潮の香り、畳の香り、記憶の残り香1

 お祖母ちゃん家へと向かう旅路の記憶。それが収まった箱の蓋を、ゆっくりと開けてみる。

 たちまち立ち上ってくる香りがあった。海の香りだ。それに続いて、ぐぉんぐぉんと激しく身体の揺れ動く、遊園地のアトラクションにも似た感覚が蘇る。

 記憶の中で、私は船に乗っていた。船の甲板に立って、手すりをきつく握りしめ、波に合わせてゆったりと、右に行ったり左に行ったり、浮いたり沈んだりする身体の動きを楽しんでいた。鼻の奥では、磯臭い潮の香りが充満し、渦を巻くようだった。

 島のお祖母ちゃんの家は、港から十五分くらい歩いた坂道の中程にある。趣のある日本家屋で、門を通って母屋の玄関をガラリと開けると、「よく来たね」とお祖母ちゃんがしわがれ声で言ってくる。泊まる部屋に荷物を置いて、居間で冷えた麦茶をごくごく飲む。人心地ついていると次第に力が抜けてきて、ばたんと畳の上に寝転がる。すると今度は、い草の匂いがツンと立ち上ってくる。ほんのりと青臭くって、お日様の匂いが移ってる。家には洋室しかないから畳で寝泊まりした経験なんて、数えるほどしか私にはない。にも拘らず、その香りを懐かしいと感じてしまうのは、きっと日本人には遺伝子レベルでい草の匂いが刻み込まれているからだ。

 潮の香り。畳の香り。普段は嗅ぐことのない、特別な匂い。

 だからこそ無性に胸がときめくし、だというのに妙な安堵感を覚えたりもする。

 だけど不思議と、私が一番好きな匂いは、潮の香りでも畳の香りでもなかった。

 お昼ごはんを食べて一息ついたところで、五人一緒に家を出る。門を出て二、三分歩くと、原っぱにこじんまりとした墓地があるのが見えてくる。

 柄杓で墓石に水をかけ、弔花を備える。それを横目に、私は線香に火をつける。ふわり、と。燻った煙の臭気が鼻を刺す。先端の赤く染まった線香を、墓石の手前にそっと置く。全員が線香を置いたところで、目を閉じて、合掌。すぅ、と鼻で息を吸い込む。視覚がシャットアウトされてるからか、匂いの情報がいつもより繊細に、伸び伸びと、意識の上に広がっていく。

 踏みつけられた雑草の香り。ほんのりと湿った大地の香り。微かな潮臭さを孕む、生温い風の香り。そして鼻孔の奥にふんわりと広がる、線香特有のあの匂い。

 良い匂いだとは思わない。なのに何故か、嫌いじゃない。

 焼ける線香のくすんだ芳香はお祖母ちゃん家に帰省する度、他のどんな匂いより鮮明に、私の心に刻まれた。帰りの新幹線でうたた寝しながら見る夢は、決まって煙っぽい匂いがしたものだった。小六の頃のなんか、ひどかったっけ。ホールケーキを丸々一つ独り占めする夢だったんだけど、フォークで豪快に切り取ってパクリとやった瞬間に、口の中が線香臭さで一杯になったのだ。目が覚めたときには、ものすごく損をした気分になった。一人でホールケーキを全部食べるの、当時の憧れだったから。

 要するに、私にとって線香の匂いというのは、嗅ぐシチュエーションが決まってたのだ。

 よく晴れた夏の盛りの午後に強い日差しに炙られながら、私、お母さん、お父さん、お祖母ちゃん、お祖父ちゃんの五人で、土と風の匂いと一緒に感じる香り。線香好きなんていう一風変わった私の嗜好は、匂いそのものというより、情景に依るところが大きかったのだと思う。

 だからこそ、当然と言えば当然だった。

 あの日に嗅がされた線香の匂いが、あんなにも不快だったのは。

 母方のお祖母ちゃんが亡くなったのは、中一の九月のことだった。脳卒中だった。

 通報を受けて救急隊員が駆けつけたときにはまだ息があったけど、症状は重篤だった。島内の医院では手に負えないと判断されて、本土の総合病院に搬送される手筈となった。しかし、お祖母ちゃんの命がそれまで持つことはなく、救急艇で海を渡っている最中に静かに息を引き取った。お祖父ちゃんが連れ添っていたことが、唯一の救いだった。

 その日から、お祖母ちゃんの家はお祖父ちゃんの家へと呼び名を変えた。

 お葬式は一週間後に行われた。私も忌引で学校を休んで島に渡った。九月の末の瀬戸内海の潮風は冷たくて、一ヶ月前に渡った海と同じとは信じられないくらいだった。

 葬儀の日は朝から雨が降っていた。線香が湿気を吸っているせいで、火をつけるのに苦労した。お父さんとお母さんとお祖父ちゃんは、次から次へとやってくる参列者への対応で汲々としていた。私は部屋の隅の方で、一人ぽつんと体育座りしていた。読経するお坊さんや焼香して合掌する参列者の背中を、ぼんやりと眺めていた。

