六、結び

 私は今この文を、洛都から四里ほど離れた宿場町でしたためている。

 例の旅日記の通りに明けの洛都とは、人の世の最高の愉楽と人知を超えた驚異とが、小路を隔てて隣りあう惑わしの都であった。今ならば私にもわかる。名無しの七嗣がほのめかしたごとく、洛都の貴族は彼らの桜を独占して売らぬのではなかった。

 龍神の水で育った桜は、もとより龍神の眷属けんぞくなのだ。美しく妖しき桜花はなを咲かせる樹ほど、神々は愛して手放さない。

 我が元に残った枯枝だけは、この文と共に送り届けるよう手配する。もはや枝に宿る精霊はいないとはいえ、人知の及ばぬ領域のこと。もしもお城への釈明に枝を用いたとしても、我が家や藩国に龍神の怒りを呼び込むことなきよう、いずれ水へ還すか、大社にておはらいのうえ焚き上げていただくのが賢明だろう。

 名無しの七嗣は、桜が龍神川を越えられぬと知っていたに違いない。形としては騙されたわけであるが、あの夜盗を責める気は毛頭ない。確かに一度はこの手に本物の桜を渡してくれたのだし、たとえ前もって話を聞いたところで、私はいぶかしみ、田舎者への許しがたき嘲弄と判じたであろうから。――そして彼のおかげで私は、洛都の桜が龍神の厚い庇護のもとにあると知った。

 ならば、都の外の桜は? 同様に神々の加護を受けているのだろうか。

 恐れ知らずと罵られるのは百も承知である。しかし私も植木商。出自はひたすらに花を愛した一介の庭師にすぎなかった。天上世界から盗んできたような桜を、この手より失って数日。あのあり得べからざる桜花はな色彩いろと、童女の肌にも似た花弁のしとやかな手触り、鼻孔をくすぐる高雅な芳香、霊宿たまやどる花樹の佳麗さを、私は夢寐むびにも忘れられることができないのだ。

 都から北西二里に〈化野あだしの〉と呼ばれる風葬の穢土えどがある。また南東二里の方角には〈烏須野からすの〉という同様の葬送地が。どちらも洛都とその周辺の無縁仏の行く先であり、異聞に耳敏い七嗣によれば、それぞれに都の桜にも比肩する怪樹が佇んでいるという。

 化野には、背丈が躑躅つつじほど低いが、根を同一にする〈泡子車あわこぐるま〉の群生が。愛らしい丸い花弁は湧き水さながら透明で、周囲の暗い竹藪を透かし降る陽光に、純粋無垢にきらきらと輝くのだという。

 烏須野からすのには、象牙めいてすべらかな樹幹じゅかんを誇る巨樹〈緋々桜ひひざくら〉が。骨じみた白い木肌とは対照的に、花弁は息を呑む鮮血色。奇怪にも季節問わず桜花はなは常に咲き乱れ、風がなくとも永久とこしえに花弁を散らせ続けているとか。

 いずれの桜も墓地に立つ以上、その異様な生気をどこから得ているかは推して知るところだ。ゆえに都人みやこびとは恐れて近づかない。だがむくろで咲かせた花ならば、洛都の桜に劣らず、いやそれよりも豪奢に、妖艶に咲き誇っていることだろう。

 私はそう期待する。そして不浄の命であるがゆえに、護都双龍ごとそうりゅうの加護もないことを願う。

 この筆を置き次第、私は洛都を再訪するつもりだ。都人から忌まれる穢土へ潜み入るのに、夜盗の助けはいらないだろう。

 もし私が戻らねば、店は咲次朗さくじろうにいっさいを任せる。七嗣は私に、都へ一年は戻らぬがよいと警告した。当てが外れれば、次こそ私も白い迷霧に囚われるのかもしれない。消えた公家のこうべや物乞いの行く末を、この目で見ることになるかもしれない。

 それでも私は道を戻る。それほど桜花はなに魅入られてしまった。願わくば、無事に新たな枝をこの手に納められんことを。

 では、私は桜にいにゆく。筆を置く。不安はない。

 ただ恐怖とも熱情ともつかぬ、かすかなおののきだけがある。

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逢桜遺文 鷹羽 玖洋 @gunblue

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