質屋・籠の備忘録

甲乙イロハ

第1話 黒電話

 蝉がないている。


 真上から照りつける、陽光に蒸されたアスファルトを、くたびれた焦げ茶色の革靴で踏みしめ、とぼとぼ歩いていく男。その半袖シャツには汗がにじみ、地味で無難な色柄のネクタイ同様、鼠色のスーツのズボンもよれよれだ。

 絵に描いたような、うだつの上がらぬ中年サラリーマン。


 男は、やはり相応のため息を吐き、両手で抱えた黒電話を見下ろした。一昔前までは、どこの家庭にもあった、ダイヤル式の黒電話だ。今となっては懐かしのレトロ家電。年齢を重ねるほど、時代の移ろいは早くなる。


「ぜんぶ本物なのに、百円ですって!?」


 酒焼けした女の声に耳をつんざかれ、男はハッと顔を上げた。見れば、右手の平屋に見慣れない看板が上がっている。


「……質屋?」


 質一文字を円で囲っただけのシンプルな図柄だが、長年雨風に晒されてきたのだろう、それなりに歴史を感じさせる、古びた一枚板の看板だ。


「こんなとこに……」


 質屋なんかあっただろうか? 男が昔々のおぼろげな記憶を辿っていると、


「は? なによそれっ! 失礼な店ねっ!」


 男の目の前で質屋のドアが荒々しく開き、


「もういいわよ、他の店にいくからっ!」


 激しい鈴の音と共に、中から派手な化粧をした、キャバ嬢らしき女が飛び出してきた。男はとっさに避けたが、足がもつれ、転んだ。


「いったたた……」


 両手が塞がっていたため、左肘と腰を地面にしたたかに打ち付けてしまった。痛みに呻きながら、男は抱えた黒電話が無事だったことに、ほっと安堵の息を吐く。ヒールの音も高らかに憤然と、男に謝罪する素振りすら見せず立ち去っていく女の後ろ姿に、文句の一つも言って然るべきところだが、


「偽物……だったのかな?」


 女が肩から下げた幾つもの同じ形、同じ色のブランド品のバッグを眺め、男は言った。最近は偽物も造りが精巧になってきていて、プロでもない限り見分けるのが難しくなっているとか……


「本物ですよ」


「ひっ……!」


 不意に頭上から声をかけられ、男は文字通り飛び上がった。あわてて振り返った男に、


「本物のヴォルチェのバッグ。最新の、人気モデルです」


 すらすら言ったのは、漆黒のスーツを着た少年だった。


「カラーも一番人気の赤。三つとも、最初から売る目的で、客からせしめたようですね。ある意味、不景気なのか……最近は、ああいう方が多くって……」


 少年は、妙に大人びた苦笑をもらした。色白で、線が細いため、声が低くなければ少女かと思っただろう。長めに切り揃えられた艶やかな墨色の髪に、ややつり目がちな紫の瞳は年齢不相応に静謐で、貫禄さえ感じさせる。


「客全員に同じバッグを買ってもらえば、一つだけ残して他を全部売り飛ばしても、買ってもらった客全員に『あなたに買ってもらったバッグを使ってるのよ』と見せかけられるって寸法らしいです」


「……はあ」


 ため息とも返事とも判別つかない声を返し、男はのろのろと立ち上がった。ズボンについた砂埃を払い、足を踏み出す。


「当店になにかご用だったのでは?」


 この質屋の関係者らしい少年に問われ、男は頭かぶりを振った。あんな本物のブランドものでさえ、二束三文と評される店だ。こんな黒電話など持ち込めば、何を言われるか分かったものではない。さきほど入った、商店街のアンティークショップで同年代の店員に言われた言葉が脳裏によみがえる。

(こんなガラクタ、一円の価値もないね)

 有名な国民的長寿アニメで描かれている黒電話のモデルになった品であれば高値で売れる。ネットの噂に一縷の望みを託してみたのだが、結果は散々。汗と恥をかいただけで終わった。


「質草はそちらですか?」


 男が抱える黒電話を見下ろし、少年は言った。


「で、でも、これはただの古い電話で……本当に、ただの……」


 無価値な黒電話だ。そう言おうとした男に、


「良かったら無料鑑定だけでもいかがですか? 意外な価値があるかもしれませんよ」


 少年はにっこり微笑んだ。



「どうぞ、だわさ」


 純白のレース編みのテーブルクロスに、紅茶が置かれる。シンプルに紺色一色で蔦飾りの模様が描かれた白磁のティーカップから、芳醇な香りを含んだ湯気が立ち上る。


「……なんだわさ?」


 紅茶を供した女が首を傾げる。


「あ、いえ。別に……はは」


 男は視線を下げて愛想笑いした。

 女の奇妙な喋り方も気になるが、それ以上に、その容姿が不可解だった。腰まで届く、燃えるような赤色の髪に、緋色の瞳。鼻梁は高く、明らかにこの国の人間ではない。しかも中世の騎士よろしく、白銀色に輝く甲冑を身につけている。ただし、その背甲はパーティドレスのように深く開き、胸当ては大きく張りのある胸を強調するような造形をしているため、その抜群のスタイルと相まって非常に扇情的だ。これで腰から剣でも提げていれば、まさに北欧神話に登場する戦乙女 ヴァルキリーだ。


「鑑定は久しぶりだわさ」


 女は子供っぽい、無邪気な笑顔を浮かべると、


店主 オーナーの準備ができるまで、もう少し待っててだわさ」


 踵を返して店の奥へ消えていった。

 特に何をするでも、考えるでもなく、古い時計の針が時を刻む音を聞きながら待っていると、


「お待たせして申し訳ございません」


 さきほどの少年がやって来た。


「こいつが、なかなか見つからなくて」


 右目にかけた年代物の片眼鏡を指差し、少年は頭を下げた。


「さて。それでは……」


 顔を上げ、両手をもみ合わせる少年に、


「君が……店主 オーナー?」


 男は思わず訊ねた。


「ええ」


 男の問いにさらりと答えた少年は、円卓を挟んで正面の籐の椅子に腰掛けた。


「私が質屋〈籠〉の店主、コモリ忌引キビキです。お見知りおきを」


 キビキ?

