第五話 ついおく、

 あれから賢人は、迎えに来てくれた両親と、新潟の実家へ帰っていった。


 わたしは引っ越しをすることに決めた。もうあの部屋に住み続けることは、できそうになかった。あの夜の出来事は、やはりとても怖かった。


 迫音さんは、「その方がいいんじゃない? 次はもっと安全な部屋にしなよ」と笑っていた。笑顔だったけれど、少しだけ寂しそうだった。わたしは迫音さんと握手をして、「ありがとうございます」と伝えた。


 果奏に引っ越しの旨を伝えると、「そうなんだ! いやそれが正解だと思うよー、正直電車で聞いた話、怖かったもん!」と言っていた。さらに怖い目に遭った話は、やめておこうと思った。恐らく果奏は、こういう話が苦手そうだ。


 引っ越したことで大学からは遠ざかり、駅からのアクセスも若干悪くなり、さらに狭い部屋になったけれど、怖いことは何も起きなかった。それだけで、引っ越しをした意味はあったように感じられた。


 夏休みが終わり、また大学生活が始まる。わたしの中で段々と、あの四日間の出来事が、過去の記憶へと変化していった。


 ◇


 ――そうして、長い月日が流れた。


 ◇


 わたしはケーキを乗せていたお皿とフォークを、流しで洗っていた。リビングには、楽しそうに絵を描いている四歳の娘――明衣めいと、弟の賢人の姿がある。


 賢人は大学一年生になった。昔はわたしよりも全然小さかったのに、今ではわたしよりも背が高い。すらっとしていて私服のセンスもいいから、きっとモテるんじゃないかと思っている。


 大学一年生だった頃の自分を、思い出した。

 そこでふと、夏休みに賢人が泊まりに来たときの四日間が、頭に浮かんだ。

 わたしは小さく、息を吐いた。お皿とフォークを片して、明衣と賢人に歩み寄る。


「ねえ、賢人」

「どうしたの、姉さん?」

「……あなたが小学一年生だったとき、夏休みに東京のアパートに泊まりに来たの、覚えてる?」


 わたしの問いに、賢人は少しの間考える素振りを見せてから、微笑んだ。


「ごめん、覚えてないや。そんなことがあったっけ」

「ああ、いや、覚えてないならいいの。ごめんね、いきなり聞いちゃって」

「いやいや、こちらこそ」


 申し訳なさそうな賢人に、わたしは微笑みを返した。


 迫音さんと、果奏のことを思い出した。迫音さんとは、引っ越した当初はメッセージのやり取りをしていたが、段々と話さなくなってしまった。果奏も、大学一年生の頃は仲が良かったが、大学を卒業する頃には疎遠になってしまった。二人は今、元気で過ごしているだろうか――そんなようなことを、何となく考える。


「そういえば明衣ちゃん、絵が上手だね」

「えへへー、そう? ありがとう、けんとくん!」


 明衣は嬉しそうに、顔を綻ばせる。彼女の手元には幾つものクレヨンと、開かれた落書き帳があった。紙の上には、カラフルで楽しげな世界が描き出されている。


「明衣ちゃんは、何を描いてるの?」

「あのね、あそこにあるものだよ!」

「あそこにあるもの……?」


 賢人は不思議そうに首を傾げながら、明衣の指が示す方を見た。窓の外に、綺麗な都会の街並みが広がっている。風景を描いているんだな、とわたしは納得した。


「そう、あそこのね、まどにね、」


 明衣は可愛らしい笑顔を浮かべながら、言葉を発する。



「てがあるよ」

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てがあるよ 汐海有真(白木犀) @tea_olive

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