最終話 生きててよかった
その日の夜、彼は眠ることができませんでした。
今日だけで、たくさんの思い出を作りすぎたのです。
彼女がいなくなったときのことを考えれば、そんなかけがえのない思い出は、自分を傷つけるだけのはずなのに、さっさと忘れたほうが、きっと幸せなはずなのに。
それでも彼が思い出すのは、彼女と手をつないで歩いた、島の風景と、彼女の歌と微笑みばかりです。
「もう、あれきり、なんだな」
それでいい。それでいい。そう言い聞かせても、彼の胸はしめつけられるようにずっと苦しいままでした。
彼はまた考えます。永遠に人が訪れることなく、自分の体はまた何年も何年も伸び続けていく。その途方もない時間を、自分は、耐え続けなければいけないことを。
そんな彼を慰めるように、彼の体を小さな尺取虫や、蟻、芋虫、セミたちが這ってきます。またいつの間にかさなぎになった芋虫も体に張り付いていました。
「……素敵な大人になってね」
そんな虫たちに、彼はそう言葉をかけます。別に、彼らからお礼は言われません。でも、大きくなった自分の、最後に残った義務は、これくらいなのだと、彼は感じていたのです。
だからこそ、次の日に彼女がまた現れたとき、彼は目を疑いました。
「えっと……」
彼女もどこか気まずそうに、もじもじと両手を組んではほどきます。裸足の指がぎゅっと土をつかんでいました。
「……どうして?」
彼女と話すために、彼は再び人の形を作ります。木のまま話しても、もちろん問題はありません。しかし、彼女に対してそれは不誠実だと、判断したのでしょう。
「かえれっていわれたので、かえったんです」
「うん、言った」
「だから、またきたんです」
確かに、彼は帰れとは言いましたが、戻ってくるなとは言いませんでした。
「まだ、やれていないことがあるので」
彼女は確かに昨日、この島には明確な目的があることを口にしていました。
それは、どうやら彼に関係しているようです。
「……じゃあ、それを果たしたら、帰ってくれるの?」
「……それは、むずかしいです」
「どういうこと?」
「だって、それは、ずっと、ずっとつづけたいこと、なんです」
そういうと、彼女はまた歌を歌い始めます。この間聞いたのとは、また別の歌です。込められた思いは、とても懐かしく、それでいて優しくて、ずっとずっと、求めていたもののような気がしました。
木は涙を流せません。ですが、人の形を得た彼は、初めて涙を流すことができました。
膝を抱いて涙を流す彼の頭を、彼女はそっと撫でます。彼女は、彼が千二百年生きた大楠であることをなんとなく、理解していたのでしょう。
優しく何度も、彼の頭をなでたあと、そっと彼を両腕で包み込みました、汗と土の香りと、彼女の体温が伝わってきました。
「こんなこと、いっていいか、しょうじき、なやんだんです」
「こんなこと?」
彼がそう尋ね返すと、彼女は目を閉じました。息を大きく吸って、ゆっくりと吐き、そして、彼を強く抱きしめました。
「あなたにあえて、うれしいです。ここまで、こんなに、おおきくなってくれて、すごく、すごく、うれしいです。あなたに、あえて、うたをきいてくれて、いっしょにあそべて、とってもしあわせでした」
彼はずっと後悔していました。
望んでいないのに長く生きて、たくさんの仲間たちを犠牲にして、人間たちの醜い争いを見続けて、それでもずっと体だけは大きくなり続けて。
彼の生きているこの『今』を、彼女はうれしいと、言いました。
すごくなんかない。心の中でそう叫びたくなりましたが、彼の涙は止まりません。言葉は出て来る間もありません。
彼女に抱かれながら、彼は泣き続けました。千二百年の悲しみと痛みを、癒すのには、少しだけ時間が必要でした。
どれだけの時が流れたかはわかりません。嗚咽を漏らした彼の気持ちはいつしか落ち着き、森の真ん中で彼は彼女と並んで座っていました。
「君は、なんで僕に会いに来たの?」
彼は彼女に尋ねました。
「わたしは、てんしになりたかったんです」
てんし、という言葉を彼は知りません。ですが、彼は彼女の話の続きを待ちました。
「むかしから、うたがすきだったんです。てんしになって、わたしのうたで、だれかを、たすけられたら。ずっと、ずっとそんなことを、おもっていました」
「誰かって?」
「……わかりません。でも、だれかをたすけられたら、そうおもっていました」
そういう彼女の横顔は、少しだけさみしそうでした。
なんとなく、彼は察します。
彼女のてんしになりたい気持ちが、必ずしもうまくいくことばかりじゃなかったこと。
もしかしたら、その思いの輝きが、誰かにとっては眩しすぎたことも、あったのかもしれません。
たくさんの理不尽を、彼女は経験してきたような、そんな温度が、彼女のつたない言葉から伝わってきました。
「そんなとき、あなたのはなしを、きいたんです」
「誰から?」
「えっと……おしゃべりな、カラスさんからです」
その懐かしい言葉に、彼は目を丸くしました。
「つちのなかに、うまっている、とてもあかるくて、げんきな、木が、たいせつな、しんゆうの、はなしを、まいにちしてたらしい、です」
「元気な、木」
きっと、世界には、たくさんの木があります。世界のどこかで、土砂に埋まってしまっている大楠もいたかもしれません。
でも、彼の頭に浮かんだのは、世界でただ一本だけの親友でした。
