深夜の告発
「――それで、一体何の用なの? こんな遅い時間に」
「まあ、ちょっとね。それより飲み物、お茶で良い?」
「あ、うん。……ありがと。お金、明日返すから」
「別にいいわよ、このくらい。呼び出し料ってことで」
スマホにメッセージを送ってきたのは、あろうことか漆原だった。十中八九お母さんだろうと高をくくっていたものだから、最初、誤爆でもされたのかと気が気でなかった。
結果的に送信ミスではなかったものの、だからといって、漆原に呼び出される心当たりもない。どちらにせよ、不審感は拭えなかった。
時刻は十一時半くらい。宿泊棟を抜け出した私たちは、グラウンド隅の部室棟の脇にある、プラスチック製の古びたベンチに並んで腰を下ろしていた。お互いなんとなく端の方に寄っていて、中央にはペットボトルが二本、鎮座している。
校舎を囲むフェンスの先に目を向ければ、点々と設置された街路灯が夜の住宅街を白々と照らしあげている。でも、グラウンドに電灯なんて設置されてはないし、そもそも学校というのは深夜の利用者を想定してはいないから、全体的に夜間照明の数が少ない。背後にある自販機と一本の電灯のおかげで、このベンチの周辺だけは妙に明るい。まるでスポットライトに照らし出された舞台のようで、ひどく落ち着かなかった。
自分から呼び出しておきながら、漆原は中々話を切り出してこなかった。自分の分のお茶を、蓋を開けもせずに手のひらでくるくると弄んでいる。私は、さっきからチビチビと口をつけて気まずさを紛らわせていたので、既に半分近く中身がなくなっていた。
「ねえ、青井さん」顔は暗闇のグラウンドに向けたまま、目線だけを私に向ける漆原。
気まずい沈黙が終わったことに密かに胸を撫で下ろしつつ、「何?」と私は返す。
けれど、その一秒後。私は、今以上の居心地の悪さを味わわされる羽目になった。
「――あなた、生徒会選挙に出るの、やめたら?」
あまりにも淡白に言うものだから、最初、音が意味のある文章に変換されなかった。
「……え? あの、漆原、今……なんて?」
「だから、生徒会選挙に出るのをやめたらって、そう言ったのよ」
生徒会選挙に、出るな。流石に、二回も聞けば何を言われたのかはわかる。でも、何故そんなことを言われたのかは、全くもってわからない。……いや、急になに言いだすんだ、こいつ。
「だってあなた、本当はどうだって良いんでしょ? この学校のことも、生徒会のことも、不登校の生徒の権利回復も」
当惑する私に対し、漆原はあくまでも泰然とした態度を崩さない。しばらくは唖然として固まることしか出来なかった。でも、漆原のあまりに横柄な態度に、次第に腹が立ってきた。
「いや。……出るなって言われても、困るんだけど。なんで、漆原にとやかく言われなきゃ行けないの? そもそも、なんで漆原に私の動機を推し量られなきゃいけないわけ?」
私個人が否定されるのなら、別にいい。でも候補としての私が否定されるということは、蓮も一緒に否定されるということだ。それだけは許容できなかった。
そもそも、言ってきたのが漆原だというのが何よりも釈然としなかった。以前のような互いにきつく対立しあっていた頃ならともかく、多少なりとも和解ができたこの期に及んで、何故こんなにも侮蔑的な言葉を投げつけられなければならないんだ。
心の底から、納得がいかなかった。裏切られた気分だった。でも、強い憤りを燻ぶらせる私とは反対に、漆原はあくまでも冷然としていて、冷静で、冷徹で、そして何よりも冷酷だった。
「――だって。あなた、好きなんでしょ、羽賀さんのこと」
数秒の間、呼吸を止めていたことに、遅れて気づく。
「は、はぁ? ……いや、出し抜けに何言ってるの? なわけないじゃん。だって――」
「女同士だから?」喉に詰まらせた言葉の先を、漆原が引き継いだ。
「それがどうかしたの。だって青井さん、女子が好きなんでしょ?」
……違う。なわけない。ふざけたこと言わないで。
言い訳の言葉はぽこぽこと頭に浮かぶ。けれど、そのどれもが声になってはくれなくて。浮遊するシャボンのように、触れたそばからぱちんと弾けて壊れてしまって。
やっぱりそうだ、と言わんばかりに嗜虐的な笑みを浮かべる漆原。
それはまるで、こじ開けた傷口に塗り込まれる、塩のようだった。
頭の中で幾つもの概念と情念が渦巻いて、乗り物にでも酔ったみたいに、目の前がぐるぐる回る。胃袋がひっくり返って、吐きそうになる。……待って。いや。待って。待って待って待って。なんで、そんなこと知ってるの? 私、そんなこと一言も言ってない。誰かから訊いたわけ? 噂にでもなってるわけ? もしかして今頃、学校中で噂にでもなっているわけ――?