 妙な名前だ。それにこんな、まだ年端も行かない少年が店主だなんて、いくら小さな店だといってもありえない。


「大人の方は……いないんですか?」


 男が言うと、奥で鈴が鳴るような笑い声が上がった。さっきお茶を出してくれた女だろうか?


「当店の鑑定は、私が行います」


 少年は淡々と言ったが、その顔からは笑みが消えている。


「ご不満でしたら、お引き取りいただいても結構ですが……」


「い、いや。そういうわけでは……」


 少年から発せられる圧迫感に、男はごくり、と生唾を飲み込むと、


「……宜しくお願い、します」


 頭を下げた。途端、息詰まるような圧が嘘のように消え失せた。


「よかった。それでは、お品を拝見致します」


 言われ、男は膝の上に置いていた黒電話を少年に差し出した。キビキは白い絹の手袋をはめ、黒電話を優しく持ち上げた。眼を凝らし、四方八方から見つめ、観察する。真剣に鑑定する姿は堂に入ってはいるが、どう見てもただの少年。さきほどのコスプレ女といい、からかわれている気がしないでもない。いや、あるいは鑑定料と称して何か法外な要求をされるのかも……。時間が経つにつれ不安が募っていく男に、


「ご心配は無用です」


 ダイヤル部分の動きを丁寧に調べつつ、キビキが言った。


「鑑定無料は、今や業界の常識。当店はコンプライアンスを重視しておりますので、ご安心を。……ああ。これは失礼。どうぞ、冷めないうちに」


 勧められるままカップを手に取り、紅茶をすする。茶葉はダージリン。砂糖なしでブランデーを一さじ。男の好みにぴったりだ。温度も熱いが、ちょうど良い。そういえば、真夏だというのに、部屋は少し肌寒い。汗もとっくに引いている。目につかない場所で強力なエアコンが駆動しているのだろうか。機械音も聞こえないが……。


「もう少しお時間を頂戴致します」


 キビキが言った。


「よろしければ、店内をご覧になっていてください。お気に召した商品がございましたら、販売もしておりますので」


 男はうなずき、カップをソーサーに戻して立ち上がった。

 白熱灯がぶら下がる店内は薄暗く、木造で非常に古いが、掃除が行き届いているために不潔さは感じない。埃っぽさもなく、地方の小さな博物館、といった風情だ。

 しかし、置いてある品物は雑多で、正直、訳の分からないものだらけだ。

 棚に並べられた壷や鉢、食器、ガラスケースに入れられた懐かしのヒーロー人形はまだしも、使い込まれたアルミ製のスーツケース、金属製の懐中電灯、銭湯にありそうな大きな体重計、アイドルの顔写真が貼られた団扇に、羽なしの扇風機、ノーブランドの万年筆、大小様々の試験管、アルコールランプ、ベル式の目覚まし時計、跳び箱の八段目と最上段、半畳の畳、半分に割られた竹、すのこ、炊飯ジャー、真新しい剣道着、金棒、竹箒、額縁に入れられた賞状、どこにでもありそうな土鍋、百均にありそうな薬缶、マトリョーシカ。

 到底、特別な価値などありそうもない品物ばかりが並ぶなか、


「……なんだ、こりゃ?」


 壁にかけられた、ひときわ奇妙な品物を見て、思わず吹き出した。しん、とした店内に自分の笑い声が響き、あわてて口をふさぐ。

(気を悪くしたかな?)

 鑑定中のキビキを横目にし、その様子に変化がないことを確認してから、壁の品物に視線を戻す。

 一見、凧型の盾のようだが、よく見れば左右の縁は鋭く研がれており、巨大な剣のようでもある。実際、盾の上部には長い柄もつけられているため、あながち的外れでもないのかもしれない。そう言えば、古代中国では騎馬ごと武者を叩き斬る、斬馬刀という巨大な剣が存在したらしいから、その一種なのかもしれない。

 店員といい、置いてあるものといい、なにもかもが変てこな店だ。質屋というのはカムフラージュで、実は裏稼業がある、危ない店なのかもしれない。

(深入りする前に帰った方がいいな……)

 男は再び鑑定するキビキの背中を横目で見遣りつつ、柱のほうへ歩を進めた。柱の周囲の暗がりには、美術教室にありそうな石膏の彫像や、百貨店に立てられていそうな洋服を着たマネキンがいくつか並んでいる。


「……へえ。これはよくできてるな」


 映画かなにかで使われたのだろうか。完璧に彩色された、今にも動き出しそうな、若くてたくましい、赤銅色の肌をした男の等身大人形に近づく。人形の周囲に置かれた道具を見る限り、古代中国の鍛治職人でも模しているのだろう。ぼさぼさの銀髪もまるで本物だが、小指にはめられた鉄色の指環だけは、まるで子供の遊び、あまりに不格好だ。思わず手を伸ばし、


「ひっ……」


 指先に温度と弾力を感じ、男は驚いて手を引っ込めた。男が触れたのは、人形の手ではなかった。生きた人間だ。呼吸もしているが、それ以上、微動だにしない。


「す、すみません。てっきり人形かと……」


 低頭し謝罪する男を前に、触れられた当の若い男は身動ぎひとつしない。どころか、何も言わず、何もせず、ただ虚ろな眼差しで、他のマネキンよろしく突っ立っているだけだ。

(なにかの薬物中毒なのか? まずいぞ。やっぱり、やばい店だ!)

