五、水面に還る

 その夜は朧月だった。

 半分近く欠けた月が花曇りの雲から銀灰色の光をぼんやり透かし、世界を、ものの形の明瞭でない薄暗闇に仕立てていた。

 来たとき同様に、私は七嗣ななしに都の南西〈朱鬼門しゅきもん〉まで送ってもらった。〈朱鬼門〉と、その対にあたる北東の〈蒼鬼門そうきもん〉は凶の方角にあたるため、普段から固く閉じられて衛士もないらしい。筋骨隆々だが虫食いだらけの仁王像二体に守られた大門、そのがっしりしたかんぬきには手を付けず、七嗣は脇の通用口の錠前を手早く外してくれた。

「船で帰るのか?」と七嗣は聞いた。報酬の巾着袋の重さを確かめ、銭をかちゃかちゃ数えながら。ちらりと上目遣いで私を見やり、「俺は陸路で行くのをおすすめするね」

 私はこの小悪党を、心の底から信用したわけではなかった。だから答えを曖昧にごまかし、彼が何を企んでいるにせよ、その狙いをくじこうと試みた。けれど若者はちょっぴり肩をすくめただけで、それ以上追及する気を欠片も見せなかった。

 都の西門の先に流れる〈銀鉤川ぎんこうがわ〉、そこに〈去月橋こげつきょう〉という立派な橋がかかっている。洛都から去り〈内海〉をも越える者は普通、橋のたもとの船溜まりから川船で南へ下り、港で廻船に乗り換えてそれぞれの国へ発つものだ。しかし私は交易に関わる豊葦国とよあしこくの者の目を怖れ、橋を渡った先にある一つ向こうの小港から国へ帰る予定でいた。

 大切な桜の枝は一本ずつ、枯れぬよう切り口に水を含ませた苔をあてがい、油紙でしっかり包んだものを、黒漆塗りの文箱ふばこにしまって三色の組紐で封印していた。箱の錦の包み布には藩主一族の家紋が金糸で縫い取られているから、豊葦国の衛士だとておいそれと触れられはしない。ただ用心に用心を重ね、迂遠な帰路を選択したのだ。

「去月橋を渡るのなら早足で、都を振り向かぬことだな」

 七嗣の別れの挨拶には不可解な恐れと憐れみと、それに少しの好奇心も混じるようだった。

 奇妙な言葉に不審をおぼえ、私は七嗣の視線を追った。怯えながらも脅威にむかい、爪をのばさねばいられぬ野良猫のように、彼は道の先を満たす暗闇に鋭い目を凝らしていた。

「あんたはなぜ、洛都に多くの異形の桜が育つのだと思う? 植木商ならわかるだろうが、あんな珍奇な桜花はなの樹を、人の手で自在に創り出したと考えるのはちょっと無理がある。洛都の桜は貴族どもの主張どおり、連中お抱えの庭師が創ったものなんかじゃないのだ。そういう俺だって、実際のところは知りはしないんだがね。ただ、いつか黒蔵主くろぞうすほこらの巫女が、こう言うのを聞いたことがある」

 洛都に生まれる草木花実そうもくかじつは、なべて護都双龍ごとそうりゅうの水を吸って命を得たものである。龍神の、いわば乳を飲んで育った樹木に尋常でない精怪せいかいが宿ったとて、なんの不思議があるだろうか。また龍神の宝珠ともいえる美麗な桜、その花を、神々が掌中からとて離さぬのももっともである――。

「ではな、あんたは上客だった! また洛都貴族のお宝が欲しくなったら、俺が話を承けてやってもいい。だがあんたは、そうだな、一年ばかり、この都には戻らんほうがいいかもしれんぜ」

 最後の言葉を言い終えたとき、夜盗の姿はすでに門前から消えていた。留め金の朽ちかけた扉をぎしりとも言わせず、朱鬼門の通用口は元通りに閉まっていた。

 あたりは静謐だった。野良犬の哀泣ひとつない。

 私は朱鬼門前の小道から西方への大街道へ出、ほどなくして去月橋のたもとに歩き着いた。

 橋を渡りはじめたとき、銀紗を透かしたような瀰漫びまんした月光が照らすかぎりにおいて、私の他には誰一人、通行人はいなかった。橋の下ではさらさらと、広く浅い香出川が涼やかな波音を立てていた。