 正直、実感は全然なかった。お盆のときのお祖母ちゃんとの記憶は、思い出と呼ぶのが憚られるほど色鮮やかに、それこそ手に取るように思い起こすことができたから。

 ニコニコと笑いながら頭を撫でてきたときの、ゴワゴワした手の感触が蘇る。もう中学生なんですけど、と文句を言ったのが蘇る。お祖母ちゃんが顔をクシャクシャにして呵々大笑し、中学生なんか子供だよ、と返してきたのが蘇る。それが気に食わなくて、でもお祖母ちゃん相手に強く言い返すこともできなくて、むぅ、とほっぺたを膨らませたのが蘇る。するとお祖母ちゃんが勝ち誇ったような、それでいてやけに穏やかな笑みを浮かべてきたのが、蘇る。

 喪服を着た大人たちが眼前を通り過ぎていく度に、防虫剤と焼香の入り混じった匂いがした。参列しに家に来るのは私以外は皆、喪服姿の大人たちだった。他の人達は誰もが黒尽くめの装いなのに、私一人が白地に青のセーラー服に身を包んでいるものだから、大人の社交場に子供一人で訪れてしまったみたいな場違い感を覚えて、すこぶる居心地が悪かった。

 気詰まりな空気に耐えかねて、「ちょっと休んでくる」と言い残し、葬儀をしている部屋を離れた。でも、だだっ広い日本家屋のどの部屋にも、見ず知らずの島民が居座っていた。しんみりとした雰囲気で、お祖母ちゃんとの思い出を訥々と語り合っていた。何々だったとか、何々したとか、文の末尾を締めくくるのはどれも決まって過去形だった。お祖母ちゃんという存在を時間軸の後ろ側にぎゅうぎゅうと押しやっているみたいで、聞く度にムシャクシャと異物感のある感情が、お腹の底で渦巻いた。気がつけば、意味もなく歯噛みしている自分がいた。

 日焼けした畳。変色した柱。ギシギシ言う床板。家中の至る所に染み込んだお祖母ちゃんとの思い出が、見慣れない黒い靴下に、吐き出される呼気に、語られる思い出話にベタベタと上塗りされているみたいで、嫌だった。自分でもよくわからない苛立ちが募って、その度に歩く速度が増した。風がなくて空気の通りが悪いからか、家全体に線香のくすんだ臭気が充満していた。焼けた線香の匂い。焼けた線香の匂い。焼けた線香の匂い。お盆のお墓参りの記憶。知らない大人の話し声。焼けた線香の匂い。焼けた線香の匂い。焼けた線香の匂い――

 葬式の魔物にでも取り憑かれたみたいで気味が悪かった。茫漠とした恐ろしさが臓腑の奥からせり上がってきて、一刻も早くこの場所から逃げ出したいって衝動に、背中を押されて。

 気づけいたときには、こっそりと家を抜け出していた。

 お祖父ちゃんの黒い蝙蝠傘を手に、カツカツと街を往く。すぅ、と息を吸い込んだ。雨の匂い。湿気に満ちたくぐもった空気が、肺の中を一杯に満たした。雨脚はそこそこ強くて、靴下が徐々に濡れてくる。歩く度にぐじゅぐじゅと変な音がして、気持ち悪かった。でも引き返す気にもれなくて、ぶらぶらと島内をそぞろ歩いた。

 街中はいつも以上に閑散としていた。人口の少ない島においては、交友関係が自然と密になりがちだ。近隣住民の多くはお祖母ちゃんの葬儀に出席していた。とはいえ平日であるのには変わりなくて、島内唯一の小中学校の校舎からは、蛍光灯の照明がランプシェード越しの電球みたいに、ぽつん、ぽつん、と朧気に灯っていた。海の向こう側に目を向けてみる。降りしきる雨がカーテンのように島全体を囲んでいて、本土の明かりは見えなかった。

 三十分ほど歩いたところで、島の反対側に辿り着く。丘の斜面をうねうねと何度か折り返しながら、石段が伸びている。その中腹に公園があるのに気がついた。

 そういえば、小さい頃は島に来る度、あの公園に連れて行ってもらってたっけ。大抵はお父さんとだったけど、お祖母ちゃんに手を引かれて行った記憶も幾つかは残ってる。

 見えない糸に引っ張られでもするかのように、階段を登り始めている自分がいた。

 公園が近づくに連れ、ギシ……ッ! ギシ……ッ! と、悲鳴のような甲高い金属音が聞こえてきた。何の音だろう、と疑問に思った。多少の恐怖心が沸きはした。でも、子供らしい意地っていうか、怖いもの見たさ的な感情もあり、私は足を動かし続けた。