「そのつちのなかの、木には、ちじょうに、とてもとてもおおきくのびている、だいしんゆうの木がいたんです。そのだいしんゆうは、やさしくて、どんなにつらくても、むしたちにやさしいことばをかけていて、それでにんげんのうたや、おどりがだいすきなんだって。だから、にんげんがしまからへったから、だれか、かれに、うたとか、なにかたのしいものをわたしてほしいんだって、そういってたらしいです」
彼は立ち上がり、そっと自分の体の近くの土に手を当てます。その下には、彼の親友が、今もいます。彼の声は届きませんが、きっと下で、まだ彼の話をしていることでしょう。その様子を想像すると、彼はまた泣きそうになりました。
「つちのなかは、いつも、あなたのはなしでもちきりだったみたいです」
彼は、長い孤独に苛まれていました。
けれど、彼が見守った虫たちの、遠い遠い祖先たちは、彼のことを伝えていました。とてもやさしく、すてきな大楠の木が生えていると。
「つちのなかで、とくにあなたのファン、だったのはセミさんたちでした」
「……セミ?」
彼は、自分の体にいつの間にかたくさんくっついていた、セミたちの声を思い出します。
「セミさんたちは、あなたのはなしをきいて、ぜったい、あなたをたのしませる、さいこうのうたを、とどけてみせるって、やるきまんまんだったんです」
セミたちの、必死の鳴き声は、彼のためのものでした。
「でも、とどかなくて。それでも、あなたは、やさしいことばをかけてくれて、みんな、うれしかったみたいです。だから、セミさんたちは、トンボさんとか、スズメさんたちにも、あなたの、おはなしをしたんです。そして、おしえたがりのカラスさんにつたわったあと、わたしのところに、おはなしがとどいたんです」
彼の隣に、再び彼女はしゃがみました。そして、静かに、彼女はまた歌を歌い始めました。そこに込められた、たくさんの生き物たちに愛された、彼の千二百年。その思いをメロディに変えて、日が暮れるまで、彼女は歌い続けました。
ひとしきり歌い終わった後、彼女はこう言いました。
「これが、君のやりたかったこと?」
彼の疑問に、彼女は照れくさそうに頷きました。
「あなたは、これからも、たぶん、ながいじかんをすごすとおもうので。たくさんのうたを、とどけたいです。あなたが、じぶんのことを、すてきな木だってことを、わすれそうに、なったとき、わたしのうたを、おもいだして、ほしいんです」
「素敵かな。自分ではよくわからないよ。自分で望んでこうなったわけじゃないし。いろんな犠牲もあったから」
「でも、あなたは、すてきなんです。だって、みんな、あなたのことがだいすきです」
彼女はそう言って森全体に手を広げます。森にすむ虫たち、草花。いつの間にか増えていたユリの花たち。みんなの声は、彼には聞こえません。
けど、もしかしたら彼女には聞こえていたのかもしれません。
「君が言うなら、なんだか、そんな気がするよ。僕も、みんなのことが大好きだ。みんなのことが、大好きで、よかった」
そういうと、また彼女は笑いました。
それから、彼女は毎日のように、彼のところを訪れて、歌を届けました。
明るい曲、静かな曲、激しい曲。時には見たこともないガッキをもってきて、それを披露します。どれもこれもが、すてきな曲でした。
そして、ある日彼女は、ガッキの仲間であるギターをかついでやってきました。片手に持っているのは、串にささったお団子です。服装はいつもと違い、薄い黄色のお姫様みたいな服でした。
それを見て、彼は再び人の形を模し、彼女の前に姿を現しました。
「今日の服は、いつもと違うね。それは?」
「きょうは、ちょっと。おめかし、しました。これ、おだんご、です。たべましょう」
そう言って、彼女はお団子を差し出しました。彼女の作った卵の炒め物とは違った甘い味に、彼は不思議な気持ちになりました。
「……いろいろな食べ物があるんだね」
感心している彼に、彼女は言いました。
「きょうは、あなたの、おまつりをします」
「お祭り?」
「はい、ことしは、わたしだけ、ですけど。これからさきは、もっとたくさんの人を、あつめて、こんなふうに、ごはんや、おやつをたべたり、おさけをのんで、おどったりして」
「はははっ、まるで昔みたいだな」
「いいえ。むかしよりも、もっともっと、たのしいおまつりに、します」
「そうか。それは、とても楽しみだな」
その時の彼は、まだ知りませんでした。
またこの島に、人が少しずつ集まってくることを。
大人も子供も、彼の前に訪れ、彼の成長を見守ってくれることを。
子供たちが、枝葉を集めて、結んで、繋いで、たくさんのおもちゃを作っては駆け回ることを。
そして、それが何年も、何年も続いていくことを、彼はまだ、知りません。
また一口、彼はお団子を食べました。
「おいしいね」
「はい、とてもおいしいです」
二人の笑い声が森に響く中、誰かの足音が聞こえてきました。
足音の方を彼女は振り向きます。帽子をかぶった、島をめぐる旅人のような風貌です。
「素敵な木だね」
旅人のような男はそう言いました。
彼女は、その男に近づき、少しだけ照れくさそうに言いました。
「そうでしょ。とっても、すてきなんです」
そして、彼女は言いました。
「わたし、このおおくすさんが、だいすきなんです」
天高くそびえる大楠は、何も言いません。青く茂った葉っぱたちだけが、彼女の言葉に反応するように、風になびきます。
彼女と団子を食べていた、人の形を模した彼の姿は、そこにはいませんでした。
おしまい
小さな島の、大きな木 ろくなみの @rokunami
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