五、水面に還る
その夜は朧月だった。
半分近く欠けた月が花曇りの雲から銀灰色の光をぼんやり透かし、世界を、ものの形の明瞭でない薄暗闇に仕立てていた。
来たとき同様に、私は
「船で帰るのか?」と七嗣は聞いた。報酬の巾着袋の重さを確かめ、銭をかちゃかちゃ数えながら。ちらりと上目遣いで私を見やり、「俺は陸路で行くのをおすすめするね」
私はこの小悪党を、心の底から信用したわけではなかった。だから答えを曖昧にごまかし、彼が何を企んでいるにせよ、その狙いを
都の西門の先に流れる〈
大切な桜の枝は一本ずつ、枯れぬよう切り口に水を含ませた苔をあてがい、油紙でしっかり包んだものを、黒漆塗りの
「去月橋を渡るのなら早足で、都を振り向かぬことだな」
七嗣の別れの挨拶には不可解な恐れと憐れみと、それに少しの好奇心も混じるようだった。
奇妙な言葉に不審をおぼえ、私は七嗣の視線を追った。怯えながらも脅威にむかい、爪をのばさねばいられぬ野良猫のように、彼は道の先を満たす暗闇に鋭い目を凝らしていた。
「あんたはなぜ、洛都に多くの異形の桜が育つのだと思う? 植木商ならわかるだろうが、あんな珍奇な
洛都に生まれる
「ではな、あんたは上客だった! また洛都貴族のお宝が欲しくなったら、俺が話を承けてやってもいい。だがあんたは、そうだな、一年ばかり、この都には戻らんほうがいいかもしれんぜ」
最後の言葉を言い終えたとき、夜盗の姿はすでに門前から消えていた。留め金の朽ちかけた扉をぎしりとも言わせず、朱鬼門の通用口は元通りに閉まっていた。
あたりは静謐だった。野良犬の哀泣ひとつない。
私は朱鬼門前の小道から西方への大街道へ出、ほどなくして去月橋のたもとに歩き着いた。
橋を渡りはじめたとき、銀紗を透かしたような
ちょうど大橋の半ばまで差し掛かったころだろうか。私は人か獣の呻きに似た物音を聞いたように思った。ぎょっとして足を止め、大事の文箱を胸に抱えて前後を確認した。
やはり人の気配はなかった。春たけなわの未明、花見客は酒に酔いしれ、高いびきで寝入っている。またこの時刻に仕事に励む野盗がいたとしたら、それは盗人に似つかわしくないよほど勤勉な人間といえた。
緊張が生んだ空耳だろう。息を吐き、私は歩き出した。その背を追うように、先ほどと同じ呻きが響いた。
私はぞっとして立ちすくんだ。今度の音は川のせせらぎのまにまに、かすむことなくはっきりと、苛立たしげな気分もあらわに私の
呻きというより唸り声か。あるいは、
無理やり決めつけ、そのまま立ち去れば良かったものを、私の脳裏には今頃になり七嗣の数々の警句が蘇ってきていた。
両目を剥いて前後を確認する。都は川霧の向こうだった。誰かいるかと私は呼びかけ、返事を待ったが
口は、からからに乾ききった。足は膝からがくがく震えた。力が抜けて後ずさり、私は背中に硬い
突然はっきりと、地鳴りめいて低い声が轟いた。不機嫌な老人を思わせる、
「どこへゆく。戻り
わっと叫び、私は欄干から背を離した。声は充分な間を置いて、二度、三度と繰り返された。源は、そう遠くない水面の、浅いはずの川底よりもずっと深くの奈落に思えた。
手元でカタカタと文箱が震え、私は思わず箱を投げ出しかけた。「あい」と童子めいた高い声がふたつ。腕の中で重なって聞こえたと思ったとたんに、文箱を包んだ錦布がじわりと湿った。
今度こそ箱を取り落とした。包み布から飛び出た文箱は、厳重に結んだはずの太い組紐がぶつんと音立てて切れた。蓋の隙間から、澄んだ清水がみるみる溢れ出してくる。呆然とする私の前で、水は
――なんたることだ。私の桜花が!
ぱしゃんと水音が耳を打つ。呪縛を解かれ、私は欄干へ駆け寄っていた。
恐怖を抑えて身を乗り出した、川の面に見えたもの――川水がぐっと太い
私の全身を覆っていたのは、川霧ではなく冷や汗だったと思う。我に返ったとき、あれほど濃かった霧は嘘のように
夢を見たのだろうか? 洛都のあまたの怪奇譚に彩られた恐ろしい白昼夢を。
しかし橋の上には濡れそぼった包み布、そして蓋のわずかにずれた黒漆の文箱が残されていた。それらを拾い、今度は振り向かず、私は去月橋を早足で渡りきった。固い土の感触を足裏に踏みしめてから、ようやく
そこには油紙に包まれた枝が二本、間違いなく納まっていた。
ただし花はどこにもない。散ったはずの花弁すら。
枝は千年も焼かれた骨同然に黒く縮かみ、枯れ果てていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます