潮の香り、畳の香り、記憶の残り香2

「島外から来たんだよね。どこに住んでるの?」

「千葉だけど」

「千葉、か。……いいな」その子が少し目を細めた。でもすぐに、凛とした表情に立ち返って。

「で、いいの? お葬式サボって、こんなところほっつき歩いてて」

「良くはない、かな。でも、なんかちょっと、居づらくて」

 そっか、とだけ口にして、その子は公園の中へと戻った。鬱蒼と茂る森と公園とを区切る、青緑のフェンスに向かって、白球を全力でぶん投げる作業に戻る。

 引き返そうかな、という気持ちはいつの間にか失せていた。その子が最後に向けてきた眼差しも、愛想なんかこれっぽっちもなかったけれど、近寄るもの何もかもを斬りつけるかのような苛烈さは、なくなっていたから。今度は私からその子のそばに行って、声をかけた。

「それ、練習? 野球好きなの?」

「そういうわけじゃない。ただ、ムカつくからやってるだけ」

「ムカつくから?」私が鸚鵡返しをすると、その子はボールを拾いに行って、また戻ってきて、ぶん、と豪快に腕をぶん回して白球を放ってから答えた。

「要するに、ストレス発散。殴りつけたり蹴り飛ばしたりしたら怒られるけど、ボールをぶち当てるぶんには文句言われないから。穴こじ開けてやったら、少しはスッキリするかなって」

 どっちにしろ器物破損だよ、というツッコミはさておいて。

「嫌なことでも、あったの?」

 その子はしばし逡巡するような表情をした後、「まあ、ちょっと」と頷いた。

 投げる、歩く、拾う、戻る。そのアルゴリズムを淡々と繰り返しつつ、その子は事情を語ってくれた。雨音。右足を地面について水が跳ねるときの音。白球に殴打されたフェンスの奏でる金属音。その三重奏がBGMになっていた。

 なんでもその子は、同級生に名前をからかわれたらしかった。最初は我慢してたけど、しつこく絡んでくるものだから、とうとう堪忍袋の緒が切れて、その男子を思いっきりぶん殴って黙らせた。するとそいつは、今までの調子に乗った態度が嘘だったかのようにギャン泣きし、被害者面して先生に泣きついた。当然、先生はその子を叱った。暴力を振るうなんて言語道断だ、と。その子は男子から受けた仕打ちを訴えたけど、先生がそれを聞き入れてくれることはなかった。殴っちゃ駄目、と馬鹿の一つ覚えみたいに叱りつけるだけだったという。

「なんで殴ったのって訊いてきたのはあっちのくせに! なのに理由を答えたら、言い訳するな、暴力は駄目だって頭ごなしに否定するだけとか、自分の発言の意味理解してんのか……!」

 暴力沙汰ということもあって、その子とその子の殴った男子の親が呼び出された。だけどその子の母親は、被害者男子とその親に平身低頭し、その子にも「ほら謝って」とまるで人形でも扱うみたいにぎゅうぎゅうと頭部を押し付けて、頭を下げさせてくるだけだった。何故殴ったかの理由さえ、訊いてくれることはなかったという。

 それがきっかけで、その子は数日前から学校に行くのをやめている、とのことだった。

 暴力を振るったことを責めるばっかりで、誰も自分と向き合ってくれない。そういう感覚は、確かに辛い。まるで、世界から一方的に見放されてるみたいになるから。

 それに、この子は自分の名前が馬鹿にされたのが悔しくて、その男子をぶん殴ったんだ。名前というのは親がつけてくれるものだ。それを守るために怒ったっていうのに、その子の親はその子を庇ってはくれなかった。そりゃ、裏切られたって気分にもなりはする、か。

「確かに、グーで殴っちゃったのは悪かったって思ってる。ものすごい鼻血出てたし。今度からは平手打ちにしようって、反省もした……!」

 叫ぶと同時にボールを放つ。フェンスが鳴いて、その子はボールを拾いに行って、ピッチャーマウンドに戻りながら、続ける。

「でも、こっちの言い分を一切聞かないのは、おかしいだろ! 人を殺した犯罪者だって、警察はちゃんと動機を調べられるし、場合によっては情状酌量されるじゃん! なのに、煽ってきたアホをぶん殴った子供はその時点で悪者で、事情すら聞いてもらえないのか……っ!」

