もしかして、師走ですか?私です。初めまして、あなたは。

夢月七海

もしかして、師走ですか?私です。初めまして、あなたは。


 ラジオが朝七時の時報を鳴らした。下ごしらえ中という忙しいタイミングなのを忘れて、私は壁に掛けられたラジオを見上げてしまう。


『おはようございます! 四月四日月曜日。旧暦では、三月四日。モーニングッドのお時間になりました。パーソナリティの屋宜やぎ理紗子です。今日もよろしくお願いします』


 夫が実家の食堂を引き継いでからの五年間。朝にラジオを聴くのが、私の日課になっていた。

 この番組、『モーニングッド!』は、沖縄のローカルな情報と話題で、いつもの朝を明るくしてくれる。メールを送ったことはないけれど、毎日欠かさず聴いているヘビーリスナーだという自覚はある。


『さて、事前にお知らせしておりましたが、今日から新しい仲間が加わります! 自己紹介をお願いします!』

『初めまして。師走と申します。三月までは、東京で売れない芸人をしていました。これから、どうぞよろしくお願いします』


 青年の声がラジオから聞こえてきた。声だけでも緊張しているのが伝わってきて、『師走くん、落ち着いて~』と、先輩である理紗子さんが明るい声で励ます。

 ただ、私はなんだか師走くんの声が、初めて耳にするものじゃないような気がした。「師走」という名前に聞き覚えがないし、芸人に詳しいわけでもないのに。


「師走って、変わった名前だね」

「うん。そうだね」


 沖縄そばの麺のゆで具合をチェックしていた夫の啓太が、そう言うのを、私はぼんやりとした気持ちで聞いていた。

 彼と同じことを、理紗子さんも感じていたみたいで、『十二月生まれなの?』と師走くんに尋ねている。


『いえ。師走みたいに、忙しくなるくらいに売れたいって気持ちで付けました』

『叶うといいねー』


 やっぱり聞いたことがある。一瞬、性別が分からないくらいに中性的な声。誰だっけ、誰だっけと、ぐるぐる思考を巡らせてみるけれど、微妙に思い出せない。


「啓太は、師走くんの声、聞いたことない?」

「いやー、全然」


 野菜を切りながら啓太に聞いてみると、そう返された。実は有名人ってわけではなく、私だけが知っている声なのかもしれない。

 ただ、今日の放送を最後まで聞いても、その答えは出せないままだった。






   □






 五月の初め。食堂の引き戸の音を耳にして、「いらっしゃいませー」とテーブルを拭きながら挨拶をした私は、その相手の顔を見て、「ああ」と顔を綻ばせた。


「綾人、久々だね」

「うん。また変な時間に来ちゃったけれど」


 苦笑しながら、綾人は開いているカウンター席に座る。時刻は昼のラッシュも過ぎた午後三時で、お客さんは彼を含めて、あと二組しかいない。

 大学の時、同じサークルだった綾人とは、この食堂で思いがけず再会した。卒業した時に、実家の運送会社を継ぐと言っていた彼だったけれど、まさか、その運送会社が夫の実家の近所にあって、彼がよく食べに来ているなんて、知らなかったから驚いた。


「仕事、忙しかった?」

「まあね。やっと引っ越しシーズンの忙しさも落ち着いてきたところだよ」


 カウンター越しに、そう言いながら笑う綾人の表情は、大学の頃よりも柔らかくなっている。あの頃は、彼と話していてもちょっと距離を感じた。例えば、私たちの間に、膝くらいまでの柵があるような感覚だ。

 それが、再会した時にはすっかりなくなってしまっていて、私を驚かせた。近況報告した時に、彼が「結婚したんだ」と左手の薬指の指輪を見せてくれて、なんとなく納得した。


「今日はどうする? にんじんしりしり?」

「うん。それでお願い。陽菜ひなのにんじんしりしりは、阿嘉あかのお母さんと同じ味だからね」

「ちょっと、それは他の料理はまだまだってこと?」


 そんなやり取りも、明るい声で交わせるような仲になっていた。この阿嘉食堂の常連だった綾人は、ここの味を熟知しているので、他の料理でも彼を満足させるのが私の一つの目標だ。

 大学の時、綾人が私たちと距離を取っていた由来は、一つ年上の啓太が知っていた。綾人とその家族の複雑な事情は、この辺りでは結構有名な話だったから。


 だから、綾人に一緒に生涯を添い遂げたいと思える相手が出来て、それをきっかけにみんなに心開けるようになれて良かったと、私はずっと思っている。こんなことを言える立場ではないとは思うけれど。

