私は今、海に来ていた1

 清らかで澄み切った、ほんのりと冷気を孕んだ朝の大気をすぅっと吸って、眼下に広がる景色を見やる。青々と葉を茂らせる木々に覆われた丘が、なだらかに広がっている。下部に行くに連れてぽつぽつと建物が増えていき、島全体をぐるりと取り囲むかのように、家々の色あせた屋根や道路が環状に展開する。その先には港があって、穏やかな瀬戸内の海が朝の光を反射して、宝石箱のようにキラキラと輝いている。

 私は今、海に来ていた。

 私は今、海に来ていた……っ!

 なんだかんだありつつも度重なる困難を乗り越えた私と蓮は、戦勝祝いに海水浴に訪れていたのだった! 勿論、他の登場人物も皆一緒! 物語はハッピーエンド! さぁ、皆で横に並んで、煌めく海に飛び込んで、美しいラストシーンを――

 などという展開はない。断じてない。あるわけがない。

 何故か。それは今日が七月二十日、つまりは一学期の最終日、もっと言えば生徒会選挙の投票日に他ならず、しかし時刻は日本標準時で午前八時半ちょっと過ぎだからだ。つまり、選挙はまだ実施されていなかった。

 結果が出ていない段階で戦勝祝いなんてやりようもない。そして、そんなものが将来的に行われることもないというのは、未来の到来を待つまでもなく確定しているようなものだった。

 しばらくの間、街並みを眺めるともなしに眺めていた私だったけど、徐々に眠気がぶり返してきた。安閑とした景色にはあまりにも変化がないからか、或いは、初夏の朝の空気と木漏れ日の暖かさが春先の布団の中みたいだからか。こっちに着いたのはつい昨日で強行軍の移動だったし、疲れが抜けきっていないせいもあるのだろう。

 靄のかかった頭では、考え事をする気も起きないし、そもそも考えたくもない。現実逃避するかのように、脳内時計の針をくるくると左に回す。

 朝ご飯だよとお祖父ちゃんが起こしにきたのが、七時ちょっと前だっけ。ご飯、味噌汁、漬物、鮭という古き善き日本人の朝食を堪能し、食べ終わって食器を洗って、部屋の中で壁と天井を修行僧のように眺め続けて三十分ちょっとで飽きが来て、「散歩してくる」とお祖父ちゃんに声をかけて、お年寄りの一人暮らしには広すぎる木造の平屋を後にした。

 麓の方は昨日ある程度回ったからと、島中央に聳える丘に登ってみることにした。でも運動不足の身体には思いの外きつくって、中腹辺りで力が尽きた。石段に腰掛けて休憩しつつ、ぼんやりと朝の瀬戸内海を眺め始めて、物思いに耽り始めたところで記憶が現在へと辿り着く。

 広がる眺望の恒常性はやはり堂に入っていて、注意を向ける先がない。すると眼前に横たわる諸問題のあれやこれやが、ぽつぽつと意識に浮上してくる。一級現実逃避師の私としては看過できない状況だった。素早く思考の流れを止めて、時計の針を更に三日と半日ぶん巻き戻す。

 そうして再生されるのは、合宿二日目の夜の記憶だ。

 部屋に戻って布団に潜って横になりはした私だけれど、あんなことがあった後だし、呑気に眠りにつけるはずもなかった。蓮の寝息が聞こえないように耳を塞いでいたものだから、心臓の音は鼓膜を直接打ってくるようでやかましかった。とはいえキャッチボール――と称するに値するかはともかく――で無駄に疲れていたこともあり、体感で二、三時間が経過した辺りで、断続的な浅い眠りに襲われるようになってきた。

 それが、いけなかった。

 人間の睡眠はレム睡眠とノンレム睡眠に分けられる。レム睡眠とは浅い眠りで、人が夢を見るときはレム睡眠をしているという。定期的に意識が飛んでは数分で目が覚める、なんてプロセスを繰り返していた私がしていたのは、言うまでもなくレム睡眠だ。