 とどめと言わんばかりに、その子がひときわ大きく右脚を振りかぶり、球を放った。

 鼓膜を貫かんばかりの声量で、ビギャビギャァン……ッ! とフェンスが絶叫を轟かせた。それが断末魔の悲鳴となった。つまりフェンスがご臨終した。周辺の脆くなってた部分もろとも一斉に弾け飛び、直径五十センチほどの穴がぶち空いた。

 その子は平然とボールを拾うと、つかつかとフェンスの残骸に歩み寄った。私もその子の半歩手前に移動した。フェンスの亡骸を見やって、それからその子の背中へと目を向けて。

「それで、気分はどう? スッキリ爽快?」

「いや、全然。まだまだ破壊したりない。いっそ授業中の教室に投げ込んでやろうかな」

 私は答えに窮した。ど直球な犯行声明を前にしたときの対応方法はまだ習っていなかった。

 すると、その子はふいに視線を上方へと向けて、手のひらをかざした。それから、ゆっくりとフードを取った。いつの間にか雨がやんでいたらしい。私も遅れて傘を閉じる。

 そうだ、と思いつく。傘をブランコの柵に立てかけると、私はこう切り出した。

「一人で投げてても、つまんなくない? どうせなら、キャッチボールでもしようよ」

 その子は、キョトンとした顔つきで固まった。きっと、予想打にしなかった申し出だったのだろう。やけにあどけない表情をしていた。私はこのとき初めて、ああやっぱり歳下なんだなって、実感をした。小学生なのにやけに理詰めで不満を叫ぶ子だなって、思ってたから。

 ややあって、その子がこくんと首を縦に振ってきた。

 そんなわけで、キャッチボールをする流れとなった。

 でも、言った後になって気が付いた。私、今制服だ。制服は白。つまり汚れがメチャクチャ目立つ。つい数分前まで雨がざぁざぁと降っていて、足元には幾つも水たまりができている。取るのミスって地面に落としたら、泥跳ねする。制服が汚れる。常日頃から「体操着を白色にデザインしたやつは頭がおかしい」と公言して憚らないお母さんがブチ切れるのは、目に見えている。しかし言い出した手前、「やっぱやめにしない?」なんて手のひらを返すわけにはいかなかった。その子も既に乗り気だったし。

 覚悟を決めた。銃口を突きつけられた心持ちになりながら、飛んでくるボールに食らいつく。

 でも悪いことに、その子は飛距離こそ充分なものの、異様にコントロールが悪かった。

「ち、ちょっと! もう少し、精度良く投げてよ」

「ごめん無理。スピードしか極めてこなかったから」

「んな、一点特化型の少年漫画の主人公みたいなステ振りしなくても……!」

 ぎゃあぎゃあと文句を垂れながら、明後日の方向に飛んでいく球を、死ぬ気で追った。

 何かが解決したわけでも、前に進んだわけでもない。だけどいつしか、胸中に渦巻いていた憂愁も鬱憤も、どこかへ吹き飛んでいてしまっていて。

 私はその日、初めて笑った。その子も、どこか晴れ晴れとした表情を浮かべていた。

 十五分経った頃だろうか。私はボールを握ったまま、投げ返さず両膝に手をついた。

「……ごめん。疲れた。休ませて」

「もうバテたの? この根性なし」

「ほっといて。中学生になるとね、昼休みに校庭でドッジボールしたりとかしなくなるの。多少体力が落ちるのはしょうがないの。――って、なんでそこで世界の終わりみたいな顔をする」

 まあ、小学生ってドッジボール大好きだからなぁ。私も好きだった。今じゃ考えられない。

「というか、ごめん。私、流石にそろそろ戻らないとだ。ボール、返すね」

「あ、うん」おずおずと受け取るその子。やけに神妙な面持ちで手元をじぃっと眺めてから。「あのさ。……またこっち、来たりする?」

 今度は、私が呆気にとられる番だった。でもすぐに破顔一笑して、ブンブンって頷いて。

「うん、来る来る! 毎年、お盆に帰ってるから、そのときね!」

「お盆か、長いなぁ。お姉ちゃんって、高校生?」

「ううん、中一だよ」

「あれ、そうなの? 千葉の中学は、髪染めてもいいんだ」

「別に染めてないよ。これ、地毛」

「へぇ。元からそんな色してるんだ。……綺麗だな」

 言って、髪の毛を真剣な面持ちで凝視してくるその子。なんだか顔を見られているみたいで面映ゆい。んん、と咳払いをして照れ隠しをしつつ、そうだ、と話題の転換を試みた。

「次に会ったときは、キャッチボールじゃなくて野球やらない? そのほうが楽しそうだし」

「あ、いいね。じゃあ約束する。来年までには、ボール投げるの上手くなっておく」

「オッケー。なら私も、バッティング練習しておくね」

 その会話を最後に、なんとなく別れる流れになった。私たちは連れ立って公園を出た。その子は石段を下るみたいだったから、私は上ることにした。その子との逢瀬は、なんだか気障な喩えだけれど、夢みたいに曖昧な時間だったから。現実への帰り道まで共有してしまうのは、何かが違うと思ったから。綺麗なまま胸の中に閉じ込めておきたいって、そう思ったから。

 しばらく上ったところで、「夢!」と大声で名前を呼ばれた。振り返ると、目前まで白球が迫ってきていた。「うわわっ⁉」と叫びながらもなんとかキャッチ。危うく顔面にぶち当たるところだった。全く、なんでラストだけコントロールがいいんだか。

「あげる! それ使って、練習してて!」

「え? いや、私にあげたら君が練習できなくなるでしょ!」

「大丈夫、まだ家にボールあるから! それじゃ、また来年ね……!」

「あ、ちょっと――」

 私の制止を振り切るように、くるりと身体を回転させて、トントンと軽快に階段を下りていくその子。雨で滑りやすくなってるというのに危なげは不思議となくて、ぴょんぴょこと丘を跳ね下りる野ウサギのような気持ちの良さがあった。

 その子の背中を、眺めるともなしに私は眺める。細い路地の中に吸い込まれて、消え失せる。

 しばらくその先にある路地や道路をじっと見つめていた私だけれど、未練がましいぞと自分を諌めて視界を切った。ゆっくりと目線を持ち上げて、そのときになって、ようやく気づく。

 なんて、綺麗な青空だろう。雨で空気中のゴミが洗い流されたからか。この世界はたった今、神様の手で創り上げられたばかりなんじゃないかってくらいに、空は青く、澄み渡っていた。

 すぅ、と息を吸ってみる。洗いたての清廉な空気。ひんやりとしていて、混じり気がなくて、自分という存在が内側から生まれ変わっていくようで。

 私は、くるりと踵を返した。改めて手元に目線を落として、そこでようやく思い至った。

「……今更だけど、遊んでたってバレたら、怒られるかな」

 帰るのは明日の昼だ。それまで、ボールはどこかに隠しておこう。誰にも見つからなくって、なくならない場所。キョロキョロと辺りを見回して、あの子のぶち開けた穴の向こうの森に隠すことに決めた。大きなうろが空いた老木があったので、その中に置いておくことにした。

 ボールに名前が書いてあるのに、今更ながら気がついた。いやでも、キャッチボールしてるときは名前なんてなかったような。こんなにデカデカと書かれていれば、見落とすこともないだろうし。ってことは、さっき急いで書いたってことなのかな。私に、名前を教えるために。

 記されていた二文字は、レン。中性的な顔立ちをしている上にレインコートで体のラインが隠れてたから、地味に性別の判断がついていなかったんだけど、名前からして男子だろう。

「しっかし、汚い字だなぁ。小学生男児らしいっちゃ、らしいけど」

 私はクスクスと苦笑しながら、巨木のうろの中に、その白球を静かに置いた。

 言うまでもないけれど、このときの私には思いもよらないことだった。結局、ボールを回収しに行くタイミングが見つからなくて、置きっぱなしにしてしまうことも。その年の十二月、世界的な大流行を引き起こすことになるウイルスが、海の向こう側で生まれることも。

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