第2話 婚約指環

 せっかちな秋虫たちの唄が聞こえないほど、都は喧騒に包まれていた。

 あらゆる灯火が焚かれた城郭が、のぼった満月にさらに照らされ、あたかも燃え上がっているようだ。城下町には出店が並び、夜遅くだと言うのに騒ぐ人々でごった返している。


「つまんねえの」


 城の天守閣、太天守と物見櫓に渡された渡り廊下から城下町を見下ろしながら、少年は憮然と呟いた。隣の父親は、着飾った文官が繰り出すくだらない醜聞に愛想笑いを浮かべている。ため息をつき、再び町を見下ろした。目を凝らせば、提灯に照らされた子供たちの姿も見える。串焼きを食べたり、林檎飴を舐めたり。金魚すくいに、外国産の細工物。


 あっちとこっち、どっちがいい?


 もし聞かれたら、断然、あっちだ。


「たいへん愉快なひと時でございました、蛮鷲殿。それではわたくしはこれにて……」


 文官の何某かが会釈して去って行くと、少年の表情がぱっと晴れた。


「さ、帰ろうぜ!」


「だめだ、鷹」


「えーっ!」


 あっさりと断られた少年、蛮鷹は、短く刈られた銀髪を掻きむしった。


「なんでだよ! もういいじゃねえか。飯も食ったし、いつもならとっくに帰ってるだろ」


「何回も言っただろ。今日は姫様の八回目の生誕祭だからな」


 言いながら、父は立ったまま盃を煽る。普段は手ぬぐいに押し込んでいるだけの銀髪を、今日のためにきちんと結い上げている。


「俺の誕生日だって八回目だったぞ」


「そうだ。だからお前を一人前の鍛治師として認めて、鎚を鍛造つくってやったんだ。一人前の鍛治師なら、こういう場所でもきちんとしないとな」


「……真夏の真っ昼間の仕事の方が、まだマシだ」


 ますます口をへの字に結んだ蛮鷹に、父親は笑みをこぼし、その頭を撫でる。


「とにかく、だ。今日だけは最後までここに居るのが俺たちの仕事だ。頑張れ」


「最後って、いつまでだよ? 全員の上げ膳までか?」


「姫様の伏せ名が明らかにされたら、帰っていい」


「たかが名前だろ? そんなの勿体ぶらねえで、さっさと言っちまえばいいじゃねえか」


「そういう慣しなんだ。それを守り続けることに意味がある」


「……よく分かんねんや」


「そうか。……ああ、そうだ。さっき国宝のご開帳が始まったらしいぞ。太天守に見に行って来たらどうだ?」


「父ちゃん……じゃねえや。親方はどうするんだ?」


「俺は子供の頃に見たことがあるからな。もう見ることはできん。二回も見たら、目が雷に打たれて潰れちまうんだとさ」


「なんだそれ」


 蛮鷹は笑って立ち上がると、


「ちょっと見に行ってくる」


 手を振る父を残し、渡り廊下を歩いて、開け放たれた襖戸をくぐった。いつもは厳かで緊張感に満ちた太天守の板間が、ただの宴会場と化している。酔った大人たちの千鳥足を避けながら進む。正装の藍染も窮屈で動きにくい。亡き母が用意してくれた晴れ着だと分かってはいるが、やっぱりいつもの作業着が一番だ。

 そんなことを思いながら進んでいくと、ようやくたどり着いた。国宝に、ではない。それを見るための長い長い行列の最後尾に、だ。

 蛮鷹は肩でため息をつき、それでも列の最後に並んだ。生涯に一度しか見られない国宝。見ておいて損はないと言うよりは、これを見ないとなると、いよいよやる事がない。


「おい、こっち! こっちだ」


 大声をあげながら蛮鷹の後ろに並んだのは、少し年嵩の少年だった。手招きして、仲間たちを呼んでいる。ほどなく、同い年らしき少年少女が二人ずつやって来て列についた。五人全員、煌めく金銀糸が縫い込まれた装束をまとい、それぞれに豪奢な装飾品で総身を着飾っている。男女構わず頬と唇に薄く朱を差しているのは当代の流行りらしい。


「だいたい、あいつってさあ……」


 口々に学び舎での出来事を言い交わしている。この場にいない誰かの悪口。それに同調し、罵り、誇張し、小馬鹿にし、笑い合う。


(さっきの文官みたいだ)


 内心そう思った蛮鷹は、思わず声を出して笑ってしまった。後ろに並んだ少年少女たちの視線が集まる。


「おまえ。いま笑ったよな?」


 年嵩の少年の一人が言った。一番のっぽで、目つきが鋭い。


「学舎じゃ見ない顔だな。なんて名だ?」


「……蛮鷹」


「蛮……? 聞かない氏姓だ」


「部民だよ。火司元の」


「ああ。なんだ、工人か!」


「道理で、なんか汗臭いと思ったんだ」


 少年たちは顔を見合わせて笑った。少女たちは扇で鼻と口を隠し、くすくす笑う。


「おまえ、チビだけどここに来てるってことは、もう元服してるんだよな。鍛治師なら、僕たちに何かつくってくれよ」


「僕は短刀がいいな。熟した果物でも、よく切れるやつだぞ」


「わたくしには白銀で簪を。蝶の切金を差してくださる?」


「僕は竜頭の文鎮かな」


「わたくしは……まあ、なんでもいいわ。高く売れるものなら」


 口々に好き勝手を言う少年少女に、


「俺たちが鍛造つくるものは、それぞれにきちんと決められてるんだ。蛮家うちは武器と防具を……」


「武器と防具!」


 少年少女は一斉にふき出した。


「この平和な国でそんなもん、いつ使うんだよ!」


「まったく無駄遣いにもほどがあるわ」


「だいたい、百年も実戦で使われてない武具なんて、本当に役に立つのか?」


「まあ儀礼用か、せいぜい外国への貢ぎ物ってとこだね」


「そんな贈り物、わたくし、頼まれたってほしくありませんわ」


 視線で示し合わせ、一斉に爆笑する五人組。


(駄目だ。我慢しろ)


 蛮鷹は拳を握り、自分に言い聞かせた。


(暴れちゃ駄目だ。暴れたら、また父ちゃんに……親方に迷惑がかかる)


「どうした、ぼうや?」


「泣く? 泣くのか? おいおい、赤ん坊じゃないんだから。勘弁してくれよ」


 嘲笑って顔を覗き込む少年たちから、蛮鷹は視線を逸らした。


「……俺たちは」


 声が震えた。怖気からでないことを示すため、向けられた視線を正面から受け止める。


「俺たち鍛治師は、つくるだけじゃない。武具が本当に役に立つか、毎日、真剣で試してる。役に立たないなんてことはありえねえ」


「へえ。そいつはすごい」


「お前らは、なにかの役に立ってるのか?」


「なんだ、おまえ?」


 剣呑な面持ちで睨みつける少年たちを、蛮鷹は臆せずに睨み返した。日々、大人に混じって鉄を打ち、火を入れ、刃を研ぎ、武術を磨いているのだ。こんな青瓢箪ども、何人いても負ける気がしない。