 事情を知らなかったあの頃は、綾人に酷いことをしてしまったのだという自覚があった。当時のことを、必ず彼に謝りたいと思っているけれど、中々タイミングが掴めずにいる。


「はい。お待たせしました。にんじんしりしり定食です」

「おー、旨そう」


 鮮やかなオレンジ色のにんじんをスライサーでおろして、少しのピーマンと卵と一緒に炒めた料理を見て、綾人は嬉しそうに言ってくれる。この仕事をするまで、「おいしい」も「おいしそう」も同じくらい嬉しい言葉だなんて、知らなかった。

 いただきますと手を合わせた綾人が、ご飯とにんじんしりしりをモリモリ食べるのを横目に、自分の仕事に戻る。空いていた皿を、キッチンに運び入れた時に、「そう言えば」と綾人が話しかけてきた。


「陽菜も、モーニングッドのリスナー?」

「あ、そう。綾人も聴いてる?」

「ああ。運転中によく」


 共通点が見つかって、盛り上がってもおかしくない場面なのに、綾人の表情はどこか暗い。何か、言いたいような、悩んでいるような、そんな顔だった。


「あの、四月から新しく入った、師走ってパーソナリティ、知ってるか?」

「聞いてるから、知ってるよー」

「顔は?」

「いや、そこまでは……」


 なんかぐいぐい来るなぁと戸惑いながら、私がそう返すと、綾人は「実はな……」と声を潜めた。


「彼、英輔の実の弟なんだ」

「えっ!」


 同じサークルの仲間の名前がここで飛び出して、驚きの声が出る。そう言えば、師走くんの声は、確かに英輔の声とすごく似ていた。

 それを知ると、色んな所が腑に落ちる。師走くんも、英輔と同じ千葉出身だと話していたし、英輔も大学時代に、弟が高校生限定のお笑いコンクールに出るんだと自慢していた時があった。


 ただ、驚きの次には、困惑が浮かび上がってきた。言葉を探して、何にもない自分の手元を目線が泳いでいる。


「じゃあ、師走くんはどうして沖縄に?」

「それは、正直俺も分からない」


 綾人は、溜息を吐いた。出来立てだった定食の熱を、奪いかねないほどの冷たく重たい溜息だった。

 停滞している時間が動き出している、そんな予感がする。だけど、それに対して喜びなんて抱かずに、悲しみだけが心を支配していた。






   □






 ラジオ局から、師走くんが出てくるのを、私はちゃんと認めた。直接会ったことはなかったけれど、番組ホームページで英輔の面影があるその顔を確認している。

 私は、師走くんに真っ直ぐに駆け寄った。メールを送りもせずに、いきなり出待ちなんて、我ながら大胆なことをしている。だけど、個人的に直接彼と話したかった。


「あ、あの」

「はい? 何ですか?」

「……もしかして、師走――さんですか?」

「ええ、そうです」


 浮かべた営業スマイルも、英輔と似ていて、胸がギュッと締め付けられたような気持ちになる。


「……私、大学の時、ドライブサークルに入っていました。……初めまして、あなたは、」


 すごく、無茶苦茶なことを言っているなと、言葉が途切れた時に思った。だけど、緊張で、上手く頭が回らないのが正直な所だった。

 そんな私を、師走くんはにこにこしながら見ている。この笑顔が凍り付いてしまう一言を、私は意図的に放つ。


「……一昨年に亡くなった、英輔の、弟ですよね?」

「…………はい。その通りです」


 ゆっくりと開かれた師走くんの瞳で、悲しみが波立っているのを見て、私は、後悔が間欠泉のように吹き上がるのを感じた。ああ、こんなこと、言わなければよかった、確かめようとしなければよかった。

 そんな私に対しても、師走くんは優しくて、「ちょっと話しましょうか」と、近くのカフェに誘ってくれた。二人で、一つのテーブルを挟んで座っても、私はそわそわと落ち着かない。


「すみません、お名前をお伺いしても?」

「あ、はい。阿嘉陽菜と申します。旧姓は、宮城です」

「阿嘉さん。兄と同じサークルだったんですね?」

「ええ。英輔とは、同級生でもありましたから、よくお話しました」


 二人してホットコーヒーを注文してから、自分の事を話した。卒業後、公務員になった私は、夫の実家である食堂に後継者がいないことが判明し、調理師免許を取ってから、今の食堂で働き出した。

