私は今、海に来ていた2
断っておくけれど、別に逃げたわけじゃない。あくまでも冷静に、理性的に、虚心坦懐に現実と向き合ってみた結果、こうするのが一番いいよねという結論に至っただけのことだから。
そもそもの話、今回の選挙戦における私の存在価値なんて、蓮の傀儡以外の何者でもなかった。蓮さえ学校にいてくれさえすれば、比良に政策を引き継いで貰うことだって、滞りなくできるはず。私がいなくなったところで、誰も困らなければ、誰も不利益を被らない。だからこれは逃走なんて後ろ向きなものではなくて、戦略的撤退という至極前向きな行いなのだ。
後悔や罪悪感なんて寸毫たりとも抱いていない……とまで言えば、流石に嘘になるけれど。
蓮に一言も言うことなしに島まで逃げて――いや、戦略的撤退してしまったこと。それについては多少、申し訳なく思う気持ちがあった。
こんな瀬戸内の島まで逃げ――戦略的撤退してきた理由は当然、蓮からの鬼電や家凸を回避するためだ。島内の家庭におけるWi-Fi普及率は精々二割といったところで、高齢者の一人暮らしであるお祖父ちゃんは言うまでもなく大衆派に所属しているから。
とはいえ、いくらネット回線が普及していなくとも、キャリア回線は普通に通じる。それでは戦略的撤退の意味がないから、スマホは家に置いておこうと考えた。考えたのだけど、やはり私はデジタルネイティブ世代の現代っ子だ。小五で買ってもらって以来、病めるときも健やかなるときも四六時中そばにいる魔法の板と、何週間も離れ離れになるのは耐えられないと判断した。結局、Simだけ抜いて持っていくことにした。ネット未接続だとは言え、カメラ、音楽プレイヤー、メモ帳、カレンダー辺りの機能が使えるだけでも、充分に便利だし。
そんなわけで私は現在、近年話題の繋がらない権利とやらを絶賛行使中なのだった。
「……だけど蓮、今頃ブチギレてるんだろうなぁ」
教室や職員室で怒り狂って、暴力沙汰でも起こしてなければいいけど。少しだけ、心配になる。そのせいで停学をくらったりでもしたら、私の責任になってしまうし。あ、でも、明日から夏休みだから、停学になんてならないか。なんだ。じゃあ問題は一個もないんだ。
良かった、と胸を撫で下ろす。これで一切の気兼ねなく、島内でのスローライフを満喫できるというもの。全てが丸く収まったっていうか、なるようになったっていうか。
正直、肩の荷が降りた気分だった。ここ数ヶ月もの間、私の身体を重くしていた厄介事の悉くが雲散霧消したのを感じる。肩をグルグルと回してみると、何の抵抗も感じず、軽い。
さて、そろそろ散歩を再開するか。よっこらしょと立ち上がって、また階段を登りだす。
十五分ほどで、山頂へと辿り着いた。見晴らしがいい。島全域が一望できる。柵の周囲をぐるっと回って、島の全体像を俯瞰してみる。
島唯一の公園が、反対側の斜面の中腹にぽつんと見えた。しばらくの間、じいっと見つめる。ちょっとした思い出のある場所だから。……あのときのボール、まだあるかな。まあ、ないか。台風に飛ばされるなり、どこぞの誰かに捨てられるなり、野生動物に持ち去られるなりしてるはず。でも、懐かしい場所であるのには変わりないし、ちょっと行ってみようかな。
登ってきた階段と向かい合うようにして作られたもう片方の石段を、とんとんと下りていく。
行きはよいよい帰りは怖い、なんて言葉がある。階段の上り下りの場合はむしろその逆、上りは辛くて下りはよいよいのような気もするけれど、そうでもない。上りも下りも等しく辛い。
そんなだから、公園に辿り着いたときにはまたもや疲れ切っていた。塗装の剥げまくったブランコに年甲斐もなく腰掛けて、体力を回復させる。手すりを握った瞬間、赤錆がボロボロと剥離する。潮風が直撃するからか、錆つき具合が凄まじいのだ。少し揺らす度にギィィ……ッ! と魔物の叫び声じみた音がして、耳障りなこと甚だしかった。
公園内にある遊具は、ブランコとシーソーだけだった。どちらも錆と塗装の落ち具合が極まっていて、ボロかった。そのぶん敷地は広いのかと言うと、そうでもない。住宅地の空きスペースを埋めるかのようにぽつんと設置された公園くらいの面積しかない。人口密度からしてみれば、広大で伸び伸びとした公園が作れそうなものなのに。けど、そのためには丘を切り開いて整地して定期的に整備する必要がある。子供なんて数えるほどしか生息してない島なんだから、そのためのお金を投資する価値はない、ってことなのかな。なんだか寂しい考えだけど。