 だから私は、夢を見た。夢というのは人間の無意識の表れだ。精神状態がメチャクチャな状態で見る夢が、どれほどおぞましいものなのか、語るまでもないだろう。

 夢の中に出てきたのは、蓮だった。

 だけど、いつもの制服姿ではなかった。全裸だった。

 一糸纏わぬ姿の蓮は、籐椅子に腰掛ける私に対して、後ろから抱きついてきた。私は、振り返ったりはしなかった。そのくせして蓮が裸だと理解できたのは、目の前に際限なく広がる曖昧な壁面が、ミラーハウスのように全面鏡張りになっていたからだ。

「好きですよ、先輩」

 蓮が、耳元で呟いた。かかる吐息はやけに熱っぽく、声もねっとりとしたもので――

 そこから先の展開は、既にコンクリ詰めにして記憶の井戸の底に沈めているので割愛する。

 覚醒直後の記憶まで一気に回想シーンを飛ばす。

「――先輩。あの、先輩。……っいた⁉」

 ガツン、と。何もかもが朧気だった夢の世界ではありえない、鋭利な痛みが額に走る。その衝撃で目が覚めた。それと同時に死にたくなった。じんじんと殴打の痛みを訴える頭部を更に痛めつけるように、両手できつく、強く抱えて、指圧するように力を込めた。

「ああもう、痛いなぁ。何なんですか、バネ仕掛けの玩具みたいな勢いで飛び起きて。……って、先輩? あの、大丈夫ですか? 頭、そんなに痛かったんですか?」

 蓮が顔を覗き込んでくる。私は慌てて横を向く。夢での光景がフラッシュバックした直後、右手の甲を口元にひしと押しつけていた。虛構の唇に張り付いた感触を拭い去るかのように。

「……いや、大丈夫。それよりごめん、頭突しちゃって。……もう起きたほうがいい時間?」

「いえ。まだ六時過ぎなので、もう少しゆっくりしてても大丈夫だと思います。私もトイレで起きただけですし。だけど、先輩がなんかちょっと息苦しそうにしてたから、心配になって」

「そっか。それは、ありがとう。……えっと。もしかして私、寝言とか言ったりしてた?」

「いや、それはなかったですけど。あの、先輩? なんか、さっきからすごく顔赤いですけど、もしかして暑かったですか? 空調下げましょうか?」

「う、ううん、大丈夫、大丈夫。私、寝起きは顔赤くなるから」

 はぁ、と気の抜けた相槌を蓮が打つ。大口を開けて、くわぁ、とあくびをしてくる。

「……やば、やっぱまだ眠いなぁ。私、朝あんまり強くないんですよね。すみません、先輩。ちょっとだけ、ここで休ませて下さい。二度寝する前に、動きますから」

 こんなときに限って自堕落なことを言ってきて、膝の辺りに蓮が頭から倒れ込んできた。

 息が、止まった。懲りもせずに心臓を跳ね上がらせている自分自身に、死にたくなった。

 ごめん、と突きつけるように謝罪の言葉を口にしながら、蓮の身体を無理やりどかす。枕脇のスマホだけ手にとって、布団から出て立ち上がった。「朝ご飯買いに行ってくる」とだけ吐き捨てて、戸惑う蓮の声を振り払うかのように全速力で部屋を出た。乱暴にドアを閉め、廊下を駆け抜け、階段を二段飛ばしで飛び降りる。脱兎の如く宿泊棟の外に出て、遮二無二走った。

 最低だ。私ってば最低だ。最低だ最低だ最低だ最低だ。なんて夢見てんだよなに蓮をそういう目で見てんだよ蓮は私のことなんか好きじゃないのにそういう目で見られることなんか望んでないのに同性なのをいいことに蓮の裸ガン見してあんな性欲丸出しの夢まで見て馬鹿じゃないのこの変態がクズだクズだクズだあんな目で見てるって知ったら蓮は絶対傷つくし絶対ドン引くというか普通にキモいんだよ後輩のこと性的な目で見るとか欲求不満かよああもう死ね死ねば良いこの変態死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね――

