第21話 【幕引き後】

 まどろみの中、目を覚ました。

 寝返りを打つと、瞼の向こうから眩しくも暖かい光が入り込み、うっすらと目を開けた。

 眩い輝きが優しく降り注ぎ、部屋の中を淡く照らしている。どうやら彼女が窓を開けてくれたようで、陽だまりの香りが頬を撫でていった。


 久しぶりに、ずっと昔の夢を見た。

 自分が彼女を敵視して、あらゆることで突っかかり、衝突の多かった時期のことだ。


 いや、それは向こうも同じだろう。

 彼女も自分のことで手いっぱいで、随分とげとげしかった。今となっては良い思い出ではあるが。


 だが、彼女の方はどうだろうか。

 もう、彼のことは昇華できているのだろうか。

 随分長い時間を一緒に過ごしているが、彼女からもう何年も彼の話を聞いていない。彼の話を初めて聞いた時の、彼女の悲痛な叫びが耳の奥で木霊した。初めて自分の前でたくさん泣いて、しがみついてきたのだ。


 あれだけ大切に思っていた彼のことだ。忘れていることはないだろう。

 だが、今はどう思っているのだろうか。思い出にできているのか、それともまだくすぶっているのか――。

 

 思考の海に沈みかけた時、ドアが開く音がした。


「おはよう。目が覚めてるなら起きたら?ご飯できてるよ」

 

 凛と響く声に、いつの間にか閉じていた瞼を開く。

 視界に鮮やかな深紅の髪と宝石のような紅い瞳が映り込んだ。


「目閉じてたのに、よく起きてるって分かったな」

「私が気配を読むのに長けてるの知ってるでしょ?寝てる時とは随分様子が違ってたけど?」

「気が抜けてる時は気づかないくせに」


 何度か不意打ちを仕掛けて、びっくりした様子を見せる彼女の顔を思い出して笑う。

 それが分かったのか、彼女はむっと頬を膨らませた。


「そんな意地悪言うなら、あなたのご飯無しね」

「ごめんごめん」


 慌てて起き上がって頭を撫でると、彼女はふっと力を抜いて笑みを見せた。ほにゃりという音が聞こえてきそうな表情に、こちらの顔も緩む。


 かつて彼女が見せていた壊れた人形のような笑みも、何年も見なくなった。

 何があっても笑みを絶やさなかった彼女だが、それがあまりに作り物めいた痛々しい表情で、昔から見て居られなかったのだ。


 懐いた猫のように、気持ちよさげに頭を撫でられている彼女だったが、やがて心配そうな表情でこちらを見上げた。


「ねえ、考え事してたでしょ?何かあった?」


 ああ、いつの間に、彼女は人の些細な感情まで察することが出来るようになったのだろう。


 いや、もとから人の機微に敏感な少女だった。それが、過去の出来事で、一時歪んでしまっていたのだ。

 それでも随分と察しの良くなってしまった彼女に苦笑しつつ、さらさらと流れる絹糸のような髪を撫でつける。


「いや、ちょっと昔の事思い出して」

「昔のこと…」

「ああ。俺たちがまだ小さかった時のこと」

「…なんでそんな昔のことを…」

「んー夢に出てきた…から、かな」

「ふーん…」


 彼女はひょいとベッドに乗り上げて座ると、こちらに身体を預けてきた。

 ふわりとした暖かい陽光の香りが全身を包む。心地よい重さがかかり、自分も彼女の腰に手を回した。


「嫌な夢だった?」

「いや…ってわけじゃないけど。でも、ちょっと辛かったかな」

「……」

「まだ自分のことで手いっぱいになって、余裕とか全然ない時だったし。…ほんとに、いろいろあったからな」


 身体を預けてくる彼女は、何も言おうとしない。

 俯いているから、どんな表情をしているのかも、何を想っているのかも分からない。

 それでも、沈黙が辛いとは思わなかった。


 過去の自分に会う時があれば、将来自分と彼女が互いを必要とするほどの関係を築いていることを、絶対に信じようとはしないだろう。それは彼女の方でも言えるであろうが。


 だが、自分でも信じられないほどのことが重なり、そして今に繋がっているのだ。

 その過程にあったさまざまなことを、後悔はしたくない。いや、するわけがない。 

  