身体が休まったところで、ブランコから降りる。外周に沿って設置されたフェンスには至るところに穴が空き、現代アートの如き哀愁を醸し出していた。その穴を経由して、公園を取り囲む森林に足を踏み入れる。どこだったかな、と周辺の木々を手当たり次第に検分していく。
胴体の真ん中に巨大なうろを湛えた老木を見つけた。あった。確かあれだ。途中、這い出た根っこに蹴躓きそうになりながらも、小走りで寄っていく。うろを覗くと、中身は大量の腐葉土で埋め尽くされて、刺すような悪臭がプンプン匂った。カブトムシの匂いだった。
その辺に落ちてた小枝を拾って、うろの中の葉っぱを払う。アリとダンゴムシが大量に這い出してきて、うげ、と顔をしかめる。それでも懲りずにうろの中をガサガサやっていると、枝先が何か硬いものに当たった。うろの底に当たったわけじゃない。もっと別の、丸っこくて、人工的な何かだった。
私は夢中になって、湿った葉っぱをかき出した。程なくしてまん丸い頭部がひょっこり覗いた。全面が茶色に変色していて、白球としての名残はどこにも残っていなかった。だけどその球状の物体Aは、確かにあの日、私が置き去りにしてしまったブツに違いなかった。
恐る恐る手に取って、へばりついた虫や汚れをパッパと払う。公園の中には水場があった。蛇口の中は汚れまくっていて、こんなところで手なんか絶対洗いたくないと思っていたけど、それよりも汚染度が何枚も上手の物体Aを確保している状況では、相対評価で清潔だった。
固くなったハンドルをキュッキュと回して、水を出す。付着した汚れを流水で洗い流す。色素は沈着してしまっているから、元の白色に戻ることはなかった。けど、ひとまず泥や葉っぱやらは流れてくれる。
すると、土色に染め上げられたボールから、黒色の文字が刻まれていることに気がついた。
ああ。そういえばあの子、名前書いてたんだっけ。目を凝らして読んで見る。だいぶ掠れてはいるけれど、頑張ればどうにか判読はできそうだった。
その野球ボールに、黒い油性ペンででかでかと綴られた、乱雑なカタカナ二文字。
識別するや否や、脳髄が奥の方からコチコチと凍りついていくような感覚を味わった。
……いや。いやいやいや。まさか。そんなの、ありえないって。
だって、あのとき遊んであげた小学生って、男の子だったじゃん。……思い返してみればやけに美形というか、凛々しいというか、小綺麗で中性的な顔立ちをしていたような気もするし、声も年の割にハスキーだった覚えもあるけれど――、それは、ない。流石にない。いくら何でも、ありえない。大体、この名前ってやけに雑だし、消えかけてるし、私の解読が間違っている可能性だって、充分にあり得るはずだし。
カチ、カチ、と時を刻んでいた脳内時計の秒針が、独りでに動きを止めた。過去にも未来にも動かない。あるのは、静止した現在のみで。眼の前の現実に、強制的に向き合わされて。
二、三分経った頃には、たんまり乳酸を溜め込んだ脚部に鞭打って公園を飛び出していた。
狭苦しい階段をタッタッタッと駆け下りて、沿岸の歩道へと出る。いい加減に気温も上がってきていて、照り返しで肌がジリジリ焼かれる。右手の海で反射する陽光が目に痛い。猫と軽トラとシルバーカーを押し歩くおばあちゃんを次から次へとごぼう抜きして、私は駆けた。休むこと無く駆け抜けた。立ち止まることなく走り続けた。信号だって全部無視した。島内の軽トラなんてタラちゃんの漕ぐ三輪車なみの速度しか出さないから危険性は一切ない。
……あれ。私ってば、何で走ってるんだろう。わかんない。ああ、きっとそのためだ。わからなくするためだ。気づいてしまったら、その瞬間に自分が壊れてしまうから。だから走って、脳内に送られる酸素量を削減させて、まともに考えられないようにしてるんだ。流石は一級現実逃避師。対応が板についている。
野球ボール一つぶんの余分な重さを、きつく、きつく、手のひらに食い込むくらいに力強く握りしめながら、私は闇雲にアスファルトを蹴って、ひた走った。
