緑のトンネル

西しまこ

第1話 あの道

 若いころは、駅からのあの坂道なんて大変だと思わなかったのに。もうあの道を自分の足で通ることは出来ないだろう。

 緑にフェンスに囲まれた、細いアスファルトの道。でも若いころは好きだった。夏になると緑が生い茂って、緑のトンネルの中を歩いているみたいだった。季節の花もところどころに咲いていて、わたしは紫陽花が特に好きだった。誰も手入れしていないだろう紫陽花は、でも毎年勢いよく咲いていて、梅雨の時期には雨粒をたっぷりと受け止めて、本当に美しかった。

 あの道を旦那さんと二人で歩くことが好きだった。家へ着くまでいろいろな話をした。なんて貴重な時間だったのだろう。

 あっという間の六十年だ。

 いろいろなことがあった。本当にいろいろなことが。

 あの道を小さな手をつないで歩いたこともあったのだ。現実のことだったけれど、今では夢のように感じる。

 かわいい子だった。男の子だけど、いつも女の子に間違えられた。優しい子で、羽が傷ついた蝶を見ても泣くような子だった。もうすぐ小学校だったのに。

 ここまで考えたら、また息が出来なくなった。胸が苦しい。

「千恵子」

 旦那さんがわたしの背中をそっとさする。車椅子を移動させて台所に連れて行ってくれる。

「ホットミルク、飲むか?」

「うん、ありがとう」

 甘いホットミルクを二人で飲んでいたら落ち着いてきた。

「優斗も好きだったなあ、ホットミルク」

「そうね」

 甘い甘いホットミルクが好きだったかわいい子。でももういない。

 あの道をゆっくりゆっくり歩いて、葉っぱをちぎったり紫陽花の花に触れたりした。小人を探したりもした。

 雨の日、優斗がいないことに気づいた。近所の公園に行っているのかと思って探しに行ったけど、いなかった。お友だちのうちにもいなかった。雨の中、わたしは優斗を探し続けた。

 どうしてあの日、わたしは優斗のことをしっかり見ておかなったのだろう。優斗はどうして外に出たのだろう。どうして。

 何十年経っても「どうして」と思わずにいられない。

 優斗は雨で増水した川の中で溺れた。足を滑らせて川に落ちた、というのが警察の見解だった。

 あの道はもう通れない。緑のトンネルも紫陽花も、優斗の幻影が強すぎて。

 動かないのは足だけではない。わたしはもうずっと、あの日から動けずにいる。

 ホットミルクを飲み干すと、カップの底に少しお砂糖が残っているのが見えた。

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