 黄色のレインコートに身を包んだ子供が、フェンスに向かって野球ボールを投げていた。

 最初、壁当てでもしてるのかと思った。公園とかで野球少年がやってる、コンクリート壁に球を投げつけて、跳ね返ってきたのをキャッチして、また投げて、ってやつ。

 そうじゃないことはすぐにわかった。だってボールを当てている先は壁じゃなくて、フェンスなのだ。ギシィ……! と凄絶な悲鳴を上げて大きく凹んで、それに勢いが吸われるからボールもあんまり跳ね返らない。フェンスのちょっと手前辺りに落下して、何度か跳ねて、その子のところに戻る以前に止まってしまう。これじゃ、壁当ての体をなさない。

 だけどその子の投球は、フォームといい速度といい、やけに様になっていた。こうも全力投球を繰り返してたら、そのうちフェンスに穴でも開くんじゃないかって、心配になった。

 何にせよ、引き返そうか。先客がいるのなら入ったところで無意味だし。ああでも、どうせなら丘を越える形で反対側に下りた方が早いかも。どっちがいいかな。

 公園の入口で突っ立ったまま、ぼんやりと思案する。でも、それがいけなかった。

 ギロリ、と。私に気づいたレインコートの子が、凄絶な目つきで睨みつけてきた。私は思わずヒッと怯んだ。猛禽類のような。肉食獣のような。手垢のついた形容の表現が頭の中に幾つも浮かぶ。だけど、どうしてか。どれ一つとして、その子の向けてくる眼光には似合わないような気がした。確かに鋭いし、冷たい。刺すような視線で、敵愾心とか猜疑心とか反発心とかを隠そうともしていなくって、正直怖い。だけど……、なんていうのかな。その子が向けてくる眼差しは、手負いの狼がとどめを刺しに来た猟師に対し、自らの誇りを保つためだけに差し向ける、どこまでも純粋で高潔で峻烈な、この世界への拒絶のようにも見えて。

 そして、それと同時に。

 ……雨で、顔が濡れているから、かな。

 もしかしたらこの子はずっと、一人きりで涙を流していたんじゃないか、って。そんなふうにも、思えてしまって。そのおかげで、目を離すことも、離れることもできなくて。

 その子がつかつかと歩み寄ってきた。それでようやく我に返った。

 いや、なにをガン見していたんだ、私は。今更見て見ぬふりをして踵を返すなんて、できそうもないので、顔を俯けた状態で、ちらちらとその子の様子を観察する。背丈とか雰囲気からして恐らくは小学生だ。でも今日って、学校だよね。さっき、普通に授業やってたし。

 ってことは、サボり? ってことは……ふ、不良かっ⁉ 不良なのかっ⁉

 当方、サボり歴なし。ゲーセンやカラオケ、ファミレスですら入るのに躊躇するような、今時珍しい優等生の中の優等生である。髪色のせいで勘違いされることも多いけど、生息域は家と塾と学校と後は精々、本屋と近所のスーパーくらい。夜になると駅前にお酒と煙草片手に座り込んで大声で談笑してるような集団がいたりするけど、ああいうとき、私はいつも顔を固く下に向け、その人たちのことを絶対に見ないように意識しながら、足早に通り過ぎている。それが私の中での、ワルの人たちに出くわしたときの対処法だった。

 だけど今、私はそれと正反対の行動を取ってしまった。立ち止まる。じっと眺める。

 これじゃあガンを飛ばしてると思われて、絡まれるのも当然だった。つまり死んだ。

 戦々恐々とする私を前に、レインコートの子は切れ長の目を傲然と差し向けて、言った。

「見かけない顔だけど。あんた、誰?」

「……あ、青井。だけど」お前どこ中? って訊いてくるんじゃないんだ。

「ああ、そういえば亡くなったのって、あそこのお婆ちゃんだったっけ」

「うん、そう。私の、母方のお祖母ちゃん」

「それは、えっと……ご愁傷さま、でいいんだっけ」

 意外にも礼儀正しく、お悔やみの言葉をかけてくるその子。不良という認識はどうやら間違いだったらしい。軽率な判断をしてしまったなと、遅まきながら反省した。

「でも、青井じゃ他の青井と区別がつかない。名前の方は?」

「……夢。青井、夢」

 答えるのに少しだけ躊躇した。気にしてたんだ。自分のフルネームのこと。なんだか、青い夢と言っているみたいで、恥ずかしくって。でもその子は名前のことをあげつらったりはせず、夢ね、と淡白に復唱するに留めた。私は、ちょっとだけホッとした。

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