孤ドック後のランチ
空草 うつを
人間ドック終了者特別ランチ(仮)
やっと終わった。
最後の問診を終えた私は、ぐったりと待合室の椅子に腰をおろした。
初めての人間ドック、思っていたよりもハードだった。
前日の午後9時以降の飲食禁止、朝食もダメ、水分もできるだけ摂らないように。ちょうど人間ドックをしたのが7月の暑い日で、検査会場に着く前に水分不足かもしくは熱中症で倒れてしまうのではと危惧したほどだ。
到着すれば、案内されるがままに身長に体重、視力検査や血液検査といった、健康診断のときにでも行われる検査内容を難なくこなした。問題はその後だった。眼圧検査で突然の風に驚愕し、胃カメラ検査の苦しみに耐え、ようやく解放された頃には身も心もくたくただ。
ようやく会計で名前を呼ばれ、諸々済ませた後。会計を担当してくれた女性が切符大の紙を手渡してきた。
「最後に、人間ドックを終えた方へのお食事をご用意しています」
なんと!
「お食事券を病院内にあるレストランに持って行ってください」
ありがたい。食べたい、何か、美味しいものを。
昨日の夜から何も口にしていない私は、喉もカラカラで砂漠の中を当てもなく彷徨う放浪者。この食事券は私をオアシスまで導いてくれる星のようだ。
ご飯、ごはん、ゴハン、GOHAN……。
頭の中はご飯でいっぱい。脇目も振らず、レストランに直行した。
「いらっしゃいませ。人間ドックを終えられたのですね。お疲れ様でした」
私を待っていたのは、
食堂には、私の他にもランチにありつけた人間ドック修了者達がちらほらいる。
空いている席につけば、ものの数分で「人間ドック終了者特別ランチ(仮)」が目の前に現れた。
三つの小鉢、小さなお
どれから食べようか。まずは喉を潤すために、味噌汁に手を伸ばす。
胃カメラをしたから、麻酔から覚めた喉がびっくりしないように、まずは慎重にちびりと味噌汁を流し込んだ。
う、旨い!!
ただの野菜たっぷりな味噌汁だ。五臓六腑に染み渡る優しい味噌の風味。これだ、これ! 体が欲していたホッとする味!
胃カメラをしている時は、はっきりいって地獄だった。覚悟していたとはいえ、ド太い胃カメラのケーブル——口から挿入する方だった——のおかげで何度もえずくし、鼻から息を吸ってくださいと言われてもケーブルに阻まれてうまく呼吸できずパニックになるし、苦しさのあまり溢れた涙やら唾液やら鼻水やらで顔中大変なことになっているしで、もうヘトヘトだった。
特に悲惨だったのは胃と喉だろう。胃カメラの前に苦い麻酔薬を飲まされ、太い胃カメラを突っ込まれ。あちこち異常がないか胃カメラが動く度に苦しくて苦しくて仕方がなかったのだから。
「
絶望に打ちひしがれた胃や喉のもとに降り注いだのは、恵みの味噌汁の雨。
ああ、神は我々を見捨てなかったのだ!
思う存分味噌汁を吸収し、そのまろやかな風味が傷ついた胃と喉を癒していく。
神様、仏様、味噌汁様。そう言って彼らは
さて、次は味噌汁の具を。白菜は舌の上でとろりととろけてしまうほど柔らかい。大根は味噌汁の味が染みてる。それに豆腐と油揚げ、やはり大豆食品同士だから相性抜群。
あ。豆腐と共につまみ上げたこれは、ネギ、か。実はネギは苦手な食材だ。しかし、胃袋が早く食べ物よこせと『味噌汁乞い』をしているから……ええい、食べちゃえ。
……おや!?
白菜に大根、豆腐に油揚げ、どれも味噌汁と同様まろやかに仕上げられた具材の中、ちょこっとした辛味と独特の風味のネギが良いアクセントになっている! 味噌汁のほわーんとした味を引き締めてくれている。いい仕事してるな、お前! 見直した!
味噌汁を十分堪能したのでそろそろご飯を。
ご飯のお供にまず選んだのは小鉢に入った魚。鯖の柚子醤油煮込み、とでもいうのだろうか。鯖の味に柚子の個性的な香りが食欲を刺激する。熱々の白米と共に口に放り込めば、口の中に柚子の風味がふわりと広がる。柔らかく煮込まれた鯖は醤油のベールをまとい、魚の脂と合わさってとにかく美味しい。無機質な胃カメラは味などなかったから、舌が喜んでいるのを感じる。
それからほうれん草の胡麻和え。胡麻の芳ばしい風味は安定の美味しさだ。
もうひとつの小鉢には煮物が入っている。大根、厚揚げ、にんじん、しいたけ。どれもこれも、ひと噛みすればじゅわっと醤油味の汁が溢れ出る。こんなに味が染みている煮物を食べたのはいつぶりだろうか。
きわめつけは、デザートのオレンジ。ここにきてシンプルな柑橘を豪華ランチのシメにもってくるとはさすがだ、シェフよ。
もしここでプリンを出してきたならば、プリンの甘ったるさが口の中に残った様々な料理の味を無理矢理上塗りしてしまう。これでは後味がひじょうに悪い。記憶に残るのがプリンの味しかなくなってしまいかねない。
しかしオレンジならば、さっぱりとフレッシュな風味で、様々な味でごった返している口の中を無理に上塗りすることなく自然と引き締めてくれるのだ。
最初から最後までお見事だ。すみません、どなたかシェフを呼んできてくれませんか。こんな素晴らしいランチをいただけて、人間ドックを頑張った甲斐がありました、と感謝の気持ちを伝えたい。
ああ……美味しかった。しばらく放心状態で外の景色を眺めていた。気がつけば、レストランにいるのは私ひとりになっていた。
「ごちそうさまでした」
空っぽになった皿たちに深々と頭を下げた。傷ついた私の体を癒やし、苦手だった食材を克服させてくれた至福のランチへの敬意を表して。
おわり。
孤ドック後のランチ 空草 うつを @u-hachi-e2
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます