迷子の風船

染谷市太郎

私の空。あの人の空。

 ふぅーわ ふわり


 真っ青なキャンバスに白い楕円を飛ばした。

 『キャンバス』とは空の比喩ではない。むしろ『飛ばした』という言葉の方が比喩的だろう。


 学期末の美術室。

 金網柵で囲んだ古い石油ストーブが一所懸命に空気を熱している。

 残念ながら西高東低の気圧配置により運ばれてきた寒気には、惨敗しているが。


 はぁ、と息を吐く。

 幸い白くなるほどには、教室内は寒くはない。

 指抜きの手袋をした手は、まだ寒さの中でも活発さを残している。

 筆を取った。

 絵具を混ぜる。


 ふぅーわ ふわり


 真っ青なキャンバスに白い楕円を飛ばす。


 青い空が好きだった。

 正確には、青い空を描くことが好きだった。

 小学校のころ習った、空の描き方。

 湿らせた画用紙に上から濃い青を乗せていく。

 子供ながらに上手に描けたと自画自賛した。

 四六判に閉じ込めた、私だけの空。

 それからずっと、空だけを描いていた。

 雲のない快晴の空ばかり。


 美術室の窓から見上げる。


 ふぅーわ ふわり


 綿雪が舞う。

 大好きな青い空は分厚い雲の上。

 日光を遮る曇天たちは鼠色のしかめ面だ。


 ふぅーわ ふわり


 氷の粒がちらつく中で、キャンパスに向かう姿がある。

 ぐりぐりと絵具を混ぜて、灰色の世界をキャンパスに閉じ込めている。

 冬の空など何が楽しいのか。


 ふぅーわ ふわり


 目の前のキャンバスに向き合う。


 ふぅーわ ふわり


 視線が窓の外へと漂う。

 あの人の吐く息はやかんの蒸気みたいに真っ白だ。


 ふぅーわ ふわり


 綿雪が踊る。

 だぼついたコートと、長いマフラーの間に入り込んだ。

 ヒヤッとしたのだ。犬みたいに体を震わせた。


 あ


 目が合ってしまった。

 何でもないように、むっと口を閉じる。

 でも間に合わなかった。

 振られる手に、振り返す。

 ストーブのせいだ。ちょっとだけ顔が熱い。


 道具をたたみ始めた。

 どうやら寒さに負けて美術室に戻るらしい。


 あとでキャンバスを覗き見よう。

 あの人の見ている空を。


 ふぅーわ ふわり


 手に余計な力が入る。

 キャンパスに浮かべた楕円が、少しだけいびつになってしまった。


 まだ顔は赤い。

 原因はきっと、石油ストーブがかばってくれるはず。

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迷子の風船 染谷市太郎 @someyaititarou

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