 早くなる鼓動を自覚しつつ、男はキビキのもとへ駆け戻った。


「なにかお気に召した品はございましたか?」


 片眼鏡を外し、キビキが微笑む。


「いや、その……」


 また日を改めて。まさにそう言おうとしたところで、


「そうですか。残念です」


 絶妙のタイミングで機先を制された。さらに、


「それでは、鑑定の結果を申し上げます。どうぞ、お席へ」


 男は何も言い出せず、促されるまま着席した。


「鑑定結果をお伝えする前に、いくつかお聞きしたいことがあります」


 キビキの言葉に、男は何度もうなずく。


「ずいぶん年季の入ったお品ですが、いつ頃購入された物ですか?」


「……購入?」


「ええ。こちらは盗品ではありませんよね?」


「も、もちろんです。盗むなんて、そんな……」


「とすると、お客さまがお買い求められたのでは?」


「えっ、と……いつだったかな」


 ずっと実家の文机に置かれていたため、最初から実家にあったと思い込んでいたが、記憶を掘り起こしてみて、思い出した。


「そうか。これは……」


 この黒電話は、自分が都会まちへ働きに出た最初の給料で買った物だ。故郷に残して来た母親と、いつでも電話できるようにと。実家と自分のアパートに一台ずつ。自分の黒電話は壊れたかなにかでとっくに手元にないが、母親は実家で、亡くなるまで何十年も、ずっと大切に使い続けてくれていた。女手一つで自分を育ててくれた母は、年末に帰省するたび、いつも、さりげなくだが、その時の喜びを語っていた。不意に、くしゃくしゃの笑顔を思い出し、胸が詰まる。


「あ、あの……」


「なんでしょうか?」


 微笑を浮かべたまま僅かに首を傾げるキビキに、男は拳を握り、つばを飲み込んでから、


「せ、せっかく鑑定していただいた後で誠に、誠に恐縮ですが!」


 意を決して切り出した。


「これは、母との思い出の品なんです。たった今、思い出しました。これを売るわけには、いかないんです」


 言い終えてから、ちらりと奥に視線を送る。今更なんだと、さきほどの若い男が凄んでくるのではないかと恐れたからだが、彼は相変わらず彫像のように突っ立っているだけだった。


「……なるほど」


 キビキはうなずき、テーブルの上で両手を組み合わせた。紫の瞳が男を見つめる。


「当店は質屋です。お客さまのお品を質草としてお預かりして、お金を融通致しますが、期日までに所定の利息とともにご返金いただけましたら、お品はお返し致します。ですから、今の時点では品物を『売る』わけではないのですよ」


「しかし……」


 男は口を開きかけたが、


「お金がご入り用なんですよね?」


 キビキの一言に、後の言葉を飲み込んだ。

 金が要る。

 自分の生活はまだしも、生家に戻って別居中の妻と小学生の一人娘への仕送りだけは何とか工面せねばならない。長年勤めていた会社をリストラされたが、妻と娘はまだ、自分が以前と同じ会社で、同じように働いていると思っていることだろう。しかし再就職先がなかなか見つからず、雀の涙ほどの退職金はすぐに底をつき、生活を守るために消費者金融で借金をし、暮らしは余計に苦しくなった。ほとんど逃げるように故郷の生家へやって来て、家電製品や一着だけあった留袖、本など、金になりそうなものは何でも、最後には家まで売り払い、なんとか借金を全額返済した。さっき家を明け渡した時、最後まで残っていたのが、亡くなった母親が大切に使っていたこの黒電話だったのだ。


「こちらが鑑定額です」


 ぽん、とテーブルに置かれた札束。


「百万円になります。どうぞ、ご確認ください」


「ひゃ、ひゃくまん……!?」


 男は黒電話と百万円を何度も見比べ、向かいに座るキビキに視線を戻した。キビキは微笑を絶やさぬまま、うなずいた。


「このお品を質草に、当店はお客さまに百万円を融通致します」


「し、しかし、それでは利息が……」


「ああ、そうそう。現在キャンペーン中でして、初回のお客さまに限り、半年後までに元本をご返済いただければ、このお品はお返しし、お利息もいただきません」


「い、いいんですか?」


「ええ。半年後からは月に元本の一割、今回は十万円をお支払いいただけば、お客さまが所有権を失う質流れを止めることができます。他の細かな契約内容につきましては、こちらにお目通しの上、サインを」


 差し出された契約書には、細かな文字で色々なことが書かれていた。しかし一万円札百枚一括りを前に頭の中が真っ白になった男は、ほとんど上の空で字面だけをなぞり読み、文末にサインを記した。