 これまで進んできた道の結果は、今後も未来が教えてくれる。だから今は、自分ができる精一杯をするだけだ。


 なおも自分に寄り掛かる彼女の髪に誓いを込めて軽く口づける。

 ふるっと小さく身体を震わせた彼女が面白くて、つい息が漏れた。


「気配に敏感なんじゃなかったか?」

「……反則よ」


 ついとこちらを振り仰いだ彼女の頬は、薄らと色づいていた。

 不意打ちを食らったことが気に食わないのか、眉根を寄せて、頬を少しばかり膨らませていた。

 その表情がいじらしくて、彼女の額に自分の額をこつりと合わせる。


「今日は、随分甘えん坊さんみたいね?」

「たまにはいいだろ」

「はいはい」


 彼のことを聞いたら、今の彼女なら穏やかな表情で思い出を語ってくれるだろう。

 だが同時に、辛いことも思い出させてしまう。それは自分の望むことではない。


 今の自分は、彼女が幸せに暮らすことが出来るように全力を尽くすのだ。

 彼女に自分の思いを語った時に、約束したこと、誓ったことを果たすために。

 彼女が心の底から幸せを感じて、笑うことができるように。


 じんわりと温もりを伝えてくる身体を引き寄せ、隙間をなくした。

 前まで触れ合うことを怖がっていた彼女だが、今では引き寄せると更に密着させてくる。

 こうした触れ合いも、もう随分慣れたものだ。お互いの存在を強く感じることが出来る暖かさに、ほっと息を吐いた。彼女も口元に花がほころぶような笑みを浮かべ、胸元に頬をこすり合わせてきた。


 ああ、こんな幸せな日々が、これから先もずっと続きますように。


 彼女のぬくもりから離れがたく、さらさらした髪に顔を埋める。自分を柔らかく包み込んでくれる暖かな香りが、鼻孔をくすぐった。


「ねえ」


 彼女の声に、ん?と顔を上げる。視界に入った彼女は、ふわりと花のような笑みを浮かべていた。

 かつての彼女の二つ名の基になった赤い花ではなく、日の光をいっぱいに浴びて、誰からも愛される花のように。


 すっかり〈リコリス〉の面影のなくなった彼女が、俺の頬に手を当て、顔を近くに引き寄せた。

 そのままこつんと優しく額がぶつかる。

 互いの髪が触れ合い、吐息が混ざった。

 視界いっぱいにキラキラ輝く紅い瞳が広がり、宝石に自分の驚いた顔が映り込んでいた。

 突然のことで心臓が楽器になったようにドキドキしていると、彼女は落ち着いた様子で、花びらの唇を開いた。


「家族になってくれて、幸せをくれて、ありがとう」


 愛してくれて、ありがとう。


 震える吐息と共に届いた声に、きゅうっと胸が締め付けられた。


 彼女がずっと求めていたもの。


 実の親に捨てられ、大切な人を亡くし、ボロボロになりながら自分の居場所を求めていた。

 金で買われたから自分は家族になることはできないと、シャルティー家でもずっと孤独を感じていたのだ。


 それが分かってからだ。

 俺が、彼女に歩み寄るようになったのは。

 いつからこれほど彼女のことを大切に思うようになったのか、そのきっかけは分からない。

 でも、助けたいと思ったのだ。

 常に凛と気丈に振舞う彼女の陰で、泣き続けている少女のことを。


 だからこそ、彼女がこの言葉を紡いでくれたことが、どうしようもないほど嬉しかった。


 自分が彼女の居場所になれたこと。

 安心を与えることが出来ていること。

 幸せを、感じてくれていること。


 全てがこの言葉に詰まっていた。


 だから、俺も同じ言葉を返そう。


 いろいろなことがあった中、それでも前に進もうと思えたのは、何があっても逃げない彼女の背中があったからだ。

 助けたいと思いながら、その実自分もいろいろなところで彼女に助けられていた。彼女にその自覚があったか分からないが。


 過去の出来事。そこから続いている今。そしてこれからの未来に、感謝と祈りを込めて。


「こちらこそ、一緒にいてくれて、ありがとう」


 これから先、何度だって伝えていく。

 不安を感じる暇がないくらい、何度も言葉を紡いでいく。

 自分の気持ちは、ちゃんと言葉にしないと伝わらないから。


 窓の外で、白い鳥が2羽、陽の光に向かって力強く羽ばたいていった。

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リコリス 霜月日菜 @shimohina

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