私が夢にしたものは、あいつが夢にしなかったもので。

 私が夢にしようとしたのは、あいつが見た夢の続きで。

「……って、ごめんなさいね。なんか、私の懺悔タイムみたいになっちゃって。夢ちゃんに聞かせるようなことでも、なかったのに」

 蓮母が何かを言っている。でも、音がすぅと意識の中を通り抜けていくだけで、頭の中でどんな意味合いとも結びつかない。軽やかな風のように軽く、疾く、ひゅうと抜けていくだけで。

 そして私は、考える。夢にしかけた記憶の続きを、引きかけた幕の向こう側を、夢想する。

 私には何もない。何もできない。ずっと、そう思いこんできた。私は蓮の言いなりになっているだけ。私なんていてもいなくても同じ。むしろ、いないほうがスッキリする。そうやって卑屈になって、自分の逃避を正当化してきたけれど。

 だけどさ、私。ちょっと、考えてもみなよ。あんたその臭い台詞、蓮の前でも吐けるわけ?

 何年も何年も、私との約束だけを頼りに真っ直ぐ私を求め続けて、親に内緒で願書出してまで島を出て、私と同じ学校にまで入学して、でも私は学校には来ていなくって、それでもどうにか居場所を突き止めて、追いかけて、私には忘れられてるって気づいてからも必死で繋がりを保とうとし続けた、馬鹿みたいに一途で純情で純粋で純真なあいつの前でも、言えるわけ?

 私なんていてもいなくても同じだ、なんて。何の面白みもない、手垢の付いた逃げ口上――

「ごめんなさい。私、これで失礼します」

 解答を思い浮かべる前に、私は席を立っていた。

「あれ。何か急用でも思い出したの?」

「はい。ちょっと、先約が入ってて」

 ただし、私が約束したわけじゃない。逆に約束されたのだ。

 私を勝たせると、蓮は誓った。でもその約束、まだ果たしてもらってないや。

 スタートは蓮の家。ゴールは港。それじゃあ、位置について。よーい、ドン。

 ここに来て私は正真正銘、量産型青春小説のラストシーンの主人公となった。

 つまるところ、お約束通りに走り出したのだった。

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