四、迷霧の都

 ついに決行という日、七嗣ななしが「見送りだ」と言い出したのには、私は強い失望と不満を口にせずにはいられなかった。

 その日、洛都は未明から深い白霧の底に沈んでいた。だが、昼頃には洛都いちの大路おおじ――街の入口たる〈羅生門〉から貴族街との区切り〈朱雀門すざくもん〉を、最後には大内裏正門〈金烏門きんうもん〉へ至る目抜き通り――数知れぬ朱の鳥居が道の中央に打ち立てられた〈千本鳥居せんぼんどりい〉の方角から、かすかな祭り囃子や酔客のだみ声の歌が、私の宿にまで届いていた。

 確かに、格子窓から見下ろす通りも前後不覚なほどの濃霧といえ、正午頃にはれようし、むしろ霧の残ったほうが盗みに都合がよいのではないか。

 そうした私の訴えに、夜盗はがんとして首を縦に振らなかった。

「道理のわかる洛都人らくとびとなら、そんな馬鹿な真似をしでかしはしない」

 窓の桟に浅く腰掛け、手品師めいた器用な指で骰子さいころをもてあそぶ男は、一瞬私をわらおうとしてやめたようだった。七嗣の横顔はややこわばり、そのときの私には理解しえない怯えさえ見てとれた。

「この霧は二、三日はれんだろうよ。あんたも本気で桜が欲しいなら、しばらくは大人しくしていることだ」

 洛都の迷霧については、国元の旅日記『月は朦朧』で読んではいた。

 神代から天皇すめらぎの時代への移り変わりも曖昧な、この年旧りた都において、ときおり発生する濃い霧は人々の足先を狂わせ、路地奥に人を呑みこむ迷霧として知られている。陰陽師に言わせれば、霧は妖物ようぶつ精霊しょうりょうの棲まう幽冥界ゆうめいかい現世うつしよをつなぐ、の橋ということである。とりわけ街全体を覆うほどの超常的な白霧について、あらゆる階級の都人が神聖かつ禍々しいものとして畏れているという。

 理由は水気の源にあった。霧は洛都に網目をつくる水路から湧き上がり、その水は都の東西を挟む二本の龍神川〈雁川〉と〈銀鉤ぎんこう川〉から引かれている。

 それぞれ洛都の北にそびえる霊峰にある水源には、〈崇龗神たかおかみのかみ〉と〈冥龗神くらおかみのかみ〉という白黒二柱の水龍が祀られている。水に宿る龍の神通力は、恐るべき妖異と天災どちらの脅威からも都を守護すると伝えられるが、人々はこの神々を〈護都双龍ごとそうりゅう〉として崇めると同時に、調伏の封印が解かれしだい災禍をなす祟神たたりがみとして恐れてもいた。

 なんとなれば川こそが龍神の玉体そのものであり、その流れを都合よく変えて神通力を借用する洛都人、もとい明けの洛都それ自体に、神々は千年の恨みをつのらせ、憎んでいると言われるからだ。

「長雨の降る露枝折つゆしおりの季節には、白波立てて荒れ狂う川面に、力を増した龍体の鱗模様が見分けられる日もあるというぜ。それに洛都では子守唄がわりに、龍神の霧隠しにあうと脅して聞き分けない子供を寝かしつけるのだ」

 大盗賊、風痍かざい飄衛ひょうえの裏をかき、迷信など頭から否定しそうな目から鼻に抜けるこの夜盗が、まさかという気持ちが私の表情に出たのだろう。

 七嗣は唇に冷笑を浮かべてそれきり黙ったが、気の急いた私の値上げ交渉を歯牙にもかけなかった。さらに逼塞に飽いて外出しようとした私を止めようとすらした。

 二日後に迷霧は霽れた。七嗣は昼間に街を見回ってから、夜も更けた〈烏玉ぬばたまの上刻〉近く、あっさり桜の二枝を折り盗ってきた。

 勢いを盛り返した桜花はなの宴は最高潮に達し、迷霧の最中に起きたいくつかの禍事の噂は浮かれ騒ぐ雑踏の頭上を過ぎるのみだった。とある貴公子が霧の中を、女の家を目指す途中に首を何者かに奪い去られたこと。残された身体の装束が、まるで大波に襲われたかのごとくずぶ濡れであったこと。そのほか物乞いや酔っ払いにいたっては、たとえ姿を消したところで誰の注意をひくわけもなかった。

 消えた酔客や無宿人、公家の頭がどこへ行ったのか――。

 首尾よく素晴らしい枝を手に入れ、桜花はなの艶姿に恍惚としていた私は、洛都の門を発つそのときまで、まるで他人事として気に留めもしなかった。

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