 田中和夫、と。



 今年の紅葉はきれいだったな。

 ところどころ茶色くなった山を食堂の窓から眺めながら、和夫は梅干しを口に放り込み、飯をほおばった。

 故郷ふるさとの隣町のはずれに昨年できたばかりの冷凍食品の工場。勤務は長時間で不規則、以前に勤めていた会社と比べると賃金も決して高くないが、無料の社員寮があり、まかない付きなのが有難い。

 その日の勤務を終え、食堂で軽く腹ごしらえをした和夫が、ロッカールームで制服の作業着を脱いでいると、


「田中さん。これからみんなで呑みにいくけど、どう?」


 ずっと年下の若い先輩社員が、いきつけの居酒屋へ誘ってきた。


「ありがとうございます。でも、すみません。今日は用事がありまして」


「そうなんだ。じゃ、また」


 先輩社員にぺこりと頭を下げ、和夫はスラックスをはき、ジャケットを羽織った。工場を出たその足で、例の質屋へ向かう。今日が黒電話の質入れ代百万円の返済期限なのだ。

 早番だったため、日はまだ高からず低からず、夕暮れまで少し時間があるが、早く返すに越したことはない。鞄に百万円もの大金を入れたままというのも、なんとも心臓に悪い。

 生来、少々酒をたしなむ程度で、他に贅沢もせず、これといった趣味もない和夫は、妻に仕送りする以外、ほとんど金を使わない。質屋で百万円を手にしてから、さほど間を置かずこの工場へ就職できたため、結局使ったのは仕送り二回分、二四万円だ。これを五ヶ月で貯め、借りた元金の百万円に戻した。

 電車を乗り継ぎ、けっこう歩いて、質屋〈籠〉へ着いた。早速、


「こんにちは……」


 挨拶しながら店に入るや、


「いらっしゃいませ……ああ、あなたは」


 以前にはなかった学習机で、何やら書き物をしていたキビキが顔を上げた。目が合う。


「その節は、お世話になりました」


 ぺこぺこ頭を下げながら、和夫は後ろ手に扉を閉め、立ち上がったキビキに促されるまま、古いバーカウンター沿いに並べられた丸椅子に腰掛けた。


「本日のご用向きは?」


 カウンター越しに背伸びしながら訊ねるキビキに、和夫は鞄から百万円の入った封筒を取り出し、置いた。


「品物の返却をご希望、ということですね」


 和夫はうなずいた。キビキは小さくため息をつき、


「……残念です。たいへん見込みのある良い品でしたので……。ですが、仕方ありません。これも契約ですから」


 微笑んだ。


「少々お待ちください。ただいま契約書とお品をお持ち致しますので」


 そう言い残し、キビキは店の奥へ入っていった。

 この数ヶ月の間に、品物も少なからず入れ替わったようだ。が、前回のように見て回るのはやめておこうと思う。万一、高価な物を壊しでもしたら、到底弁償できない。

 と、店先で急ブレーキの音が轟いた。

 振り返ると、窓ガラス越しに、黒塗りのセダンが路面を滑って急停車したのが見えた。ほどなく、叩き付けるようにしてドアが開けられる。と、チャイム代わりに吊られた鈴が無秩序に乱れ鳴った。


「おい、邪魔するぜ」


 だみ声を張り上げ店に入ってきたのは、小柄だががっしりした、スーツ姿の男だった。和夫が着ていたような安物ではない。これ見よがしに金銀糸が縫い込まれた、ド派手なブランド物だ。季節外れの真っ黒なサングラスに、金無垢の時計、ただの飾りでは有り得ないごつい、髑髏と十字架の指輪。何よりその身から発散される暴力の気配に息を呑む。

(この店はこの男に、いったい何をしたんだ?)

 和夫が思う間に、男はサングラスを外すと、まんまるな眼をぎょろりと動かし、


「あんた、田中和夫さんだな?」


 静かに言った。


「……へ?」


 思いもかけず自分の名前が呼ばれたことに、和夫は一瞬戸惑ったものの、とっさに頭を縦に振った。


「あ、は、はい。そうです。私が、そうです。はい」


 何度もうなずく和夫を、男がじっと見つめる。


「あ、あの……あなたは……?」


 勇気を振り絞って訊ねた和夫に、男は場違いなほど柔和に笑み、


「俺は桃井ってもんだが……連れて来いっ!」


 叫んだ。と同時に、再びドアが荒っぽく開かれ、桃井の子分らしき二人の若者が店に押し入って来た。どちらも金髪リーゼントで顔もそっくりだが、一人は龍の絵柄が刺繍された青いスカジャンを着ており、もう一人は虎が刺繍された赤いスカジャンを着ている。見るからにアウトローな若者に左右から挟み込まれている中年の女は、