「やだ。見て、この子!」


 少女の一人が蛮鷹を指差して笑った。


「なつかしいの着てるじゃない!」


「ほんと! 飛燕染めって、姫様のご生誕の頃に流行った型よ!」


「まだ残ってたのねえ」


「こんなの、よく平気で着られるよな。恥ずかしくないのか?」


 無意識に、なにかを叫んだと同時に突進した蛮鷹を、たくましい腕が遮った。


「こんなところにいたのか、鷹!」


 父、蛮鷲だった。そのまま胸元まで抱き上げる。


「あっちの卓に、でっかい菓子が出てるそうだ。一緒に喰いに行こう」


 蛮鷹を抱えた蛮鷲は、隣の部屋へ向かって大股で歩いて行く。


「おお、怖い怖い」


 背後で少年たちが囃した。


「これだから工人は。野蛮で困るよ」


「野蛮の蛮氏だもんな」


 笑い合う五人組に怒声を上げようとした蛮鷹の口を父が塞ぐ。


「……耐えろ」


 怒りに任せて暴れながら蛮鷹は父を睨みつけた。 が、一瞬で血の気が引き、我に返る。

 鍛治場でさえ見たことのない形相の父が、そこにいた。



 天守閣を囲う庭園には池があり、朱塗りの橋が架けられている。

 栗餡がたっぷり詰められた饅頭にかじりつきながら、蛮鷹は一人、橋の真ん中の欄干に座っていた。月が雲に隠れ、輝きを増した星々を見上げていると、天地が逆さになって、自分が空へ向かって落ちていくように感じる。その感覚が蛮鷹は好きだった。

 きし。

 池の鯉が跳ねたのではない。橋板の軋む、足音だ。誰かが橋を渡ってくる。

 きし。きし。


「……父ちゃん?」


 暗闇に尋ねた途端、足音が止まった。欄干から橋桁へ跳び降り、目を凝らす。

 雲が晴れた。月明かりに照らされて浮かび上がったのは、白の単衣に白袴姿の少女だった。七本の簪で結わえられた豊かな銀髪。驚いて見開かれた円らな瞳に、少し上向き加減の小さな鼻。ふっくらした唇が、柔そうな両手で覆われる。


「なんだ、おまえ?」


 蛮鷹が声をかけると、白装束の少女は慌てて踵を返した。


「おい、待てよ!」


 走り去ろうとした少女の背に向かって、


「なんで泣いてんだよ!」


 蛮鷹が叫んだ。少女の足が止まる。


「ここ、おまえの場所なんだろ? ごめん。俺、もう行くから」


 立ち去ろうとした蛮鷹を、


「待って!」


 振り返った少女が引き止めた。首をかしげる蛮鷹に、


「……一人になるのは、嫌なのです」


 少女は伏し目がちに呟いた。


「わたくしは、いつも一人ぼっちだから……」


「父ちゃんと母ちゃんは? いないのか?」


「お父様は一緒に暮らしてはいるけれど、忙しくて滅多に会えません。お母様は亡くなりました。去年……病で」


「そっか。そりゃ、さびしいな」


 少女はうなずいた。袴の太腿あたりをぎゅっと握る。


「俺はいつも父ちゃんが一緒にいるから寂しくないけどな。友達は?」


 頭を振る少女。


「じゃあ、おれが友達になってやろうか?」


「まことですか!?」


 目を輝かせる少女。


「今度、うちの工房に遊びに来いよ。おれ、鍛治師なんだ」


「ぜひに!」


 少女は叫んだ。


「父がいつも、火司はこの国の支えであると」


「わかってるじゃん、おまえの父ちゃん」


 蛮鷹と少女は揃って破顔した。


「それでは、まいりましょう」


 少女は蛮鷹の手を取ると、橋の反対側へ向かって歩き出した。


「まいりましょう、って……今からか?」


 手を引かれ、戸惑う蛮鷹に、うなずく少女。


「今日はまずい。お姫様の名前が発表されるまで、お城の中にいなくちゃ駄目なんだ」


「なら、それまでに帰れば良いのです」


「駄目だって。城門を通る時に名前を聞かれるだろ? そしたら、城の外に出たのが父ちゃん……じゃねえや。親方にばれちまう」


「あら。簡単よ。門を通らなければ良いのです」


 少女は悪戯っぽく微笑んだ。



 城門までの参道に連なる、様々な屋台。掲げられた無数の提灯で、昼間さながらの明るさだ。野菜や酪の揚げ物、焼けた蹄獣肉の香ばしい匂い。糖菓子の甘い香り。行き交う人々の笑い声。


「おもしろかった!」


 先を行く少女は爪先を軸にくるりと、舞うように振り返った。鍛造場からの帰路。すっかり打ち解けた二人は、まるで幼馴染だ。


「これ、本当にもらっていいの?」


 手のひらを広げ、親指に嵌めた不恰好な指環を見せる少女に、うなずく蛮鷹。


「もっと上手に打てるようになったら、また作り直すからさ」


「ううん」


 少女は頭を振って、両手を握りしめる。


「わたくし、これがいい」


「変なやつだな、おまえ」


 そう言いながらも、蛮鷹は嬉しそうに微笑んだ。少女も同じように微笑みながら、


「それにあの、剣に、槍に、斧!」


「甲冑と兜もな」


「ええ。あんなにすごい武具があれば、この国は安泰ですわ」


 おどけて後ろ向きに歩きながら、拍手で讃える。


「あんなもんぐらいで驚いてもらっちゃ困るな」


 得意げに胸を張る蛮鷹。


「今日見せたのは、ほんの一部なんだからさ」


「へえ! あの大きな斬馬刀より?」


「当たり前だ。もっと、ずっとすげえ武器があるんだぜ」


「そうなの!?」


「へへ。びっくりだろ。そうだ。今度、特別に武宝殿の内に入れるように、親方に頼んでやるよ」


「わあ。本当ですか?」


「おう。親方は王家御用達の宮廷鍛治師だからな。俺の父ちゃんなんだ」


「お父様は火司の長なのですね!」


「ああ。おまえの父ちゃんは、お城で何やってるんだ?」


「わたくしの父は……」


 少女は顔を曇らせ、くるりと前を向いた、その時。


「きゃっ」


 前から歩いてきた男にぶつかってしまった。


「ごめんなさい!」


 転んで尻餅をついたまま、頭を垂れる少女。


「あーあ、まったく。なにやってんだよ。ほんと、すみませ……」


 少女と一緒に謝罪しようとした蛮鷹を、


「このクソガキがあっ!」


 男は怒鳴りつけざまに蹴り倒した。


「てめえら、俺様を誰だと思ってる! 帝国の士官さまらぞっ! はるばるこんな田舎まで出向いてやったってえのに……」


 呂律の怪しい帝国士官は、足元も覚束ない。酔いと怒りで真っ赤な顔が、起き上がった少女を一目見るなり、


「ん……お? おお?」


 蕩けた。


「なんだ、なんだ。よく見りゃあ、すげえ可愛いじゃねえか。ぶつかったのは許してやるからよ。ほら、おじさんと遊ぼうぜえ」


 にやけた帝国士官は少女の襟元をつかんで立ち上がらせると、荒っぽく抱き寄せた。


「やめろよ! 謝っただろ!」


 蛮鷹は突っかかったが、帝国士官の空いた手で張り飛ばされた。突っ込んだ屋台に並べられていた果物が棚から転がり落ち、あたりに散乱する。


「いってえ……」


 鼻血を手首で拭いながら、蛮鷹は腰帯に手を伸ばした。いつもの習慣で持ってきてしまっていた、鍛造用の鎚を抜く。正式に鍛治師の徒弟として認められた証に貰った大切な物。本来、喧嘩に使うなどもってのほかだ。しかし……


「よしな、坊や」


 果物屋台の主人が声を潜めて言った。台から落ちて潰れた果物を拾い集めながら。蛮鷹と目も合わせない。


「あの男に手を出したら、ただじゃ済まないぞ」


「帝国の人間だったら何したっていいのかよ? 悪さをする奴は、ぶん殴りゃいいんだ!」


「それこそ帝国の思う壺だ。帝国があいつに与えた役目は、祝典で姫様に祝辞を奉じることじゃない。この国で揉め事を起こすことだ。王国の人間があいつに手出しすれば、それを口実に難癖をつけるつもりなのさ。だから万一殺されても構わないように、無能で、素行の悪い、ああいうのを寄越してきてるんだ」


「んなこと分かってるさ!」


「今もどこかで、帝国の間諜があいつを監視して、機会を窺って……」


 帝国士官に頬を寄せられた少女は、恐怖ですっかり固まっている。


「だからって放っとけないだろ!」


 蛮鷹は叫んだ。


「あいつは友達なんだ!」


「おい、よせ!」


 果物屋が伸ばした制止の手を振り切り、駆け出した。鎚の打突部を握り、中指と薬指の間から柄を突き出させる。かける力が同じなら、面積を小さくするほど、打撃力は上がる。急所でなくてもいい。どこでもいいから当てれば、一瞬、必ず隙ができる。そしたら、すぐに逃げるんだ。少なくとも、怯え過ぎて泣くこともできないあの娘は逃がさなくちゃ。

 蛮鷹は帝国士官に向かって雄叫びをあげながら突進、突き出した鎚の柄は、鞘で撥ね上げられて宙を舞い、呆気なく地面に落ちた。


「どうした、おちびちゃん」


 唐突に得物を失って狼狽える蛮鷹を、帝国士官は見下ろしながら嘲笑う。


「俺は元々、傭兵でな。帝国に腕を買われれ士官したが、今でもしょっちゅう実戦で鍛えれる。昼寝してたってガキに遅れをとるかよ。平和ボケしたおまえらと違ってなあ!」


 帝国士官は腰に差した円月刀を抜いた。周囲から悲鳴が上がる。


「ほら、見ろよ。へっ。抜き身を見ただってのに、どいつもこいつも腑抜けヅラの腰抜けだらけ……」


「こらっ」


 帝国士官の背後から、脳天に拳骨が落ちた。ただの拳ではない。甲冑の籠手、鋼鉄に覆われた拳だから堪らない。白目を剥いた帝国士官は、どさりと仰向けに倒れこんだ。


「子供相手に、そんなもん抜いてんじゃないだわさ」


 訛り口調で言った女戦士は、拳を開き、肩にかかった燃えるような赤髪を払いのけた。気絶した帝国士官の腕に囚われたまま呆然とする少女を冷たい目で見下ろす。


「あんた、全然抵抗しなかったけど、なんでだわさ?」


 硬直したまま、救いを求めるように視線を彷徨わせる少女に、


「女だから? 子供だから? 勝てそうにないから? 戦ったことなんてないから?」


 畳み掛けるように問うが、少女から応えはない。女戦士は忌々しげに舌打ちして、


「戦わずに諦める理由なんていくらでもあるけど、せめて戦ってから諦めるだわさ」


 吐き捨てるように言うと、ぷいと顔を背けて歩き出した。


「あたしはアスガルドの戦乙女(ヴァルキリー)、ブレイシルド」


 歩きながら、ブレイシルドは誰にともなく声を張り上げた。


「文句があったら、いつでも来いだわさ」


 不敵に笑い、拾った林檎にかじりつく。


「え? うまっ!」


 林檎を口いっぱいに頬張ったブレイシルドは、揚々と人混みに紛れて行った。

 屋台の灯火に照らされ踊るその赤い髪は、闇夜に燃え盛る炎のようだった。


 城を脱け出した時と同じく、少女の案内に従い秘密の抜け穴を通って、蛮鷹は庭園の橋の袂まで戻ってきた。


「おまえの家まで送ってくよ」


「……家?」


 首を傾げる少女。


「わたくしの家は、ここです」


「お城が、おまえの家?」


 今度は蛮鷹が首を傾げた。


「おまえの父ちゃん、お城に住み込みなのか?」


 蛮鷹の問いに、少女は微笑みながらうなずいた。


「そうか。あ、そうだ」


 蛮鷹は今思いついたかのように切り出した。


「俺、蛮鷹っていうんだ。宮廷鍛治師、蛮鷲の息子だ。おまえ、名前は?」


 問われた少女は、少し躊躇ってから、


「燕」


 と答えた。


「へえ。燕、か」


 蛮鷹は何度かその名を呼び、うなずくと、


「また遊ぼうな、燕」


「こちらこそ。宮廷鍛治師蛮鷲の子、蛮鷹」


「なんだよ、それ。鷹でいいよ」


 笑い合いながら、並んで天守閣へ向かおうとした時。


「鷹? 鷹か!」


 行灯を掲げた蛮鷲が駆け寄って来た。


「どこに行ってたんだ」


「え? いや、ちょっと。秋虫を探してて……」


「そうか。無事なら、それでいい」


「なんだ? なにかあったのか?」


 見れば、天守閣が騒々しい。宴の喧騒ではなく、別種の慌ただしさ。座している者は一人もなく、上へ下へ、人の行き交いが激しい。


「姫様がいなくなられたらしい」


「えっ!」


 驚く蛮鷹。その背後で身を縮める少女。


「おい、鷹。その子は……」


 蛮鷲が問いかけた時、


「いた、いた! 貴様ら、こんなところで何をしておるか!」


 お付きの女官たちに行灯を提げさせた、小太りの男がやって来た。流行りの吉祥文様をふんだんに縫い込んだ、豪奢な儀礼服を着込んでいる。


「大丞様」


 頭を垂れる蛮鷲。


「姫君はまだ見つからぬのか。こんな時にも役に立たぬ奴らよ」


「まこと。父上の仰る通り。火司は役立たずの間抜けばかりにて」


 追従した少年は、先刻、列に並んでいた時に蛮鷹に絡んできた五人組のうちの一人だ。


「人手がいる! 工人どもを皆、すべて連れて来て手伝わせるのだ」


「大丞様の御下知でも、それは無理でございます。弟子たちには祝賀の日ぐらいは休ませてやると伝えておりますので、誰がどこで何をしているかも分かりませぬ。見つけたとて、酒房で呑んだくれておるか、女のところで腑抜けておるかで、到底役に立ちますまい」


