ふぁっくおふ
紅蛇
「きっと、いつか。」
勉強道具の入ったリュックを奪うように取り、玄関へ駆ける。これ以上ここにはいれない。いたくない。たえられない。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い——
後ろから髪を引っ張ろうと、手を伸ばす気配。母が止めに入る音。殴られる音。怒鳴られる音。
母に。私に。開かれた扉に。
「——FUCK OFFッ」
心臓が燃えるように痛む。
「二度とその口を開かないようにさせるッ」
呼吸が乱れる。
足が絡まる。
汗が流れる。
スニーカーを履く時間も惜しんで、サンダルを選ぶ。空っぽになった缶を蹴り飛ばし、まだ閉ざされている扉に当たる。捕まったら、私はこうなる。
急げ、急げ、急げ——
「戻ってこいッ」
外気がなだれ込み(一瞬だけ)振り向くと、真っ赤な金魚のような顔。獣のような激しい息遣い。生臭い熱気。(私の前髪の揺れ)
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い——
すぐに顔を逸らすと、見慣れた藍色があった。(一番着心地がいい部屋着だと、彼女は笑っていた)白髪が目立つようになった女性の微笑み。宗教画に描かれている表情。行きなさい、と息を吹きかけるように呟く。かよわい母。やさしい母。きびしい母。私の愛、足枷、太陽、憎しみ、信仰、心残り。
——お母さん。
瞬きを一つ残し、外へ出る。金魚掬いに捕まらないように、尾鰭の代わりにリュックを揺らす。右へ、左へ、前へ、前へ。(あいつは追いかけてこない)
肺から酸素が溢れ出ていく。学校帰りによく寄っていた公園に駆け込み、トイレに向かう。酷い臭いがしようが、気にせず呼吸を整える。(肺に異臭が入り込む)大丈夫。大丈夫。大丈夫。きっとどうにかなる。大丈夫。(震えが止まらない。涙が込み上がる。痛み、痛み、嗚咽)
握りしめていたスマホを開き、緑色のアイコンを開く。
《もうあの家にはいたくない》
《大丈夫か? 今閉店準備中。終わったらすぐ向かう》
《もう耐えられない。こわい。声が、口調が、酷く強く押しかかる感じが》
《うん。お前さんは何にも悪くない。すぐに終わらせて向かう。杏も連れていく》
《うん》
《だから安全な所で待っていてくれ》
《いま公園のトイレに避難してる》
《わかった》
《息が苦しい》
《吸い込むんじゃなくて吐くんだ》
《涙が止まらない》
《辛いな》
《うん》
《落ち着いたら出来るだけ人がいる所にいったほうがいい。本は持ってるか?》
《持ってない》
《じゃああの大きな本屋さんに行ってごらん》
《わかった》
暗くなった画面に水溜りができていた。震える指でつぅ……とのばし、膝を抱える。あいつが探しているかもしれない。(でも想像でしかない)行かないと。トイレットペーパーで顔を拭いて、立ち上がる。(こんな時に限って、着ているものはショッキングピンクの部屋着)こんな服じゃ秒で見つかる。
ゆっくりと個室から出て、辺りを伺う。仕事帰りのサラリーマンがベンチで煙草を吸っている。隣には『禁煙』の看板。すぐ近くのアパートから扉を開く音。冷たい香り。秋の湿り気が、熱を帯びた頬をなでる。(母の微笑みを思い出す。置いていってしまった。残してしまった。私——)