「……美枝子?」


 和夫の妻だった。


「あなた……」


 強張った顔で自分を見つめる美枝子に、和夫は戸惑う。


「こ、これはいったい……妻が、何を……?」

「何をじゃねえんだよ、おっさんっ!」


 混乱する和夫を制し、龍の方がわめいた。言葉を飲み込む和夫。


「このババアはなあ!」


 今度は虎の方が叫ぶ。


「うちが貸した金を、今になって返せねえなんてぬかしやがるんだよ!」

「……ま、そういうわけだ」


 桃井はため息をついた。綺麗に折り畳まれた紙を懐から取り出し、和夫の前に広げる


「……借用……書?」


 半年ほど前の日付に、妻の名前、捺印。書式になんら不備はない。法外な利率を除けば。


「いや、俺は止めたんだぜ? うちみたいな所から金を借りて、返せるんですかってよ。そしたら、父親が入院しただの、娘の給食費が足りないだの……泣かせるじゃねえか」


「兄貴は見るに見かねて、このババアに大事な金を貸したんだ!」


「なのにこのババアときたら、もう少し待てなんてほざきやがる! 厚かましい! ふざけんなって話だろうが!」


 口を揃えてがなりたてる龍虎に、


「うるせえっ!」


 怒鳴った桃井が龍の顔面を殴りつけた。龍は後ろ足を踏んで倒れた。拍子で壁際の棚がひっくり返り、飾られていた玩具類が床に散乱した。


「今は俺が喋ってんだろうが!」


 苦しげにうめく龍を怒鳴りつけ、桃井は和夫に視線を戻す。


「どうもすみませんね。うちの若いのが跳ねっ返りやがって……。だが、こいつらも俺を思ってのことなんで、勘弁してやってくれよ」


「み、美枝子……本当……なのか?」


 和夫の問いに、まだ虎に捕われたままの妻は小さくうなずく。


「な、なんで……なんで言ってくれなかったんだ……なんで……」


 頭が真っ白になり、思いつくままに言葉を発する和夫に、


「パートで働いても、どうしてもお金が足りなかったから……」


 か細い声で妻は言う。


「ひ、一言、言ってくれれば……仕送りを増やしたのに……」


「……だってあなた……会社、辞めたんでしょ」


「おまえ……知って、いたのか……?」


 妻はうなずいた。


「あなたが精一杯やってくれてることは分かっていたから……だから、自分のことぐらい自分でなんとかしなくちゃって、そう思って……」


 和夫は何も言えなかった。それなりに生活できている筈だと思い込んでいた。いや、連絡さえ取らなかったのは、そう思いたかっただけかもしれない。


「美枝子は……妻は、いくらお借りしたんですか?」

「三十万だ。利息と延滞金で、百万ぐらいになってる」

「ひゃ、百万……」


 驚く和夫の肩に、桃井はするりと腕を回した。肩を抱く。友人や恋人なら親しさを表す仕草だが、この状況では逃がさないという意思表示にしか思えない。


「……ところで、だ」


 息を呑む和夫の肩をぽん、ぽんと優しく叩きながら、桃井は言う。


「こいつは、あんたの金なんだろ?」


 カウンターの封筒を指差し、桃井は言った。


「こ、これはっ……」


 和夫は封筒を手に取り、胸にかき抱いた。


「こ、これは、私のお金じゃないんです。こちらの質屋さんでお借りしただけで……」


「まだ返してないんだろ?」


 低い声で質され、和夫はあわててうなずいた。


「だったら、まだあんたの金だ。何に使おうが、あんたの自由。違うかい?」


「まあ、そうですね」


 答えたのは和夫ではなく、黒電話と契約書を手に戻って来たキビキだった。並べてカウンターに置く。


「こちらの契約書はまだ有効です。田中様、どうなさいますか? こちらの黒電話を諦めて百万円を取られますか? それとも百万円を当店へ返済して黒電話を取り戻されますか?」


「わ、私は……」


「ここに書いてありますが」


 キビキは契約書に記された細かい文字を指差しながら言う。


「期日までに返金されなかった場合、乙……田中様ですね、は、品物の所有権およびそれに付随する一切を甲……当店に譲渡する」


「あ、あの……所有権は分かりますが、それに付随する一切、とは?」


 よく読んでいなかったが、確かにそう書いてある。


「そうですね。今回の場合、この黒電話にまつわる田中様の全ての記憶や思い出、あらゆる感情、といったところですかね」


 ……からかわれているのか? 和夫は自問したが、キビキは微笑んでいるものの表情は真剣そのものだ。嘘をついているようには見えない。しかし、そんなことが本当にできるのだろうか? 極度の緊張感の中にいるため、考えがまとまらない。混乱のあまり答えられずにいると、


「馬鹿言ってんじゃねえ」


 桃井が笑った。


「こんなガラクタが百万だぞ? こいつは天からのお恵みだぜ。さっさと売っ払っちまえよ。な?」


 桃井が封筒に伸ばした手を、和夫は振り払った。とたん、桃井の目つきが険を帯びる。和夫はほとんど反射的に封筒を胸にかき抱いた。息がつまり、胸が押しつぶされそうだ。懸命に空気を吸う。


「こ、これは渡せない!」


 和夫は目をつぶって叫んだ。


「このお金は、質屋さんにお返しする。ひゃ、百万円は、私が働いて返します! ですから……」


「ふざけんじゃねえっ!」


 激昂した桃井の平手が、和夫の頬を打った。強烈な一撃。喧嘩などしたことがなく、当然殴られたこともない和夫は椅子から転げ落ち、熱く燃えるような頬を押さえながら、呆然と桃井を見上げた。