「貴様ら部民の都合など聞いておらん! 言い訳は良いから、疾くかからぬかっ!」


「せめて火司の判官様にお尋ねを……」


「緊急事態であるぞ! 国難である! 早急に対処せねば、貴様ら一族郎党を反逆者として……」


「おお、それはご勘弁を」


 愛想笑いを浮かべる蛮鷲。やや芝居がかってはいるものの、筋道通らぬ無理難題に大丞の面子も潰さぬ配慮が、却って大丞の癪に触った。


「……ふん、小賢しい」


 大丞は鼻で嗤った。


「なんの役にも立たぬ穀潰しの分際で、一人前に子など儲けおって。貴様とどこぞの馬鹿女では、その餓鬼もどうせろくな者では……」


 ごつっ、と、鈍い音が響いた。


「……あ?」


 顔面を拳で打たれた大丞の鼻から血が滴り落ちる。


「大丞様!」


「父上! き、貴様! 判官にこのような真似をして、ただで済むと思うな!」


 女官ら取り巻きたちも騒ぐ中、蛮鷲は引いた拳を一瞥し、


「わるいな、鷹。やっちまった」


 蛮鷹に向かって笑った。銀髪を掻きがてら、結わえていた髪紐を解く。


「ったく」


 肩をすくめた蛮鷹が、前へ駆け出す。迫る蛮鷹に焦った大丞の息子が、


「ひ、控えよ、下郎! 退がらぬかっ!」


 叫ぶその両の肩をつかまえ、額に頭突きを打ち込んだ。痛みの声も上げられず、無言でうずくまる姿を見下ろし、


「けんか慣れしてねえな。お坊ちゃん」


 蛮鷹は自分の額をぺちんと叩いてみせた。


「これで俺も同罪だ」


「鷹、おまえ……」


「もう、うんざりだっ! バカにされるのはっ!」


 蛮鷹は叫んだ。


「親方がお縄になるなら、俺も一緒に縛につく。獄なら獄、死刑なら俺も一緒に死ぬ。そしたら、蛮が受け継いで来た鍛治の技はここで途絶えるだろ? いいさ。この国に俺たちが、俺たちの技が必要なのか、必要じゃないのか、はっきり決めさせようぜ」


「おまえってやつは……」


 呆れたような、喜んでいるような、悲しんでいるような、何とも言えない表情で息子を見つめる蛮鷲。


「これは叛逆だ! 死罪! 死刑にしてくれる!」


 女官に鼻血を抑えてもらいながら、大丞が叫んだ。


「一族郎党、みな死刑だ! 楽には死なせぬぞ! 一番苦しむ刑罰で……まずはおまえの息子を、おまえの目の前で八つ裂きに……」


「謝罪なさい!」


 大丞の罵声どころか、城の喧騒が一瞬やんだかと錯覚するほど通る声で言ったのは、あの少女だった。


「疾く、謝罪をなさいませ。今ならば見逃しましょう」


 言った少女が何者か分からない上、無地の白装束という珍奇な姿格好であるものの、数多の権力者に追従して来た大丞には、他人に命じ慣れたその口調に、少女がかなりの地位、家柄の者であると瞬時に判断した。


「お、お嬢様! どなた様かは存じ上げませぬが、一部始終をご覧だったならば、裁きの場では、ぜひお口添えを賜りたく、お願い奉り……」


「何の考え違いをしておるか!」


 少女はピシャリと言った。


「謝るべきは、汝らだ」


「は……?」


「彼ら火司のつくりだす武器と防具は、我が国を支える大切な柱。そんなことも分からず官職を務めるとは嘆かわしい」


 あまりに予想外の展開に呆気にとられる大丞に、


「彼らを愚弄することは、我らが国を愚弄するに等しいと知れ。この、痴れ者が!」


 少女が畳み掛けた。我を取り戻した大丞の顔が、みるみるうちに怒りで真っ赤に染まる。


「おい、お前っ!」


 大丞に寄り添っていた息子が飛び出し、少女につかみかかった。


「父上になんという口の効き方をっ! どこの下働きだか知らんが、ただで済むと思うなよっ!」


 頭一つ大きな少年に胸倉を掴まれ、凄まれた少女は一瞬、怯んだ。しかし、


「……諦めるのは、戦ってから……!」


 あの異国の、炎髪の女戦士の言葉を小さく呟いた。


「なにをゴチャゴチャと……」


 怒り狂った少年が少女を殴りつけようと拳を上げた瞬間、


「無礼者っ!」


 少女が雷鳴のごとき声を轟かせた。再びおとずれた一瞬の静寂の中、


「わたくしの名は、燕! この国の第一王女である!」


 燕姫の名乗りがこだました。



 町はずれの森の中に、ぽつんと一軒だけ建つ質屋「籠」は、控えめに言って、たいそうヒマである。

 先頃、天竺へ経典を取りに行くという奇特な僧侶に、馴染みの猿怪を護衛に付けてしまったうえ、残った唯一の話し相手である戦乙女ブレイシルドも遣いにやってしまい、今、キビキは店に一人きりだ。品物を磨いたり、棚を整理したり、店内を掃除したり。一応、毎日やるべきことはやる。ゆえに、やらなくてもいいぐらい、全てに手入れが行き届いている。なにせ、過ぎるべき時間だけはたっぷりある。呪わしいほど、ゆっくりと。

 やるべきこともなくなり、本でも……そうだ。中断していた戦記物を読みながらお茶にしようかと思った時。呼び鈴が軽やかに鳴り、店のドアが開かれた。


「いらっしゃいませ」


 常に退屈なキビキは、来客を待ちわび、心底歓迎し、真心こめて接客している。


「鑑定してもらいてえんだが」


 この国の民に特徴的な、赤銅色の肌をした男が言った。歳はまだ二十歳をこえていないだろう。美形ではないが、店内を見回しきょろきょろする焦げ茶色の瞳や、太く短い鼻、大きな口に愛嬌がある。銀色の硬い髪を、頭に巻いた手ぬぐいに押し込んでいるのは、垂れた汗が目に入らないようにするため。巨漢ではないものの、背は高い方だ。鍛えられ、均整のとれた体つき、なにより分厚い掌とそこに残るまめの痕が、この男が専ら己の肉体を使う職業であることを物語っている。


「お品は?」


 一通り客の鑑定を終えたキビキが問う。この店に質入れされる品物の価値は、所有者の人格や生き方により大きく変化する。人物像の見極めが肝心だ。


「見て驚くなよ。こいつだ」


 どっ、と鈍い音をたて、ぼろ布にくるまれた、キビキの頭ほどの大きさの物がカウンターに置かれた。


「拝見致します」


 キビキは片眼鏡をかけると、絹の手袋をはめた手で、ぼろ布を丁寧にほどいていく。


「……ほう」


 滅多に驚かないキビキが声を漏らすほど、それは大きく、純粋な、まるで水の固まりのように透明な、正八面体の石だった。


「ダイヤモンド、ですね」


 キビキが言うと、男は得意げにうなずき、


「そう、ダイヤだ。こいつを質入れしたら幾らになるか鑑定を……」


「だめです」


 即答したキビキに、呆気にとられる男。


「これの持ち主は、あなたではありません。本物の所有者をお連れください」


「ちょ、ちょっと待てよ!」


 宝石を元通り布で包もうとするキビキに、男が食い下がる。


「なんで、おまえにそんなことが分かるんだよ!」


「分かるのです」


「だ、だとしても、品物は品物だろ? 預かってくれよ!」


「だめです」


「代金は、はした金でいいから!」


「だめです」


「ただでもいいから……」


「だからこそ、だめなのです」


 キビキは男の言葉を遮って言った。


「このお品に対し、あなたはなんの執着……どころか、興味すらない。そんな品物を当店でお預かりする訳には参りません」


「くそっ。融通が利かねえな! でかいダイヤだぞ? 大人はいねえのか、大人はっ!」


 話がこじれた時に客が必ず吐く台詞に、キビキがうんざりと肩をすくめた時、


「あっ、見つけたぞ!」


 開けっ放しになっていたドアを覗き込むや、武装した近衛兵たちがずかずかと店内に上がり込んで来た。男と違い、近衛兵たちは青白い肌をしており、鼻梁は高く、耳は先端がやや尖っている。儀礼用の革鎧の左胸に装飾された鷲獅子グリフォンの紋章。この国と国境を接する、帝国の民だ。