 師走くんは、今日はのんびりしていていいのかと心配されたけれど、ちゃんと夫に断っていること、今日はゴールデンウィークなので、臨時のバイトを雇っているから大丈夫なのかと答えた。


「師走さんは、ここに来るまでどうだったんですか?」

「僕は、高校卒業後に、お笑いの養成所に入りました。両親から反対されていたので、学費は全て、千葉で就職した兄が出してくれたんです。ただ、その期待に答えられずに、ずっと売れない日々を過ごしていたんですが、その兄が急に病気になって……」


 師走くんの声は、息が詰まったかのように途切れた。無理やり、何かを飲み込まさせられたような顔をしている。

 私は、彼の言いたいことが分かるよと返す代わりに無言で頷いた。病気が見つかった英輔は、それとずっと戦っていたが、進行はとても速く、一年も待たずに亡くなってしまった。


「私たちも、お見舞いに行きたいと思っていたけれど、でも、なかなか時間が無くて……ごめんなさい」

「いいんですよ。皆さんは、メールとかビデオ通話とかで、兄とよく話してくれましたから。兄が、どれだけ皆さんに救われたのか、言い尽くせないくらいです。ありがとうございました」


 師走くんは、そう言って頭を下げてくれたけれど、私は、正直これで許されたとは思えなかった。亡くなった人に対する後悔は、いつまでもどこまでも残っていて、きっと遺族である師走くんの方が、その思いが強いのだろう。

 運ばれてきたコーヒーに口をつける。その温かさにほっとした私は、師走くんに一番訊きたかったことを口にした。


「沖縄に来たのは、お兄さんがきっかけですか?」

「はい。兄は、子供の頃から沖縄に憧れていて、ここの大学に入ってから、サークルで色んな所を出掛けたのを楽しそうに教えてくれました。……兄の遺品を整理した時に、ドライブ先のたくさんの写真やサークルメンバーとの笑顔を見て、この景色を自分の目で見たいと思ったんです」

「ええ」

「それに、兄は沖縄で暮らしている時の愚痴を、病床でよく話していました。蜘蛛がやたらと多くて、室内にも出るとか、朝は晴れていたのに、急に土砂降りになるからすぐ濡れるとか。でも、それは、恋人ののろけみたいに、愛で溢れたものでした。

 僕は、兄の愛した沖縄で、実際に暮らしてみて、同じ気持ちになってみたいと思ったんです。ただ、ここで芸人を続けるつもりはなくて、やけくそで参加したパーソナリティのオーディションに選ばれたのには、ちょっとびっくりしましたね。兄が、まだ芸人もやっててほしい、受講料が無駄になるからと、暗に言っているような気がしました」


 その話をしながら、師走くんは初めて楽しそうに笑ってくれた。私もつられて、「英輔らしいなぁ」と声を挙げる。

 と、同時に、師走くんは強いなと感じる。亡くなった兄のために、自分の人生を使おうなんて、中々実行できるものではない。それが、彼なりの後悔との向き合い方なのだろう。


「師走さん。沖縄に来てくれて、ありがとうございました」

「いえ、阿嘉さんも、会いに来てくれて、嬉しかったです。ありがとうございました」


 私たちは、互いに深々とお辞儀した。師走くんの方から、大きく鼻を啜る音がしたけれど、聞こえないふりをした。

 恐縮する師走くんを押し切って、ここのコーヒー代は私が支払った。それから、互いに連絡先を交換して別れる。私が橋渡し役として、サークルメンバーと彼を会わせたいと思ったからだった。


 自分の車を停めたコインパーキングに向かいながら、これからどうしようかと考える。近い内に、英輔のお墓参りも行きたい。食堂があるからと諦めていた部分があったけれど、そこも何とか出来るかもしれない。

 そうだ、綾人にもちゃんと謝らないと。後悔したくなければ、生きている人ともちゃんと話すべきだ。


 今日の空は、薄曇りだった。だけど、こんな天気の方が、今の自分の気持ちと合っている。

 どうやっても拭い去れない後悔も抱えて、私も生きていくのだから。







































  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

もしかして、師走ですか?私です。初めまして、あなたは。 夢月七海 @yumetuki-773

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