 無我夢中で疾駆していた私の肩を、何者かが力強く掴んだ。

 逆に後ろに引っ張られ、危うく転倒しそうになった。肩に食い込んでいた手が離れる。

 肩で大きく息をしながら後ろを向くと、そこに立っていたのは比良だった。ピンと人差し指を立てたまま、眉間にきつくシワを寄せ、お説教をし始めた。

「駄目だよ、校門から飛び出しちゃ。車とか自転車とかも通るんだから」

 今になってようやく、私が全速力で裏門から飛び出でようとしていたことに気がついた。ごめん、と口頭で謝罪する。いっそ車にでも撥ねられて死ねばよかった、と内心では思っていた。

「で、どうしたの、そんなに急いで? というか、パジャマ汚れちゃうよ」

 既に制服に着替え終えている比良が、パジャマの裾を指さした。確かに土埃が付着している。慌てて屈んで、手のひらで汚れを払った。幸い土は乾いていたから、簡単に落ちてくれた。でもすぐに、柱を這い上がるゴキブリのように、自己嫌悪の念が胸の底から湧いて出た。

 ……蓮に褒められたやつだからって必死になって、馬鹿みたい。

「その。コンビニまで、朝ご飯買いに行こうかって」

「あ、じゃああたしと同じだ。折角だし一緒に行こうか」

 正直、一人にしてほしかった。でも、断るだけの理由が見つからなかった。結局、比良の半歩後ろをついていくことになる。連れ立って朝の街中を歩いていると、出勤、登校途中の人たちと、ちらほらとすれ違った。私も着替えてくればよかったと、遅すぎる後悔に襲われた。

 ピーク時間帯よりも些か早い時間だからか、店内は意外にも閑散としていた。数名いた客も買うものは決まっているのか、躊躇なく商品を手に取ると手早く会計を終わらせて、忙しない足取りで店の外へと出ていった。入り口で籠を取り、比良のあとに続く形でおにぎりやサンドウィッチの棚へと向かう。何を買えばいいのかな、と現実逃避のように考える。昨日の夜はおにぎりだった。同じでいいのか、それとも朝はパン派だったりするのか。ヨーグルトやシリアルって線もある。飲み物も、買っていったほうがいいのかな。駄目だ。何一つわからない。

 逡巡する私とは反対に、比良は迷うことなく籠に食べ物を入れていく。分量からして、おそらく漆原たちのぶんも含まれているのだろう。些細な問題ではあるけれど、こういう部分にこそ付き合いの長さの差が出るんだろうな、と思った。

 棚の前で途方に暮れる私を他所に、比良はササッと会計を済ませた。携帯型のエコバックに買ったものを入れてから、私の隣まで歩いて来た。

「わざわざ待ってくれなくてもいいよ。先に戻っててよ」

「大丈夫。急ぎの用事があるわけでもないから。それに、漆原からなるべくゆっくり買い物してこいって、念押しされちゃったし」

「ゆっくりって、どうして?」

「あたし、いつも五時半起床だから、今日もそのくらいに目が覚めたんだ。二度寝するのも時間の無駄だし、折角だから体育倉庫の備品整理をしてたんだけど、七時過ぎくらいに静がいきなり倉庫に来て、朝っぱらから働きすぎだって説教してきたの。ひとまず代わりにやっておくから、休憩がてら朝ご飯でも買ってきてって言われた。本当、変な話だよね。漆原だって、昨日、散々働いてたのに。自分の選挙活動そっちのけで、あたしや応援人の子たちの演説原稿の添削したりとか、生徒会の事務作業の処理したりとかさぁ。随分大変そうだったよ」

 そういえば。昨日、野球から返ってきて階段ですれ違ったとき、漆原はやけに汗をかいていたっけ。あれは私達が遊んでいる間、熱気の籠もった校舎の廊下を走り回っていたからか。