「――ねえねえねえ、そこの君っ! 若い衝動を持て余し過ぎて、量産型青春小説のラストシーンの主人公みたいになりふり構わず全力疾走してるそこの君……っ!」
唐突に声をかけられた。ただでさえ若人のいないこの島に、量産型青春小説のラストシーンの主人公みたい、なんていう無駄に冗長でピンポイントでしかも若干メタっぽい表現で形容される人物が二人といるとは思えないので、急制動をかけた。何歩か前につんのめりつつ、錆びついたシャッターの下りた二階建ての建物に手を付いて、立ち止まる。ぜぇぜぇと肩で大きく息をして、なんだかデリカシーを感じさせない物言いだな、と憮然としつつも振り向いた。
「あのさ、もしかして君って、青井さんとこの夢ちゃんだったりする……⁉」
ぱたぱたぱた、と小走りで寄ってきて、少々食い気味に質問を投げかけてきたのは、四十歳くらいの女の人だった。小柄ながらもこんがりと健康的に日焼けしていて、小学生みたいな快活さを湛えた表情をしている。そのせいか、やけに若々しい印象を受ける女性だった。白髪一つない色の濃い黒髪も、その認識に拍車をかけていた。
そうですけど、と正直に答えつつ、私は居心地の悪い思いを味わった。他人から一方的に認識されているというのは、嫌な気持ちになるっていうか、モヤモヤした心象を抱かされる。
島というのは閉鎖的な空間だ。島民の孫が本土からやってきたともなれば、その情報は伝言ゲームの要領で、指数関数的に伝播していく。帰省の翌日ともなれば、誰もが知るところとなっている。土地の性質上、仕方がないとは言え、あまりいい気分はしなかった。
「やっぱり夢ちゃんか。ちょうどよかった。実は今から、青井さんのとこに窺おうと思ってたから。はいこれ、お裾分け。うちで採れた夏みかん。よかったら食べてね」
こちらの返事を待つことなしに、私の手を勝手に取って、色鮮やかな夏みかんのぎっしり詰まったビニール袋をボールと一緒に握らせてくる。
ごつごつとした触感だった。働く女の人の手だ、と思った。
「ありがとうございます。それじゃ、私はこれで」
もう一度会釈して、踵を返す。でもすぐに、「あ、ちょっとちょっと」と裾をつままれた。
「用事は、お裾分けってわけじゃなくてね。むしろ、そっちはついでっていうか。本題は、夢ちゃんへのお礼というか、ご挨拶だったから」
「は? お礼? ……えっと。どういうことですか。私達、初対面ですよね?」
不穏な予感がじわじわと胸の奥からせり上がる。悪い人って印象はなかったけれど、実は私を騙そうとしてるなじゃないの? このみかんにも、実は毒が仕込まれていたりして――
今どきフィクションですら流行らないような、使い古された展開に思いを巡らせていたところ、その人は不満そうにぷくぅ、と頬を膨らませ、「わからない?」と訊いてきた。圧をかけるかのように、ぐい、と額を近づけてくる。……な、なんだ、この人。馴れ馴れしい。
無意識に後退すると、私が本気でビビり始めたことが伝わったのか、「ごめんごめん。戸惑わせちゃったか」と謝りながら、近づけていた顔面を遠ざけた。苦笑混じりに肩を竦めて。
「あーあ、いけると思ったんだけどなぁ。私って肌とか若々しいし。まあ、あの子の顔ってどちらかというとお父さん譲りの美形だし、仕方ないか」
あの子。その一言が金槌となり、凍りついていた脳内時計に、ピキンと鋭いヒビが入った。
「私、羽賀瞳っていうの。初めまして。蓮ちゃんが、いつもお世話になってます」
くらり、と。空が反転するみたいに、目の前の現実がぐにゃぐにゃと歪みだす。
右手を、きつく握りしめる。どうにかして、意識を現実の下に繋ぎ止めてみる。
腐葉土に包まれながら、長期醸造されてきた野球ボールに今一度、目を落とす。
焦茶色に覆われながら、なおも影に潜むことはなく、堂々と存在を主張するカタカナ二文字。
乱雑さと掠れ具合から解読は難しいけど、解答を導き出すのはあっけないほど簡単だった。
だって、いくらなんでもこの展開は、お約束が過ぎるというものじゃない――?
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