「言っておくけど、誰かから訊いたとか、そういうわけじゃないから。その程度のこと、日頃の言動を見てればわかるわよ。貴方の反応、わかりやすいし」
わかりやすいって、……いや、なにそれ。じゃあ私が知らないうちに、皆、私が蓮のこと好きだとか、そんなふうに思いこんでるってわけ? 山口先生も? お母さんも? ……蓮も?
漆原が、ふぅ、と乾いた呼気を吐き出した。その音で現実に引き戻される。漆原は蓋を開けさえしていないペットボトルを取った。おもむろに立ち上がり、私のことを見下ろした。
「私はね、青井さんが不登校という今までになかった立場から、この学校を本気で改革するつもりなんだと思ってた。だけど、今日になってようやく気づけた。それは単なる私の勘違いなんだって。あなたはただ、片思いしている相手とくっついているための大義名分が欲しかっただけなんでしょ? ……ああ、下らない。心の底から下らないわね、あなたって」
「……どうして。どうして、蓮を好きになっただけで、そこまで言われなきゃ、いけないの」
口答えというよりも、独り言に近かった。本当は声に出すつもりなんてなかった。無意識に、喉を震わせてしまっただけで。嗚咽が漏れるのだけは、残った理性でどうにか堪えた。
ガンッ! と漆原が乱暴に背もたれに手をついた。直射日光で劣化したプラスチックが大きく歪む。漆原は今までにないほど憎々しげな顔つきで私を睨みつけながら、言い放つ。
「勘違いしないで。私は何も、あなたが女を好きなのをとやかく言ってるわけじゃない。それ自体は私には関係のないことだし、興味もない。……私が許せないのはね、あなたが下らない色恋沙汰の道具に生徒会選挙を利用していることよ。それは生徒会に対する冒涜であり、全生徒に対する裏切りだわ。……いい? 青井さん以外の候補者は皆、心からこの学校を良くしようと考えて生徒会役員を目指しているの。でも、青井さんは違うでしょ。本当はただ、好きな人と一緒にいたいだけ。そんな人間に、生徒会選挙に出る資格があるって、自分で思う?」
……私は、何も答えられなかった。顔を俯かせながら、現実逃避するかのように、過去の記憶へと意識を飛ばす。目を逸らし続けてきた自分の本音を、恐る恐る垣間見る。
蓮と、始めて校内で出くわした、あの日。忘れて下さいと口にして立ち去ろうとした蓮を、引き止めたわけ。届出書に名前を書いた理由。それは決して、一つではないと思う。あのときの衝動は、単一の感情にまとめ上げられるほど単純なものじゃない。だけど核を成していたのは、あのまま蓮を行かせてしまえば、蓮との縁が切れてしまうからで。それを思うと苦しくて、胸がぎゅうっと締め上げられるみたいで痛くて、一人ぼっちに戻るのが嫌で、……好きになった相手と、意識し始めていた相手と、離ればなれになるのが、嫌だったからで。
いや、あのときだけじゃない。立候補を最終決定したのは、どうして? 蓮の立場が悪くなるのが嫌だから。予想問題の作成を提案したのは、どうして? 蓮に褒めてほしかったから。
――ああ、と。今更のように、思い知る。
私をここまで走らせ続けてきた、一番の理由。それは、蓮以外の何者でもなかったんだ。私はいつも、蓮のことしか頭になかった。どうしたら蓮が喜んでくれるか。構ってくれるか。慕ってくれるか。側にいさせてくれるか。嫌わないでいてくれるか。そればかりを考えていて。
頭の中には、蓮しかなくって。
心の中には、蓮しかいなくて。
「……ま、取りやめる気がないって言うなら、それでもいいけど。ろくな選挙活動もせず、片思いの相手と遊び呆けるような輩に、負ける謂れはないし」
それじゃあ、と。砂漠を吹き抜ける風のように乾ききった声で言い、漆原が立ち去った。
ぽつん、と。闇に飲まれた世界の中で、ただ一つ。
薄明かりに照らし出される私の身体を、意識する。
それはまるで、犯した罪を告発される、極悪人のようだと私は思った。
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