「いらっしゃいませ」


 キビキの言葉がまだ終わらぬうちに、最初に声を上げた近衛兵が、腰に差した円月刀をすらりと抜いた。最上段に構えたのはただの威嚇ではなく、斬り捨てる意志を表している。対する男は、


「おいおい、店の中だぜっ」


 身をたわめたかと思うと、獣のような俊敏さで近衛兵めがけて飛び出した。


「こ、このっ!」


 反射的に近衛兵が振り下ろした刃は、入り口すぐに渡された天井の梁に半ばほどめり込み、木片を散らせた。


「けんか慣れしてねえな、兵隊さんっ!」


 嘲笑いつつ男は軽く跳び、空中からの突き刺すような直蹴りで、梁から刀を抜こうともがく近衛兵の顔面、兜の面頬の隙間にのぞく鼻っ柱を蹴り砕いた。

 床に倒れ悶絶する同胞の姿に息を呑みつつも、残りの二人の近衛兵は互いに目配せして左右に分かれつつ、後ろ手に短剣を抜いた。


「挟みうちってわけかい」


 鼻下を指でこすり軽口を叩く男に、呼吸を合わせた近衛兵二人が左右から同時に躍りかかる。左の近衛兵が突き出した短剣は、男の鮮やかな右回し蹴りでその指から跳ね上げられ、高くない天井に突き刺さる。


「馬鹿めっ! がら空きだ!」


 完全に真後ろを向いた状態の男の背に向かい、右の近衛兵は短剣を腰だめに突撃した。


「あまいっ」


 勢いよく突っ込んできた近衛兵を軽く身をひねってかわした男は、交錯の刹那、隠し持っていた鍛造用の鎚(ハンマー)を、たたらを踏む近衛兵の鳩尾に打ち込んだ。体をくの字に折り曲げ、嘔吐する近衛兵。小振りとはいえ、鉄の塊である鎚をまともに受けたのだ。近衛兵が装備した、見栄えだけの薄い革鎧程度では、その衝撃を防ぎようもない。


「……そんな腕じゃ、大事なご主人様を守れねえぞ。あんたら」


 苦しむ近衛兵たちを見下ろし、男は嗤った。


「き、きさまっ! 言わせておけばっ!」


 残った無傷の近衛兵が腰の円月刀を抜刀したところで、


「おやめなさい!」


 凛、と響いたのは、少女の声だった。見れば店の入り口に、この国の豪奢な伝統衣装を着た少女が立っていた。何枚も重ねられた布生地によって隠されているが、肌はこの国の民の証である赤銅色だ。八本の長い簪で結わえ上げられた豊かな銀髪は、まるで工芸品かオブジェのようだ。


「双方、刃をおさめなさい」


 そのつぶらな瞳をわずかに細め、少女が言った。


「燕姫様、わ、我々は……」


 憤懣やるかたないといった面持ちで言い募る近衛兵たちに、燕姫が優しく微笑みかける。


「ご苦労様でした。賊を捕らえてくださいましたこと、皆様の主上……いえ、我らが殿もお喜びになるでしょう。あとのことは、このわたくしにお任せを」


 姫が宣言した。


「し、しかし!」


「賊めは我が国の者。わたくしが身代を預かります」


 そんな理由では納得できない、そう言い出さんばかりの近衛兵たちに、


「明日には、わたくしはそなたらの主上の妻となる身。ここは言うことを聞かれた方が、御身のためかと」


 燕姫はやんわり言ったが、その物言いには有無を言わせぬ、命じることに慣れた者特有の従わせる力がある。ほどなく、


「……ちっ」


 あからさまに舌打ちし、近衛兵は刀を鞘に戻すと、倒された仲間たちに手を貸し、立ち上がらせた。燕姫にあるかなしかの一礼を残し、店から出て行ったのを見計らって、


「……蛮鷹」


 姫が男に呼びかけた。頭に巻いていた手ぬぐいをほどき、鎚を拭いていた蛮鷹が振り返る。


「……なんだよ」


 むすっと不機嫌に返事した蛮鷹、その頬を、


「愚か者っ!」


 叫んだ燕姫の平手が打った。


「な、なにすんだよっ!」


 掴みかからんばかりに吠えた蛮鷹を見上げ、


「それはこっちの台詞です!」


 燕姫はまったく物怖じせず言い放った。蛮鷹が口をつぐんだところで、燕姫はカウンターに置かれたダイヤに目を遣った。その瑞々しい唇の隙間から、深いため息が漏れる。


「なぜ、このようなことを……。知っているでしょう? 〈八雷〉は我が国の秘宝。それを盗み出すなんて……」


「そのご大層な秘宝を持参金にして嫁入りするんだろ、おまえ?」


 指摘された燕姫は眉を吊り上げ、


「仕方ないじゃないっ!」


 どん、と床を踏み鳴らした。


「相手はあの帝国の第一皇子なのですから!」


「おまえだって第一王女、しかも初婚じゃねえか。なのに、おまえは第六皇妃だなんて、ふざけた話だぜ。その上、国宝まで寄越せだなんてよ。なめやがって……」


「それでも、耐えるしかありません。石高、人口、兵力、科学力、情報収集能力、いずれを比べても我が国が帝国に勝るものはありませんから」


「俺たちの鍛造つくる武具があるじゃねえか」


「ええ。あなたたち宮廷鍛治師がつくる武器や防具は、たいへん優れています。一対一なら、どんな敵にだって敗けないでしょう。しかし、圧倒的に数が足りません。それに、武器や防具に使う鉄は、我が国では多くは産出できませんから、戦となっては補給が……」


「分かってんだよ、そんなことはっ!」


 蛮鷹が大声を張り上げた。


「だけど、他に方法が思いつかなかったんだよ! おまえがあんな奴に嫁ぐなんて言い出さなけりゃ……」


「な、なにを言っているの! あなたが軍隊に入ったりするからじゃない! 戦争をするやつは馬鹿だなんて、あんなに嫌がってたくせに!」


「それはっ……」


「あげくの果てに、鍛錬し過ぎて王国一の大剣士なんかになっちゃってっ……。もし今、戦にでもなったら、あなた絶対、最前線で戦わされるわ。ああ、もう! 本当、どうして軍なんかに……」


「うるせえな! おまえを守るためだろ!」


「わ、わたくしを……?」


 呆然とする燕姫に、


「あー、言っちまった……。よりによってこんな時に、くそっ」



 蛮鷹はばりばりと頭をかき、腕を組むと、天井を見上げ、ため息をついた。


「……俺は、ずっとお前が好きだった」


 諦めた顔で、手にした鎚を眺めながら、蛮鷹が話し始める。


「子供の頃から……いや。出会ったあの日から、ずっとだ。宮廷のガキどもはみんな、汗水垂らして働く親父や仲間たち……俺を見下してた。臭い、暑苦しい、汚い、むさ苦しいって……。だけどおまえだけが、俺たちのことを分かってくれた。だから……」


