リスにクルミを食べさせたい

溶けた梅雨

食べてくれなかった

 チャイムが鳴る、この時点ですべてのクラスメイトが席に座っている。先生が来る。現代文の授業は、明るいノリでテンポよく進む生物の授業より退屈で、恐ろしくつまらない家庭科よりマシくらいの位置付けがされている。

 初老くらいに見える小林先生がいつもの感じで教科書のページを指定して授業がはじまる。小林先生の初老男性らしい低い声が教室にこだまする。家庭科よりマシだが、つまらない。

 十分くらい経って、あくびが出かけた。その瞬間、前の席でぴしっと、綺麗に右腕が挙げられた。

「先生、お手洗いに行ってもよろしいでしょうか」

 前の席の黄昏利栖子さんは、年頃の少女には言いづらいトイレに行く許可の申請を平然と口にした。小林先生は渋い顔をしている。

「授業が始まる前に行っとけ。後にしなさい」

「先生は授業中の教室で漏らすというトラウマをいち生徒に与えたい願望があるんですか?」

「そんなにピンチならさっさと行ってきなさい」

「行ってきます」

 そう言うと利栖子さんは黒く長い髪をなびかせて立ち上がると、なんとなくぎこちない歩き方で教室を出て行った。

 結局、利栖子さんは授業が終わった後にようやく、少し疲れた顔をして戻ってきた。


「リスちゃんてこのアプリやってる? あれ前にも訊いたっけ」

 前川光稀さんはクラスの中でかなり可愛めの子だ。コミュニケーション能力もかなりある。正直うらやましい。

 そんな光稀さんが、利栖子さんにこんなことを訊いていた。

「訊かれたわ」

「断られちゃったんだっけ?」

「ええ。そのときはうっかりウイルスを仕込まれたメールを開いてしまったから、またあとでって言ったの」

「え、それ大丈夫だったん?」

「ええ。手を尽くしたから」

「じゃウチのグループに招待するから参加してよ! いいでしょ?」

「もちろん」

 利栖子さんはにこやかにカバンから最新型に近いスマホを取り出した。光稀さんがそれを見てぱちぱちと長い睫毛を揺らす。

「それ新しめのやつ? いいね」

「買い換えたの。これが手を尽くすということよ」

「……前のはウイルスにやられたってこと?」

「ええ」

「それ大丈夫じゃなかったってことじゃん」

 光稀さんは溌剌とした可愛い笑みを見せた。利栖子さんも歯を見せて綺麗に笑った。


 お昼休みのチャイムが鳴る。いつも一人で食事する利栖子さんは席から立たずに弁当箱と市販のパンを取り出した。

 トイレに行きたかったから、私は席を立った。前の扉の方がトイレに近いので利栖子さんの横を通って行くことにする。

 なんとなく横目で利栖子さんの手元を見た。焼きそばパンを齧って、箸で白米を口に運ぶ。利栖子さんは週に一度くらいの頻度でこの食べ合わせの昼食をとっている。

 前に訊いたところ、お好み焼きで白米を食べたことも何度かあったそうだ。ただ、お寿司で白米を食べようとした時はダメだったらしい。私には違いがわからなかったから、どれも同じような食べ合わせじゃないのかと思ったしそう言ったが、利栖子さんは全然違う! と首を横に振っていた。


 放課後、利栖子さんが私の机の上に個包装のアメを一粒と紙コップを二つ置いてきた。紙コップはどちらも飲み口を下にして置いていたが、私から見て右側の紙コップだけ飲み口を押さえて慎重に置いていた。

「よくこういうコップの中に物を入れてシャッフルさせて、『どっちだ?』ってやるじゃない?」

 利栖子さんはそう言って私から見て左側に置いた紙コップを持ち上げ、そこにアメを置いて紙コップで隠した。

「その際ちょっと簡単にする。挑戦者はまんまと正解の方を選ぶけれど、実際は選ばなかった方により豪華な賞品が隠されている……という、イジワルなゲーム」

 利栖子さんは紙コップをシャッフルさせ始めた。「よく見ててね」と美しく微笑んでいる。

 勢いよく机の上で滑っていた紙コップのうち、初めに私から見て右側にあった紙コップが勢いそのままに机から落ちた。軽い音が聞こえる。とっさに下を見ると、床には紙コップだけが転がっていた。