 ちょうど大橋の半ばまで差し掛かったころだろうか。私は人か獣の呻きに似た物音を聞いたように思った。ぎょっとして足を止め、大事の文箱を胸に抱えて前後を確認した。

 やはり人の気配はなかった。春たけなわの未明、花見客は酒に酔いしれ、高いびきで寝入っている。またこの時刻に仕事に励む野盗がいたとしたら、それは盗人に似つかわしくないよほど勤勉な人間といえた。

 緊張が生んだ空耳だろう。息を吐き、私は歩き出した。その背を追うように、先ほどと同じ呻きが響いた。

 私はぞっとして立ちすくんだ。今度の音は川のせせらぎのまにまに、かすむことなくはっきりと、苛立たしげな気分もあらわに私の耳朶じだに届いたからだ。

 呻きというより唸り声か。あるいは、橋桁はしげたに絡まった流木の朽ちて軋んだ悲鳴かもしれない。

 無理やり決めつけ、そのまま立ち去れば良かったものを、私の脳裏には今頃になり七嗣の数々の警句が蘇ってきていた。

 両目を剥いて前後を確認する。都は川霧の向こうだった。誰かいるかと私は呼びかけ、返事を待ったがいらえはなかった。知らぬ間に濃霧が、急速に湧き起っていた。日の出にはまだまだ遠い。にも関わらず川霧は、内に清らかな真珠の光沢を抱くごとくにほの光り、そうでいながら私の行く先を白い闇で閉ざしていた。

 遠近おちこちと、ぶつぶつと、唸り声は続いていた。いまやその声は意味不明の恐ろしげな抑揚ではなく、怒りを抱いて不満を訴える人声のように聞こえはじめた。

 口は、からからに乾ききった。足は膝からがくがく震えた。力が抜けて後ずさり、私は背中に硬い欄干らんかんの打つのを感じた。

 突然はっきりと、地鳴りめいて低い声が轟いた。不機嫌な老人を思わせる、喘鳴ぜんめい混じりの呟きが。

「どこへゆく。戻りよ」

 わっと叫び、私は欄干から背を離した。声は充分な間を置いて、二度、三度と繰り返された。源は、そう遠くない水面の、浅いはずの川底よりもずっと深くの奈落に思えた。

 手元でカタカタと文箱が震え、私は思わず箱を投げ出しかけた。「あい」と童子めいた高い声がふたつ。腕の中で重なって聞こえたと思ったとたんに、文箱を包んだ錦布がじわりと湿った。

 今度こそ箱を取り落とした。包み布から飛び出た文箱は、厳重に結んだはずの太い組紐がぶつんと音立てて切れた。蓋の隙間から、澄んだ清水がみるみる溢れ出してくる。呆然とする私の前で、水はみずちさながら細長く、本当の生き物のようにまとまった。そのままくねくね這っていき、橋の端から川へ落ちた。這い去る蛟の内側に盗み取ってきた桜の花弁が、ふざけあうように、遊ぶように、ひらひら渦巻き踊るのが見えた。

 ――なんたることだ。桜花が!

 ぱしゃんと水音が耳を打つ。呪縛を解かれ、私は欄干へ駆け寄っていた。

 恐怖を抑えて身を乗り出した、川の面に見えたもの――川水がぐっと太いうねり上げて、その緩やかな曲線を描く表面に、鱗の紋様じみた規則的な凹凸が刻まれていた。川底の透けて見通せる、太い水の奔流の内側を、薄青色と梔子くちなし色、散った桜の二色の花弁が流れに逆らい遡ってゆく――。

 私の全身を覆っていたのは、川霧ではなく冷や汗だったと思う。我に返ったとき、あれほど濃かった霧は嘘のようにれており、私は欄干に体重を預けたまま、さらさらと何の異常もない清冽な川の音を聞き入っていた。

 夢を見たのだろうか? 洛都のあまたの怪奇譚に彩られた恐ろしい白昼夢を。

 しかし橋の上には濡れそぼった包み布、そして蓋のわずかにずれた黒漆の文箱が残されていた。それらを拾い、今度は振り向かず、私は去月橋を早足で渡りきった。固い土の感触を足裏に踏みしめてから、ようやく強張こわばった両の指をなんとか開き、文箱の蓋をおそるおそる開いた。

 そこには油紙に包まれた枝が二本、間違いなく納まっていた。

 ただし花はどこにもない。散ったはずの花弁すら。

 枝は千年も焼かれた骨同然に黒く縮かみ、枯れ果てていた。

 

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