 蛮鷹の言葉が途切れた。その手を、燕姫のふっくらとした両の掌がやわらかく包んでいる。


「なぜ、わたくしが屈辱的な政略結婚を受け入れたのか……知っていますか?」


 間近で燕姫に見つめられた蛮鷹は、頭を振るのが精一杯だ。


「わたくしが嫁ぐ決心をしたのは、蛮鷹、あなたを戦に行かせたくなかったから。誰かに殺されたりはもちろん、あなたに誰かを殺してほしくなかったから」


「お、おまえ……」


 息を呑む蛮鷹。燕姫は目に光るものを浮かべながら、


「……蛮鷹。これ以上ない餞別です。もはや思い残すことはありません」

 頬を赤らめ、微笑んだ。


「燕」


 蛮鷹が言った。子供の頃のあの日以来で名のみを呼ばれた燕姫は目を丸くした。


「一緒に逃げよう。俺と、どこかへ」


「だ、だめです。わたくしが嫁がねば、帝国と戦になってしまいます。むしろ帝国はそれこそが真の狙い……」


「燕が嫁いだら、絶対に戦にならねえのか?」


「それは……わかりませんが……」


「言っとくが、俺は燕が暮らす国となんか、戦えねえ。戦なんざ、やりたい奴らにやらせときゃいいんだ!」


「蛮鷹……」


「行こう、燕!」


「で、ですが……」


 燕姫は頭を振る。


「やっぱり行けません。それは間違った道です。一国を預かる家の者として許されない、あまりに身勝手な道……」


「どんな道を行こうが、どうせ何かに苦しむんだ。それなら俺は、いま俺が、一番後悔しない道を選びたい。それは、おまえと一緒に生きるって道だ」


 蛮鷹の言葉に、迷う燕姫。


「おまえは、どうなんだ?」


 まっすぐ見つめてくる蛮鷹の眼差し。しばしの沈黙のあと、


「……わかりました」


 燕姫は心を決めた。


「一番悔いがないのは今のこの気持ちに殉ずること。ともに行きましょう」


 力強くうなずいた燕姫に、蛮鷹は大きな口を横に伸ばし、向日葵のように笑う。


「そうと決まれば」


 手をつないだまま、カウンターに飛びついた。


「なあ、あんた」


 淹れたての紅茶を啜りながら、革表紙の本を読んでいたキビキが視線を上げる。


「なんでしょう?」


「こいつはこの国の第一王女……つまり、この〈八雷〉の正当な持ち主って訳だ」


 キビキは本を閉じて脇に置くと、片眼鏡をかけて、ダイヤと燕姫を見比べた。


「……なるほど、確かに権利がないわけでは……」


「な、いいだろ?」


「なにがでしょうか?」


「いや、だから、このダイヤを質入れするから金を工面してくれよ」


「それは……」


 キビキが言い終えるより早く、


「だめです!」


 目を吊り上げ燕姫が叫んだ。


「これは国宝、しかもすでに帝国への献上品になると決まっています。これを我々が独断で売り払うことなど決して赦されません」


「まったく。お姫様は、これだから……」


 しわを寄せた眉間を掻く蛮鷹。


「いいか、燕。世の中、なにをするにも金がいるんだ。金があればそれでいいってわけじゃねえが、金がなきゃ生きていけねえんだよ」


「わたくしが世間知らずなのは認めます。それでも、今、この国宝まで失われれば、わたくしだけでなく、父上と、この国にまで汚名が及びます。蛮鷹、お願いだから……」


 今にも泣き出しそうな顔で、蛮鷹に懇願する燕姫。誰も入り込めない二人の世界に、


「お取り込み中、おそれいりますが」


 キビキが割って入った。


「たしかに、そちらのお客さまはこのお品の所有者の一人でいらっしゃいますが、あなた同様、お品に対する執着心や思い入れが全くございません。この品自体は、将来たいへん有望ではございますが、現時点では、当店でお預かりすることはできかねます」


「買い取れねえってことか?」


「はい」


 素っ気ないキビキに、蛮鷹が手を合わせる。


「頼むよ、なあ。ちょっとだけでいいから」


「だめです。お引き取りください」


「思い入れのある品物が必要なのですね」


 燕姫が言った。


「わたくしが大切に思っている物なら良いのですか?」


 うなずくキビキ。燕姫は首の後ろに指を回し、胸に下げていたロケットを外した。王国の紋章が細やかに象眼されている。興味をひかれたキビキが片眉を上げた。


「おまえ、それ……」


 驚く蛮鷹に、うなずく燕姫。


「ええ。大切な、母上の形見。だけど、もっと大切なのは……」


 燕姫がロケットの金具を指で押し、蓋を開けた。中には小さな、金属の輪っかが入っている。最初は不審げに眉をひそめた蛮鷹の、その眼がみるみる開かれる。


「これが、わたくしの一番の宝物です」


 燕姫が指先でつまみ、差し出したのは、鉄でできた、細い、しかし太さが均一でなく、なんとも不格好な、指環だった。


「鍛治修行を始めた蛮鷹が、お父様からもらった鎚で打ち、わたくしにくれたのです」


「拝見します」


 鉄の指環を受け取り、じっと見つめるキビキ。しばらくして、


「承知しました」


 そう言うと、キビキは備え付けの引き出しを開け、金貨を四枚取り出しカウンターに置いた。


「こんなに……?」


 驚く蛮鷹。


「ロケットが金貨一枚。指環が金貨三枚です。宜しいですか?」


「……どうする? 金貨三枚もありゃ、しばらく暮らせる。母ちゃんの形見はやめとくか?」


 気遣わしげに蛮鷹は言ったが、燕姫は頭を振った。


「いいえ。今までこの二つはわたくしの最高の宝物でしたが、これからは蛮鷹、あなたがそばにいてくれますから」


「燕……」


「いてくれるのですよね?」


「……おうっ!」


 蛮鷹は力強く応え、燕姫を抱きしめた。


「こちらのダイヤモンドはどうなさいますか?」


「悪いけど、あんた、城へ返しといてくれねえか?」


「お断り致します」


「なあ、頼むよ。落ちてたのを拾ったとか、そこは適当にさ」


「お断り致します」


「やってくれたら、いつかきっと恩返しするからよ」


「お断り致します」


「話、聞いてただろ? 宝石泥棒で御用になってる俺が、のこのこ返しに行くわけにはいかねえんだよ」


「お断り致します」


 困り顔で蛮鷹は頼み込むが、キビキは鮸膠にべも無い。


「では、わたくしが返してきます」


「だ、だめだっ!」


「なぜです?」


 顔を上げた燕姫と、蛮鷹の視線がぶつかる。


「絶対だめだ! 城にはあの馬鹿皇子がおまえを迎えに来てるじゃねえか。さっきのノロマな手下ども以外にも、すげえ数の兵がいる。戻ったら、おまえ、二度と……」


 まくしたてる蛮鷹を見て、燕姫はくすくす笑う。


「落ち着きなさい。大丈夫です。まだ誰も、わたくしたちのことは知りません。今までと同じように、また抜け出してきますから」


「じゃ、じゃあ俺もついていく」


「途中までね。〈八雷〉を盗み出したあなたと一緒の方が、よっぽど危険ですわ」


 不満げに唇を尖らせる蛮鷹を、燕姫は愛しげに見つめる。


「お話はついたご様子ですね」


 キビキが言う。


「それでは、このお品は質草とし、当店でお預かり致します。月に元本の一割、今回は金貨四枚を融通しておりますので、銀貨四十枚をお支払いいただけば、お客さまが所有権を失う質流れを止めることができます。他の細かな契約内容につきましては、こちらにお目通しの上、サインを」


