迷子の風船
山野エル
迷子の風船
その廃墟には幽霊が出ると言われていた。
僕も一人前の人間だ。好奇心くらいはある。ちょっとした話題になるだろうと思って、ある日の夜中に思い立って、廃墟に忍び込んだ。
スマホのライトを頼りに暗い廃墟を進む。ここは昔、孤児院だったらしい。経営が行き届かなくなって管理者は出て行き、そのまま建物だけが残された。長い間放置されていたこと、心霊スポットとして少し名が通っていたこと、それが荒れた屋内の様子からありありと伝わって来る。
建物の奥、当時の院長の部屋に繋がるドアがあった。
ゆっくりと扉を開く。木の軋む音が亡霊の鳴き声のように辺りに響いた。真っ暗な口を開ける戸口からスマホの光を投げ入れる。
一瞬、言葉を失ってしまった。
部屋の天井に赤い風船が浮かんでいたのだ。
今すぐにここから逃げ出したかった。それなのに、足が床にへばりついて動かない。
おかしいじゃないか。
張りのある風船……まるで、ついさっきここに放たれたかのようだ。それなのに、辺りに人の気配はない。風船から垂れ下がる糸は、僕の胸の辺りまで来ている。手から放してしまったって、誰にだってすぐに手に取れるはず。
途端に、息が苦しくなってきた。
大きく息を吸おうとしても、うまく空気が肺の中に入って来ない。ホコリっぽい空気が喉に貼りついてむせるほど苦しいのに、咳も出てこない。
重い足を引きずるようにして、なんとか部屋のドアに背を向けた瞬間、金属をこすり合わせたような笑い声が襲って来た。
叫び声を上げたのかもしれない。
目覚めた僕は汗だくだった。
夢だった。夢だった。助かった。今、僕がいるここが現実だ。
僕はびしょ濡れの顔を両手で拭った。それが悪夢を掻き消すと信じて。
窓の外は夜だった。月明かりが眩しいくらいだ。
どうして赤い風船が夢に出てきたのか、もう分かっている。
ノートに落書きをした「黒い紳士」の絵だ。
昨日、ホラー映画を観たのがきっかけで、恐ろしいキャラクターを描いてみたくなったのだ。
赤い風船を持った紳士が命を奪いに来る……。そのミスマッチが面白いんじゃないかと思ったのだ。
ベッドのそばにある机の上からノートを取った。スマホの明かりで描いた絵を照らした。
思わずノートを放り投げてしまった。
黒い紳士の手にあったはずの赤い風船がない。
どこかで笑い声が聞こえた気がした。
迷子の風船 山野エル @shunt13
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