「おまえに他に返すあてがあんのかよ!? ねえだろうが、おいっ!?」


 襟首をつかまれ、強引に立たされる。


「か、必ず私が……私が、お返ししますから……」


「まだぬかすか、この野郎っ!」


 桃井に蹴倒され、和夫は床に這いつくばった。そのまま体を丸め、封筒を守ろうとする。


「こいつ、なめやがって……やれっ!」


 号令を受け、さっき桃井に殴られた子分の龍が和夫を蹴りつけた。


「やめてっ!」


 美枝子が叫んだ。しかし、龍は和夫の背中を何度も踏み、蹴りつける。


「なにもかも、私が悪いんです! 主人は関係ありません! もうやめてっ!」

「静かにしてろ、ババアっ!」


 虎の張り手が美枝子の頬を打った。悲鳴を上げ、和夫の隣に倒れ込む美枝子。


「み、美枝子っ!」


 殴られた妻の姿に和夫は激しく動揺し、顔を上げた。尻餅をついた美枝子と目が合う。


「ごめんなさい、あなた……。私のせいで、こんな目に……」


 頭を下げられ、和夫の心が揺らぐ。


「私のことは気にしないで。あなたは、あなたの思う通りにすればいい。あなたがどれだけ、ずっと、私や娘のために生きて来てくれたのか、最近、私もようやく分かって来たの」


「お、おまえ……」


 涙を流す美枝子に、和夫の胸にも熱いものが込み上げる。


「いい加減にしろっ!」


 龍がつま先で和夫の脇腹を蹴り上げた。突き刺さる痛みに悲鳴を上げ、もんどりうつ和夫。そこへ、立ち上がった美枝子が駆け寄る。古びた靴が片方脱げた。


「う……うう……」


 うめく和夫の手からこぼれ落ちた封筒を、桃井が拾い上げた。


「最初からおとなしく渡してりゃ、痛い目にあわずにすんだのによ」


 満足げに封筒を開け、中身の札束を数える桃井。

 そのズボンの裾を、誰かが引っ張った。桃井は再び怒りを露にし、


「しつこいぞっ、このやろ……」


 拳を振り上げかけて、止めた。裾を引いていたのは和夫でも美枝子でもなく少年、キビキだった。


「お取り込み中、恐れ入りますが」


 猛る桃井を見上げ、キビキは言った。


「田中様はまだ、お品を手放す決意をされておられません。ですよね?」


 妻に寄り添われた和夫は、震えながら、しかし何度もうなずいた。


「このままでは、当店はお品の所有権を得ることができません」


「いいんだよ。もう話はついたんだ。そのガラクタはおめえのもんだ。良かったな」


「そういうわけには参りません」


「ちっ……うるせえな。大人の話にガキが口を挟むんじゃねえよ。あっち行って、なんかオモチャででも遊んでろ」


 ひらひらと手を振る桃井に「しかし」と食い下がるキビキ。


「この世に存在するお品は全て、生きている所有者の気持ちが残っていては、完全に当店のものにはならないのです。ですから……」


「ごちゃごちゃうるせえぞ、小僧っ!」


 叫んだ龍が壁に貼られたレトロなポスターをはぎ取り、ばりばりと破って、捨てた。ビール片手に水着で笑う往年の人気アイドルがしわくちゃだ。それを見下ろすキビキの眉がぴくりと引き攣る。


「ガキだからって手出ししねえと思うな! 調子に乗ってんじゃねえぞっ!」


 虎に蹴られたラジカセが壊れ、部品をまき散らす。それを横目にしたキビキは、


「やれやれ……」


 まぶたを閉じ、軽く頭を振った。ぱん、ぱん、と柏手を打つ。と、


「……人間ごときがこの店で暴れるとは、いい度胸だわさ」


 店の奥から、甲冑を着た女が現れた。先日、和夫に紅茶を出した時と違い、羽飾り付きの兜をかぶっている。面頬の隙間で不敵な笑みを浮かべる女を見て、桃井と子分たちは声を上げて笑った。