また個室に閉じこもり、過呼吸を起こす。
大丈夫。大丈夫。お母さんがあいつを招いたんだ。私がいなくなれば全てうまくいく。大丈夫。大丈夫。(息を吐く。息を止める。息を吸う。を繰り返す)
あいつはどこにもいない。出来るだけ目立たないように背を丸めて、早足で駅へと向かっていく。大丈夫。大丈夫。(通帳を持ってき忘れた。お金出さないと)
後ろを歩く気配に振り向くと、犬の散歩中。前からの気配は、ビニール袋を持ったおじさん。また後ろからは、笑い合うカップル。横を学生服の子が歩いてる。右へ、左へ、前へ、前へ。(あいつは追いかけてこない)
私はどこへだって行ける。
きみどり、しろ、みずいろ。
コンビニに入る。自分のお金なのに、何故か強盗気分。なんでこんな気持ちにならないといけないんだろう。そわそわと目線が泳ぐ。
財布からカードを取り出し、挿し込む。
『取り引き開始』
『暗証番号入力』
『引き下ろす』
『全額』
『決定』
大学費のために集めたお金、数十万円。二枚を財布にしまい、残りを「
「
震えは治った。涙も止まった。お金の心配も多少、無くなった。大丈夫。大丈夫。きっと大丈夫。
強盗から、今度はスパイに。変装をしよう。黒い、大きなおおきな、全てを隠せるパーカーが好ましい。頭も体も、(母を置いて行ったクソな)自分も、誰にも見せないように。
もうあの家には帰らない。帰らない。帰るものか。お父さんがいない家、母が変わった家、知らない男のいる家、私の育った家。大っ嫌いな家。大好きな、家。もう帰ることのない、家。(遠い記憶を思い出す。父と母と、手を繋ぎ行った夏祭り。射的の音。リンゴ飴の噛み跡。カップの底の水色。花火のきらめき。跳ねる水のつめたさ。金魚の尾。泡となって消えた夜。あたたかさ、こいしさ、かえりたい)
なんなら名前も変えようかな。
まばゆい看板の通りを進む。(上を向いて歩いていくと、通り過ぎていく光が花火のようにぱちり、ぱちりと点滅する。赤い看板。夜空。白い看板。夜空。木。緑色の看板。夜空。ぁ、月。手を伸ばせば届きそうなところに)
首が痛くなってきた。アリス。ルーシー。ジェシカ。サリー。エマ。ルイ。ルカ。ぁ。アルファベット二文字の看板が見えた。
じーゆー。
私の自由はどこで買えますか。
さささっとラックの間を見ていく。黒くて大きいなパーカーを探す。違う、違う、違う、違う、ぁ、これ。ポケットも付いてて完璧。
一番大きなサイズを選び、レジへ向かう。タグを切ってもらい、試着室で変装を完了させる。髪を下ろし、フードを被り、安堵する。大丈夫。大丈夫。ラックの間をまたさささっと通り抜け、出口へ。本屋さんはすぐそこ。
《あと数分で着く》
《わかった》
本屋さんはどんな時に来ても安心する。ただ、そこに本があるだけで笑みが溢れる。(でも家には数冊しかない。母は物語に夢中になる私をよく思わないから)表紙を撫で、開いた瞬間、波に襲われる。見知らぬ地へ、新たな発見を教えてくれる。
——誰かに呼ばれた。
あいつ?