 差し出された契約書には細かな文字で色々なことが書かれていた。文字の読み書きが怪しい蛮鷹は顔をしかめたまま読みもせず、燕姫は文字こそ読めるものの書いてある意味がほとんど分からなかったため、ほとんど字面だけをなぞり読み、文末にサインを記した。


 蛮燕、と。



「はい。これ、だわさ」


 ブレイシルドが巻物の束をカウンターに置いた。どれも金銀糸の織物で装丁され、表題の教典名は金箔で刻印されている。


「ありがとうございます」


 目を輝かせるキビキ。


「まさにこれです。素晴らしい」


 キビキは片眼鏡を装着すると、新しい絵本を一度にたくさん与えられた子供のように、巻物を次々と開いては閉じていく。


「助かりました。しかし、長旅になってしまいましたね」


 嬉々として巻物を鑑定するキビキを眺め、ブレイシルドの口元も自然に緩む。


「なんだかんだあったけど、長安は活気があって楽しかっただわさ」


「それは良かった」


 巻物から目を離せないながらも、微笑むキビキ。対して、ブレイシルドは渋面をつくり、


「問題はあいつだわさ。急に帰るのやめたァーなんて。報酬を持ち帰るまでが仕事だってのに、ほんと身勝手な猿だわさ」


「よっぽど、あのお坊様を気に入ったんでしょう」


「それに、これ!」


 ブレイシルドは背負っていた金棒を床に下ろすと、


「ピンチには必ず駆けつけるから、証文がわりに預けとくって……そんなの、おまえが勝手に決めるなってんだわさ」


 面倒くさげに壁に立てかけた。店自体がみしりと揺れる。


「まあまあ。これを預けるということは、必ず戻るということなのでしょうから」


「キビキはあいつに甘すぎるだわさ。いっぺん、きついお仕置きをしないと、だわさ」


「そうですね。ただ私の知る限り、彼にお仕置きできる方法が見当たりません」


「尻を引っ叩いてやるだわさ。もっと真っ赤になるまで、こうやって!」


 ブレイシルドは鋼の手甲を打ち鳴らして笑う。


「それで、このお経の山。何に使うんだわさ?」


「このまま使うのではなく、当店の商品にします。いずれ、素晴らしい力を備えるはずですから」


 キビキはそう言うと、巻物を一巻ずつ大切に、壁際の書棚にしまい込んだ。訳が分からず、ブレイシルドは肩をすくめる。


「ああ、そうだわさ。帰ってくる途中、噂になってたんだけど」


「なんですか?」


「戦が始まるらしいだわさ。呑気なこの国のやつらにしては珍しく、燕姫を殺された復讐だって、盛り上がってるだわさ」


「ああ、その話ですか」


「例の帝国も、ものものしい雰囲気だっただわさ」


「……でしょうね。燕姫に袖にされた第一皇子が、帰路の道中、国境あたりで何者かに襲撃され、殺されたそうですから」


「皇子が持ち帰ろうとして行方不明になったままのダイヤの祟りか、殺された燕姫の呪いだって噂もあるけど、あれは本当だわさ?」


 ふん、と鼻を鳴らすキビキ。


「呪いだなんて。バカバカしい」


「もし戦が始まったら、ちょっと見に行って来てもいいだわさ? 強い男(こ)がいたら、故郷へ連れて行きたいだわさ」


「戦死者の館(ヴァルハラ)へ、ですか? そもそも今の両国にそれほどの勇者がいるとは思えませんが……」


 言いかけて、ふと蛮鷹のことを思い出した。彼は、なかなか戦士として見込みがあったように思う。あの時、今は亡き燕姫から預かった、王家伝来のロケットと不格好な指環は、引き出しに入ったままだ。質入れされてから、ちょうど一ヶ月になる。契約者である燕姫が亡くなった以上、このまま何も音沙汰がなければ、品物は自動的に質屋「籠」の所有物となる。


 キビキが顎を撫でながら契約書を確認していた時。店のドアが開いた。


「う……」


 呻き声とともに入って来たのは、着衣がぼろぼろになった蛮鷹だった。体じゅう擦り傷や打ち身の痕がある。浅いが、刀傷も見受けられる。


「いらっしゃいませ」


 ふだん通り、変わらず出迎えるキビキを見つめたまま、蛮鷹はカウンター席へ倒れ込むようにして座った。ふうう、と胸に溜まった息を吐き出す。担いで来た頭陀袋を床へ放り出し、ブレイシルドが供した水を一息で飲み干した。


「……返して、くれ」


 かすれた声で、蛮鷹が言った。目がぎらつき、野生の獣のようだ。腰帯に差した鎚に付着している赤茶色は、錆ではなく、誰かの血だろうか。


「聞いてんのか? 返せって言ってるんだよ!」


 声を荒げた蛮鷹が、拳でカウンターを殴りつけた。樫の一枚板が軋む。


「あんたねえ……ここをどこだと思ってるだわさ」


「うるせえっ!」


 怒鳴った蛮鷹に、眉根を寄せたブレイシルドが詰め寄ろうとしたのを、キビキが腕を上げて制する。


「ブレイシルド。あなたは奥へ」


「だけど……」


「大丈夫です。このお客さまは二度目のご来店。私に任せて、あなたは休んでください」


 キビキに命じられたブレイシルドは、やや憮然としながらも踵を返し、店の奥へ消えた。


「さて。改めまして……」


 咳払いをして、キビキが蛮鷹を見つめる。


「ご用件は?」


「返してくれ。俺がつくった……あいつが……燕がずっと持ってた、あの指環を」


「あちらは燕姫様の所有物です。あなたには返却を請求する権利がありません」


「じゃあ買うからよおっ!」


 床の頭陀袋を開き、蛮鷹が取り出したのは、あの巨大ダイヤ、国宝〈八雷〉だった。それを一瞥し、キビキは「ですから」と、ため息をつく。


「先日も申し上げましたが、これはあなたの所有物ではありません。また、執着も思い入れもないお品は、当店ではお取り扱いできかねます」


「いいじゃねえか。これを売れば、ひと財産できるだろ?」


「それなら、どこかで売ってからお越し下さい。指環だけなら、質流れ後に金貨六枚でお売り致します」


「な、なんでだよ。借りたのは金貨四枚だろ?」


「あなたは燕姫ご本人ではありませんから、質流れしたお品をお買い上げいただく形になります。この場合、当店の利益が加算されますので」


「は……」


 蛮鷹はカウンターに肘を落とし、頭を抱える。


「……だめなんだ。……知ってるだろ? 俺は、お尋ね者だ。どこへ行っても敵だらけ……こいつを金貨どころか、銅貨一枚に換えるのだって、今の俺には到底無理だ。だから、このダイヤで……」