「なんだ、どんな強面の用心棒が出てくるかと思えば……逆に驚いちまったぜ」


「アメリカ人か? フランス? ああ、最近多いロシア人か?」


「服はずいぶん変わった趣味だが、なかなか別嬪さんじゃねえか」


 にやにやする三人を女は指差し、


「キビキ。こいつらどう見ても英雄じゃなさそうだし、ぶち殺していいだわさ?」


 女の言葉に、怒るより呆気にとられる桃井たちを無視して、


「だめです。あと、できるだけ汚さないようにお願いしますよ。大切な品物が血やら何やらで汚れたらたいへんですから」


 釘をさすキビキに、女は肩をすくめる。


「それは難しいだわさ。人間はすぐ壊れるし……」


「壊すだけなら、カイライにやらせますよ。ブレイシルド、あなたに命じた意味を考えてください」


「あー。はいはい、だわさ」


 ブレイシルドは頭を左右に振り、こき、こき、と骨を鳴らした。さらに二の腕を引き寄せるようにして肩を伸ばすと、屈強な男三人に向かって、にっこり微笑んだ。


「で、誰からやる?」


 ブレイシルドの挑発に、男たちも流石に気色ばんだ、その時だった。

 黒電話が、激しく鳴った。

 居合わせた誰もがそれぞれに驚き、カウンターの上で鳴り続ける黒電話を見つめる。


「な、なんだ? なんで急に鳴ったんだ?」


 桃井の言葉に、子分たちもうなずく。


「そ、そんなはずない」


 和夫が指差したのは、黒電話から伸びたコードだった。銅線むき出しのその先端は、だらん、と宙に垂れ下がっている。それに気付いた美枝子は、


「ひっ」


 悲鳴をあげた。


「なんなの? なんなの、これ? 線が繋がってないのに、どうして鳴るの!?」


 半ばパニックになりながら言った。


「い、いや。そもそも電気さえ通ってないんだ。……鳴ること自体が、お、おかしいんだ」


 和夫はおののきつつ、震える美枝子の肩を抱き寄せた。訳が分からず硬直する大人たちを尻目に、


「お電話ですよ」


 キビキは平然と、鳴り続ける黒電話を両手で大切そうに持ち上げ、


「どうぞ」


「えっ……?」


 戸惑う和夫の前に差し出した。


「てめえら、何の真似だ!」


 桃井が声を荒げる。


「さっきから、なんの手品だ? ふざけたことしてやがると……」


「どうするの、だわさ」


 桃井の耳元でブレイシルドがささやいた。


「……っ!」


 悲鳴こそあげなかったものの、桃井は思わず後ずさってしまった。


「こ、この女っ……!」


 子分たちの前で見せた失態。それを隠そうと殊更に怒声を上げてみて、驚いた。子分の二人は床に倒れ、口から泡を噴いている。それを無言で見下ろすブレイシルドは、自分の手刀を見つめ、


「ごめん、ちょっと力入れすぎただわさ。……死んでたら、ごめんだわさ」


 悪戯っぽく舌を出した。


「てめえっ! 調子に乗ってんじゃねえぞっ!」


 雄叫びをあげた桃井がブレイシルドに摑みかかる。首元をねじ上げようとして、驚く。びくともしない。怪力自慢のプライドに火がつき、さらに力を込めた、が。


「んしょっ、だわさ」


 逆に桃井の襟首をつかんだブレイシルドが、小柄ではあるものの筋肉質で重い桃井の体を、片手一本で宙に浮かせた。驚きのあまり声も出ない桃井の首筋に、


「ていっ、だわさ」


 ブレイシルドが空いた手で軽く手刀を振り下ろす。そのたった一撃で、桃井は子分たち同様、泡を噴いて卒倒した。


「おつかれさまでした。ブレイシルド」


「お易い御用。易すぎて準備運動にもならないだわさ」


 その言葉通り、ブレイシルドは呼吸一つ乱さず、乱れた襟元を直している。


「……さて」


 何事もなかったかのように、キビキは言う。


「それでは、田中様。外野がいなくなったところで……どうぞ」


「へ?」


 呆然と問い返す和夫に、


「お電話です。あなたに」


 キビキは再び言った。和夫はごくりと喉を鳴らしつつ、キビキが持つ黒電話の受話器を取り上げた。

 りん、と一つ鳴り、ベルが止む。


「……も、もしもし?」


 和夫が受話器に向かって言うと、一拍置いて、


『和夫? 和夫かい?』


 年老いた女の声が流れて来た。聞き覚えがある、どころではない。懐かしい、あの声。


「か、母さん……?」


『元気にしてるかい? 風邪、ひいてないかい? あんた、赤ん坊の頃から寝相が悪かったから』


 ああ、そうだ。母は、こんなふうに、ころころ笑う人だった。もう一度、この声を聞くためなら何だって差し出すと思った時があった。いつのまにか、毎日の忙しなさに、考えて見れば些細な出来事に紛れて、思いは薄れてしまっていたけれど……。


『どうしたんだい? せっかくこうして話せるんだ。なんでもいいから、声を聞かせておくれ』


 何も喋らない和夫を不審に思い、母は心配げな声を出した。もしこんな機会があれば話したいと思っていたこと、聞きたいと思っていたことがたくさんあったはずなのに、和夫は一つとして思い出すことができなかった。ただ涙だけが溢れてくる。