違う。知ってる声。落ち着く声。大好きな声。振り向くと、丸顔の女性が走って来ていた。
「杏さん!」
「大丈夫だったぁ?」
抱擁。途端に、しまっていたものがゆるんだ。蛇口からぽつ、つぅ……つ、っ、っ。
「——怖かった」
「よしよしよし」
「ここじゃああれだし、別のところに行こうか」
男性の声。撫でられながら顔を上げると、店長と社員のきたのさんがそこにいた。
「心配してきてくれたみたいだよ」
私服姿の店長が眉を八の字にして、肩を叩く。(私はまた、この人に迷惑をかけてる)きたのさんはいつも通り、顔色が悪い。(それでも来てくれた。私は母を置いていった人間なのに)
「ありがとうございます——」
ゆったりと砂漠の民のような服をまとった杏さんと腕をからめて歩いてく。私はらくだ。お荷物にんげん。(杏さんが気遣って今日来た面白いお客さんの話をしてくれたけど、あいつに見られているように感じるんだ。あっち、そっち、まえ、ふりむく。いない)
杏さんは世界で一番優しくて賢い人。(お母さんも優しいけど、あいつの味方)私の先輩、お姉ちゃん、憧れ。どうしたら私もあなたみたいになれますか。優しく人と接したい。母を助けたい。(でもあの女性は私よりもあの男性を選ぶに決まっている)(聖母の微笑みを思い出す)(心臓が痛い)
「ここでいいか——」
三日月の絵が描かれた扉を開ける。四人です。こちらへどうぞ。座る。(帰らなきゃ)私にはオリジナルのノンアルコールのカクテルが。オレンジの果肉が泳いでる。ぷかぷか、夕焼けの中を飛んでいる。(私の隣には砂漠の民)見上げると丸い照明。(満月の光)誰かの氷が揺れる音。(宝石の冷たさ)目を閉じると母の微笑み。(吹きかけるような「行きなさい」)うっすらした暖房で目が乾燥する。(砂漠の砂がさらり、ささり、さそりが一匹)
私は母を置いてった。
私は唯一の家族を捨てていった。
帰らなきゃ。
帰らなきゃ。
(泣き叫ぶ母を思い出す。帰ってこない父の足元。私の名前をささやき「あなたはどこにも行かないで」と手を握られた。爪が食い込み、呼吸が乱れた。その夜、私は舞台に立っていた。棺の色と同じスポットライトに照らされ、無数の拍手を浴びていた。父がやってきて「よく頑張ったね」と抱きしめ、いつものように頭にキスをしてくれた。「お母さんを守ってね」と言われ、フェードアウト。私は役者。売れないお涙頂戴アクター。私、何がしたいんだろう)
三人が話し込んでいるのが聞こえる。私の顔を窺っている。返事を待っている。
「遠いけど私のうちに来るかぁ?」
「お袋と三人で住んでみるか?」
「(きたのさんは様子をみている)」
帰らなきゃ。
帰らなきゃ。
(母の微笑みが繰り返し、母の微笑みが繰り返し、母の微笑み、繰り返し、再生される。——帰らなきゃ)(もし私があの家に帰らなかったら、母は死んでしまうかもしれない。
「私……、やっぱり帰る」
「そうかぁ……」
「お前さんならそういうと思ってた」
なにその言い方。でも、私はこういう人間なんだ。勇気がない、意気地なし。母のためだと言っているけど、本当は環境が変わるのが、「私のせい」になるのが怖いだけなんだ。変なことはしないほうがいい。今まで通り、私は我慢していればいいんだ。
(
「本当に大丈夫なの?」
(
「いつでもうちに来ていいからね。お泊まりでもいいんだよ。逃げるのはダメなことじゃないよ」
(
「今まで通り、お店はいつでも使っていいからな。大学の手続きも手伝う。また耐えられなくなったらいつでも、いつでもだからな。
「うん。わかった」
(
涙が込み上がる。握り込んでいたパーカーが湿地帯へと変化する。嗚咽が込み上がり、海水が流れ込む。氷河が心を抉って、いたい。めーでーめーでー。ちんぼつちゅう。
誰の視界に入らないように目を覆い、深海に。
めーでー、めーでー。私はここです。私をみつけて。私はじゆう。私はいきる。めーでー、めーでー。(母は私の帰りを待っている)
(
でも、それでいいの?
息を吸う(数秒の)合間に声を発す。きっと言わないと後悔する。暗い店内に星が六個。満月合わせて、まなこが、ななこ。
——三回祈れば願いは叶う。
——よし、言おう。
「——ありがとうございます」
三人が安堵したような笑みを見せる。言えなかった。言えなかった! 今言わなかったらいつ言うんだ。それに、それに……やっぱり私なんか迷惑なだけなんだ。優しい人たち。優しい人たち。私なんて生きる価値なし。
——意気地なし。
——負け犬。
——FUCK OFFッ
——
——きっと、いつか。
——「帰りたくない」と声に出してやる。
——それまで、FUCK EVERYTHING。
ふぁっくおふ 紅蛇 @sleep_kurenaii
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