「たいへん残念ですが、お受けできかねます」


 言葉とは裏腹に無機質なキビキの応えに、蛮鷹はうなだれた。カウンターに額をつけ、両手の拳を握りしめる。


「頼むよ……なんとかしてくれよ……」


「そう仰られましても」


 細い顎に指をあてるキビキ。しばし考え、ふと思いついて口を開く。


「燕姫様ご本人から、あなたに所有権を委譲なさる旨、ご連絡をいただければ、金貨三枚とお利息の銀貨三十枚でお渡しすることはできますが……」


「ふざけんな!」


 蛮鷹はうつむいたまま叫んだ。


「燕は死んだんだよっ! 死んだんだ!」


「聞き及んでおります」


「死んじまった人間と話なんか……」


「できませんね」


 肩をすくめるキビキ。


「まさにそこが問題なのです」


「じゃあ、どうしろってんだよ」


「冥府と連絡を取る方法があれば良いのですが」


「あるのか?」


「今のところ、手立てはございません」


「ないのかよ」


「将来的には可能性がゼロではないと信じております」


「なんなんだよ、くそっ……」


 要領を得ないやり取りに力が抜けた蛮鷹は膝を折り、そのまま床に座り込んだ。


「……ひでえ状態だったんだ」


 独り言ちる蛮鷹。拳を握る。強く。爪が肉に食い込むほど。


「嫌な予感がして、来るなって言われたけど行ってみたら、もうとっくに息がないってのに、めちゃくちゃに弄ばれて……あの野郎がやりやがったんだ。あの野郎だけじゃねえ、薄汚ねえ取り巻きどもも……だからあいつら、俺が……こいつで……」


 はっ、と顔を上げた蛮鷹が、腰に差してあった鎚を抜き取り、カウンターに置いた。


「こいつを質入れさせてくれ。死んじまった親父にもらった、俺の宝物だ。いくらになる?」


「拝見致します」


 片眼鏡をかけたキビキは、血が付着した鎚を、白い手袋をつけた手で持ち上げ、しばし眺めてから、


「こちらであれば、金貨一枚をお貸し致します」


「足りねえじゃねえか! なんでだよっ! なんでっ!」


「そう仰られましても、このぐらいが相場ですので」


「宮廷鍛治師だった親父が造った鎚だぞ? ……ガキの俺が造った、あんなガラクタに金貨三枚もつけたくせに、おかしいじゃねえか!」


「品物の美醜巧拙は関係ありません」


 キビキはぴしゃりと言った。


「ご契約者である燕姫様の指環へ思い入れが、それほど強かったということです」


 言われた蛮鷹の頬を、涙が伝い落ちる。


「金はねえ……だけど、俺はずっと……ずっと燕と、燕の指環と一緒にいたい……。そのためなら、なんだってする。……だから」


「なんだってする。そうおっしゃいましたね?」


 静かに確認するキビキ。蛮鷹はのろのろとうなずく。


「それならひとつ、方法があります」


 キビキの言葉に、蛮鷹の濁っていた眼に光が灯った。


「ご契約者さまが当店の貸した金銭の返済ができないにも関わらずお品を取り戻したい場合、あるいは当店の商品の購入をご希望であるがその対価をお持ちでない非契約者のお客さまの場合、いずれの場合も、その方の魂と交換に品物をお譲りすることが可能です」

「……魂?」

 うなずくキビキ。

「魂を失ったら、俺はどうなる?」

「正確に言えば、魂を失うのではなく、魂が肉体と切り離されるのです。魂と切り離されたあなたの肉体は、ただの抜け殻。記憶も、感情も、思考もなにもかも、時間さえ失い、老いることなく、冥界の神の管理下から離れ、ただ私の命ずるがままに動く人形……傀儡カイライとなります。あなたの心だけが肉体を離れ、永遠に出られない牢獄に閉じ込められる、そんな感じですかね」


「心の……牢獄?」


「おやめになりますか? 牢獄というのは、つらく、苦しいもの。私も決しておすすめはしませんが」


 淡々と言うキビキを、蛮鷹が見つめる。


「だけど……そうすれば……そうすれば俺の体は燕と、あの指環と一緒にいられるんだな?」


「肉体と物品が接触している、という意味では、まあ、そうなりますね」


「なら、頼む」


 迷いなく言った蛮鷹に、


「……承りました」


 キビキは静かにうなずくと、引き出しを開け、鋼鉄の指環を取り出した。


「どうぞ。先にお品をお渡し致します」


 蛮鷹は指先をふるわせながら、その不格好な指環を手に取った。愛しげに眺め、さする。


「燕……」


 呟いてから、ぎゅっと掌に握りしめた後で、唯一サイズのあう自分の左手の小指にはめた。


「もう思い残すことはねえ。……やってくれ」


 目を閉じた蛮鷹は大きな口を開け、ゆっくり深呼吸した。浮かぶのは愛嬌のある微笑み。


「世話になったな」


「こちらこそ。良いお取り引きをさせていただきました」


 にっこり微笑むキビキ。


「ご利用、ありがとうございました」


 キビキが一礼する、と同時に、蛮鷹の顔から表情が消えた。感情の残滓と呼べるのは、頬を伝った涙のあとだけ。命の証であるはずの生々しい傷跡さえ、よくできた特殊メイクのようだ。等身大の人形と見まがうほど、ぴくりとも動かないが、呼吸はしており、確かに生きている。


『……あーあ。取られちゃった、だわさ』


 店の奥からブレイシルドの声が響いた。


『なかなか見込みがある奴(こ)だと思ったのに、だわさ』


「あなたにならお譲りしてもいいですよ。どうなさいますか?」


『んー、じゃあ、仮押さえしといてだわさ』


「手付け金が必要ですが」


『それじゃ、あんたのお願いを一つだけ叶えてあげるだわさ』


「契約成立です。あとで契約書を作成致しましょう」


『あとで?』


「ええ。ちょっとその姿のままで、働いていただくことになりそうですから」


 不穏な気配。耳を澄ませば、店の周りの下草を踏みしめる音と、ひそめた呼吸音がかすかに聞こえる。武装した帝国の兵士たちだ。先日の近衛兵のような軽装ではない。鷲獅子グリフォンが刻印された鋼の胸甲と鱗鎧をまとい、円月刀以外にも槍や盾など、戦でも始めるかのような出で立ちだ。


「さて。それではカイライ、初仕事です」


 言ってから、キビキは少し驚いた。見開いた眼で、己が前に立つ、かつて蛮鷹と呼ばれていた男を見上げる。命じられぬ限り何も考えず、何もしない傀儡カイライとなったはずの蛮鷹が、自ら鎚を手に、床を踏みしめ、迎撃に向かおうとしていたからだ。


「カイライが勝手に動くとは、不思議なこともあるものですね……ブレイシルド!」


 キビキの号令で、壁にかけられていた凧型盾の形をした大剣〈ブレイシルド〉が、受け具を外れ、弩弓の矢のごとく射出された。カウンターに立つキビキの傍らを通過し、カイライの足元に突き刺さる。


「相手の数が多すぎます。戦乙女の大剣(ブレイシルド)を使いなさい」


『よろしくね、だわさ』


 キビキの言葉に続き、大剣からブレイシルドの声が響く。カイライは無言で、大剣の柄を手に取った。


 店を取り囲んだ帝国兵たち。その数は百を越す。彼らに命じられたのは、燕姫の持参金として王国に貢がれるはずだった国宝〈八雷〉を奪還し、帰国途上の第一皇子を暗殺した犯人の首級を持ち帰ること。


 指揮官の号令を受け、一斉に質屋〈籠〉へ突入する兵士たち。


 彼らは一人として、母国の土を踏むことはなかった。|

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質屋・籠の備忘録 甲乙イロハ @kouotsuiroha

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