「か、母さんは、元気かい?」


 声を震わせながら、なんとかそれだけ言った。すると、


『わたしは元気にしてるよ。死んでるけどね』


 茶目っ気たっぷりに母は笑う。和夫は受話器を持ったまま、


「……キビキさん」


 涙と鼻水を垂らしつつ、声を絞り出した。


「黒電話これを手放すってことは、これにまつわる……その……母との思い出も、全部失くすってことなんでしょうか?」


「そういうことです」


 うなずくキビキ。


「他に思い出のお品がなければ、お母様に関わる全ての思い出、記憶、感情を失ってしまうことも有り得ます」


「そんな……」


 和夫は苦しげに呻いた。家財道具も、家も、何もかも、全て売り払ってしまった和夫にとって、残された唯一の母の思い出の品が、この黒電話なのだ。


『……和夫や』


 電話口で、母が優しく声をかけて来た。


『わたしはもう、死んだんだ。だけど、あんたはまだ生きてる。一所懸命、あんたと、あんたの家族のために生きて、生きて、生きて。やらなきゃならないことを精一杯おやり』


「だけど、母さん。おれ、母さんのこと、忘れたくないよ」


『和夫……』


「いやだよ、おれ。母さんのこと忘れるなんて、絶対に……」


『あんた。馬鹿だねえ』


 母は明るく笑った。


『あんたがわたしを忘れても、わたしがあんたを覚えてる』


「……母さん……」


『約束するよ。いつまでも、ずっと。忘れられるもんかね』


「母さん! 待って!」


『じゃあ……またね』


 通話が切れた。音が失せた受話器を握りしめ、和夫は号泣した。

 隣で美枝子も、黒電話に向かって何度も頭を下げながら涙を流している。


「……分かりました」


 しばらくして、和夫は洟を啜りながら言った。


「キビキさんからお預かりした百万円……。あれは美枝子の……妻の借金の返済に充てさせていただきます」


「お品の所有権を放棄される、ということで宜しいですね」


 念押しするキビキに、和夫は涙ながらに、しかし、はっきりとうなずいた。


「それでは、こちらのお品は質流れとし、たった今より当店の所有物となりました」


 キビキは咳払いし、


「ご利用、ありがとうございました」


 深々とお辞儀した。



 木枯らしが吹き抜ける。


「……あれ?」


 町なかで、和夫は立ち尽くしていた。

 仕事を終え、何かを取りに店へ……。……店? なんの店だったっけ? そこで、なにをしようとしていたのだろう? 全く思い出せない。


「私、どうしてここに……?」


「……美枝子?」


 隣で首を傾げているのは別居中の妻ではないか。和夫は驚いた。


「なんだ、おまえ? いつ、こっちに来た? それに……なに泣いてるんだ?」


 矢継ぎ早に問われた美枝子は顔をしかめ、


「あなただって泣いてるわよ? ……えっと、なにがあったんだっけ?」


「なにか大切なことを忘れてるような……。なんだ? ぜんぜん思い出せないぞ。二人して記憶喪失か?」


 涙を拭いながら言った和夫の顔を、美枝子はまじまじと覗き込み、


「お互い歳をとったわね」


 そこで、ふと気づく。若い頃のように手をつないでいることを。

 顔を見合わせ、ほとんど同時に吹き出した二人を、店のガラス越しに見つめるのは、キビキとブレイシルドだ。


「すごいだわさ」


 黒電話を眺め、感嘆するブレイシルド。


「質流れ前に力を宿すなんて、初めて見ただわさ。よっぽど大事に思ってたんだわさ」


「おそらく、元の持ち主である母親の思い入れが強かったのも一因でしょう」


 キビキは黒電話をカウンターの一番端に置き、


「あの世と繋がる電話……冥界電話とでも名付けましょうか」


 にんまり笑みを浮かべた。


「ブレイシルド、あなたもお疲れさまでした。今日はもう店じまいにしますから、戻っていただいて結構ですよ」


「あっそ。じゃ、おやすみだわさ」


 ブレイシルドが身を翻す、とその姿が煙のように掻き消え、代わりに壁に凧型の盾のごとき大剣が出現、壁付けの頑丈な受け具にずしりと収まった。


「う……うむぅ……」


 目を覚ました桃井が、呻き声をあげる。それを追うようにして子分二人も気がついた。


「ああ、お目覚めですか」


 両手を後ろで組んだキビキが、床でうごめく三人をカウンター越しに見下ろす。


「あ、兄貴。これ……」


 子分が拾った封筒を受け取り、懐に入れる桃井。それを黙って見つめるキビキ。


「……帰るぞ」


「で、でも兄貴……」


 虚仮にされたまま帰るのか。非難めいた子分の視線など無視して、桃井は出口へ向かった。長年、荒事にたずさわってきた男の勘だ。ここは、やばい。焦る桃井だが、しかし。


「ドアは……どこだ?」


 入って来たドアが見つからない。


「おい、出口はどこだ!」


 虎の刺繍入りのスカジャンを脱ぎ、叫ぶ子分。カウンター越しに獣のような顔で凄まれたキビキは、破れ、壊れた店の品々を眺めながら、


「弁償していただきますよ」


 静かに言った。


「ふざけんなっ!」


「よせっ!」


 桃井の制止も聞かず、ポケットから飛び出しナイフを取り出した虎が、鋭い刃の切っ先をキビキに向ける。


「あんまりなめてやがると、ぶっ殺……」


 言いかけて、言葉を飲み込んだ。


「な、なんだよ、それ……」


 突然、風が吹いたかと思いきや、虎の鼻先に巨大な剣の切っ先が向けられていた。キビキの背後の暗闇から浮き上がるようにして、赤銅色の肌をした若い男が現れる。超重量の鉄のかたまりを軽々と扱うその膂力は、まさに人間離れしている。

 真の武器を目の当たりにした虎は、自らの持つ玩具のようなナイフから手を離し、後ずさった。腰が抜け、床に尻餅をつくと同時に、床板に落ちたナイフが鈍い音をたてて転がる。


「正解です」


 キビキが言う。


「このカイライには、単純な命令しか与えられません。壊せ、とか、殺せ、とか。あなたがたがこれ以上、当店で暴挙を重ねるようでしたら、私も命令を下さざるを得ないところでした」


 桃井は懐から封筒を取り出し、カウンターに置いた。


「こ、こいつは返す。これで手打ちってことで……」


「いいんですか?」


 無言でうなずく桃井。キビキはつまらなさそうに封筒を手にした。


「では、こちらは迷惑料として受け取っておきます」


「お、おう。邪魔したな。それで、出口は……」


「……出口?」


 キビキは眉を潜めて問い返した。


「これは迷惑料として受け取ったまでです。苦労して、苦労して、長年かけて集めた貴重な品が幾つも失われたのですよ? 弁償には全然足りません」


 がしゃり、と金属音が響く。カイライが大剣を握り直したのだと気づき、桃井は息を呑んだ。


「わ、わかった! いくらなんだ? いくら払えばいい!?」


 ほとんど恐慌状態に陥り、桃井は叫んだ。龍虎もすっかり縮み上がっている。片眼鏡をかけたキビキはそんな三人を頭からつま先まで順番に見つめ、肩をすくめた。


「……やれやれ。残念ながら、今、あなたがたは良い質草をお持ちではない。……仕方ありませんね。古典的で恐縮ですが……」


 両手を組み合わせる。


「どなたかの魂おひとつで、いかがです?」


 キビキは薄く微笑んだ。

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