「……」

「……利栖子さん、最初の話は、いったい……?」

 利栖子さんは「このアメと、なんでも一つだけ言う事聞く券を上げるわ」と言って白紙のノートの一ページを破き、雑な感じで『一つだけ言う事聞く』と書いて渡してきた。


 私は雑な出来の〝なんでも一つだけ言う事聞く券〟で利栖子さんの家にお邪魔させてもらうことにした。前々からちょっとズレている利栖子さんがどんな家に住んでいるか見てみたかったのだ。

 利栖子さんは「そんなことでいいのね」と笑った。

 利栖子さんは二階建ての一軒家に住んでいた。家に着くと利栖子さんは「片づけてくるから玄関の所で待ってて」と言ってすぐ目の前の扉の奥に行ってしまった。私は手持ち無沙汰に玄関で体を揺らしながら大人しく待っていた。ガサガサと物音が扉の向こう側から聞こえてくる。

「利栖子さん」けれど十分くらい経った頃に待ちきれなくなって利栖子さんに話しかけた。「私、ちょっとくらい散らかってたって気にしないよ」

「でもね久瑠実ちゃん、親しき仲にも礼儀あり、よ」

 そう言って利栖子さんはくすくすと鈴を転がしたような声で笑った。

 私は、利栖子さんの生活感というものを見てみたかった。だから履いていた学校指定のローファーを脱いで家に上がってしまった。

「利栖子さん」

 扉を開けてまず青いものが見えた。床一面にビニールシートが敷いてある。その上に利栖子さんは私に背を向けて立っていた。

 見渡すと、そこはダイニングルームらしい。大きめのテーブルに椅子が二脚。椅子の背もたれに利栖子さんは手を置いていた。足元には男の人が寝転がっている。

 中年の、ゴマ塩頭の、驚いた表情の、土色の男の人。その下に引きずったような赤と黒と茶色を混ぜた色の跡がある。

 どう見ても、死体だ。

「り、利栖子さん、これ何……?」

 死体をさす指が震えて見えた。利栖子さんはなんでもないように振り向いて、「ああ」とため息に似た声を出して言った。

「父よ。血が繋がってないけど。昨日変な意図をもって胸に触ってきたから、ついスッパリやっちゃったわ」

 利栖子さんは指を首元で横にスライドさせるしぐさをした。その手も、震えて見えた。

 よく見ると利栖子さんの目は泳いでいたし、額や頬に汗が伝っている。胸が忙しく上下して息も荒くなっていた。足も内股で、時折ピクピクとうごめいていた。

 緊張している。あの利栖子さんが。妙な文句で先生を脅すあの利栖子さんが。ウイルス付きメールを開いて機種変するハメになったあの利栖子さんが。焼きそばパンで白米を食べるあの利栖子さんが。軽妙な文句で私を騙そうとして失敗したあの利栖子さんが。

 ちょっとキラキラしている名前も気にしない、体育祭のリレーで転んでも平気な顔をしていた、テストで名前を書き忘れて0点を取っていたあの利栖子さんが。

 あのミステリアスで綺麗な利栖子さんが。

 クラスで「残念な美少女」と名高い変人の利栖子さんが!

 ……私は嬉しくなった。私だけが知る秘密だと思ったから。それは死体のことなんかじゃない。利栖子さんが緊張している姿そのものが、すばらしい私だけの秘密になった。

 自然と笑ってしまう。

 もっと一緒の秘密が欲しくなる。

「……ねえ、黙ってるよ。私だれにも言わない。だから手伝わせて。埋めちゃおうよ。バラバラにしてさ。お肉が簡単に切れる包丁を買おう。おっきなノコギリとかも。面倒なことはぜんぶ私がやるから。ね? 聞いて。やらせてよ。焼くのもいいね。目立つかな? 大丈夫、二人で頑張ればバレない、きっと絶対。必要な物は買ってくるからやっちゃおう。ね、こっち見て。私が一人でぜんぶするから! 利栖子さんは見てるだけでいいから。ねっ? 二人だけの秘密にさせて。お金なら私が出すよ。そうだ! 私が殺したことにしちゃえば私が死体隠すのも自然だよね、ね。だからこっち見て。私がんばるから! ねえ、そのスマホ置いてよ」

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