第2話 あの日
千恵子がまた「あの日」に帰っているのが分かった。
「あの日」、千恵子は真っ青な顔をして俺を待っていた。「優斗がいないの」と。俺は千恵子と二人で優斗を探して回った。けれど、優斗は川で溺れて死んでしまった。
優斗は慎重な子で、川に近づくような子ではなかった。雨の日に一人で出かけるような子でもなかった。「知らないうちに家を出ていたの」と千恵子は泣いた。半狂乱になっている千恵子に、近所の人たちも警察の人たちも消防の人たちも、みな涙を堪えていた。俺は違和感を誰にも言えなかった。
優斗は千恵子の子どもではなかった。俺が浮気をして、浮気相手に出来た子だった。千恵子は浮気相手に子どもが出来たと知ったとき、表情をなくした。なじられた方が楽だった。勝手な思いだけど。
千恵子は病気がもとで、子どもが出来ない体質だった。それを分かったうえでの結婚だったのだけど、俺にはその覚悟がなかったのかもしれない。千恵子は一週間口を利かずにいた後、「わたしたちの子どもとして育てましょう」と言った。そうして、少しずつ妊娠したように見せかけ、里帰り出産をしたふりをして赤ちゃんを引き取った。
完璧な母親だった。
近所で千恵子の母性を疑う者は一人もいなかった。親や親戚すらそうだ。千恵子は完璧な母親だったのだ。
事故を調べた警察はさすがに千恵子が実母ではないことを知っていた。でも、千恵子の母性をひとかけらも疑わなかった。とにかく、千恵子は完璧な母親だったのだ。
「あの日」、何があったのか、本当のところは分からない。
ただ、優斗は雨の日に川に近づくような子では絶対になかった。そして、洗濯機の中に濡れた千恵子の服が入っていたことも事実だ。千恵子は「あなたが帰ってくる前に探しに行ったの」とは言っていたけれども。
千恵子のためにホットミルクを作る。牛乳を温めて、砂糖を二杯入れたマグカップに淹れてかき混ぜるだけ。
「優斗も好きだったなあ、ホットミルク」
「そうね」
千恵子が何を考えているか、それも本当のところは分からない。
ただ、「あの日」以来、千恵子は駅からの坂道を使わなくなった。あそこで何があったのだろう? あんなにあの道が好きだったのに。そうして千恵子はときどき「あの日」に戻るようになった。
俺には千恵子を問いただす勇気はなかった。資格もなかった。
でも俺は千恵子を愛している。浮気はやはり浮気にしかすぎず、あのとき、どんなに千恵子のことを愛しているのか実感したのだ。
「千恵子?」
千恵子はホットミルクを飲み終わった後、車椅子に座ったまま、うたた寝をしていた。
幸せな夢を見ていて欲しい。
そうして、残りの人生をふたりでゆっくりと過ごしていければいい。
緑のトンネル 西しまこ @nishi-shima
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