 昨夜の漆原の言葉が、ブーメランのように時間軸上を舞い戻り、再度、私の心臓を貫いた。

 ……そりゃ、ムカつくに決まってるよね。一生懸命、学校のために働いてる人からすれば、私みたいにふざけ半分で選挙に出てる奴。不登校で生徒会だなんてその時点で無理があるのに、その動機すら欺瞞だらけで、本当はただ好きな相手と一緒にいたいだけだったんだから。

「……あのさ、比良。参考までに訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」

「ん、なになに? あたしに答えられることなら、なんでも答えるけど」

「比良はさ。一年のとき、なんで生徒会役員になろうと思ったの?」

「どうしてって。うーん、改めて訊かれると中々答えにくいなぁ。ぶっちゃけ、大それた理由はないよ。皆のために何かして、ありがとうって言われるのが好きなだけだから」

 要するに、シンプルな善意。身勝手極まりない理由で立候補した私とは、大違い。

「……そっか。凄いね、比良は」

「いやいや、あたしなんかより青井のほうがよっぽど凄いよ」

「……いや、なに言ってるの? そんなわけ、ないでしょ」

「なくないよ! あたし、ずっと思ってたんだけど、不登校のまま生徒会選挙に立候補するのってものすごく勇気がいることでしょ? なのに青井は、その恐怖や不安に打ち勝って立候補届を出した。同じ境遇を抱えている人達が、少しでも生きやすくなるように、って。それは誰にでもできることじゃないと思う。あたしみたいな考えなしより、よっぽど偉大なことだよ」

 お世辞でも皮肉でもないことは、邪気の欠片もない物言いと表情からして、明らかだった。

「最初に青井の政策を聞いたときとか、目から鱗だったんだよね。不登校の子が生徒会に参加する環境が整っていないのも、不登校とそれ以外で成績評価に不均衡があるのも。全部、青井が立候補してくれなかったら気づけないままだった。本当にすごいよ、青井は」

 うん、と何気ない返答をした自分を、絞め殺してやりたいと思った。

 それを考えたのは私じゃないのに。私が褒められる謂れはないのに。

「約束するよ。仮に青井が落選してしまうことがあっても、そのときあたしが会長か副会長に当選してたら、青井の政策は責任を持って受け継ぐから」

 え、と間の抜けた声が漏れ出た。私が黙念とその言葉の意味を反芻していると、比良は気を悪くしたと勘違いしたのか、慌てて弁明をし始めた。

「ああいや、青井が落ちると高をくくってるとか、そういうわけじゃないんだ。だからその、要するに、青井の主張には私も共鳴するよってことを言いたくて――」

「うん、わかってる」比良の言葉を遮って、顔いっぱいに愛想笑いを貼り付けた。

「ありがとう、比良。そう言ってもらえると、嬉しいよ」

 その言葉を口にした瞬間、私の中で何かの糸がぷつんと切れた。

 ――なぁんだ。私が選挙に出る意味って、実は一個もないんじゃん。

 私が嘯いていたマニフェストは、次の生徒会長になる比良が代わりに実行してくれる。蓮との関係についても、私みたいな卑怯者に側にいる資格はない。一度でもそういう眼差しを向けてしまった以上、蓮の前から消え去るのが誠意だと思うから。

 だから今の私には、この場所にいる理由が、生徒会選挙に出る理由が、一つもない。

 先程までの焦りようは鳴りを潜めて、私はある種、悟りを開いたかのような冷静な心持ちで宿泊棟に戻った。さっきはごめんと蓮に詫びを入れてから、二人で朝食を取り、その後は遊んだり原稿のチェックをしたりして、合宿の二日目を漫然と消化した。

 その日の夜。明後日から島のお祖父ちゃんのところに行きたい、とお母さんに頼み込んだ。お母さんは驚いたように目を見開いたけど、それも一瞬のことだった。理由を聞くことも心配してくることもなく、ただ静かに「わかった」とだけ言って頷いてくれた。先生への連絡とか、島までの移動手段の確保とかも、嫌な顔ひとつせずにしてくれた。

 ありがたかった。ありがたすぎて、苦しかった。

 そうして昨日のお昼すぎ、私は約四年ぶりにこの島に降り立ったのだった。

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