針を握る手
南雲 皋
ひらり、飛んで
「あれ、ケンジ購買行くの? いつも弁当じゃん」
四限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響く中、財布を持って立ち上がった俺に後ろの席の
「おふくろと喧嘩した」
「ウケる」
普段は足を運ばない購買部の盛況ぶりに一瞬構えるも、そんなことをしていては腹の膨れる物から売り切れていくと歩を進めた。
もみくちゃにされながら何とか惣菜パンを数個ゲットして、自販機で牛乳を買いながら教室へと戻る。
「なんで喧嘩したん?」
「俺のもん勝手に捨てられた」
「げ、最悪」
「だろ?」
「なに捨てられたん? ゲーム機とか?」
「いや……別に高いもんじゃねーから買いなおしゃいいんだけどさ」
「ふーん」
焼きそばパンを
男だから、男なのに、そんなの時代錯誤だって言うやつは多い。けど、実際目の当たりにすると大抵の場合はみんな同じ反応をする。顔を
母にはかなり前にバレて散々なことを言われていて、だから見つからないように箱にまとめて隠していたのに。
昨日家に帰ると、机の上に空の箱が置いてあった。母に
当然のように朝ご飯も弁当もなく、聞こえるように舌打ちをして家を出たのだった。
放課後。いつもなら家に帰って作業をしていたが、もう俺の部屋には何もない。糸も、針も、色とりどりの端切れも。
だからといって友人たちとバカやる気分でもなく、俺は普段通らない道を目的もなく歩いていた。
「ぐす……っ」
不意に、啜り泣くような声が聞こえた気がして立ち止まる。住宅街の真ん中、犬の散歩をしているおじさんが、急に止まった俺を
風に乗って聞こえてくる声は聞き間違いではなさそうで、幼い子供のように聞こえるそれに耳をすまして方向を探る。
少し歩くと、小さな公園の植え込みの影から声がしていると分かった。ビビらせてはいけないとなるべく慎重に近付き、そっと覗き込む。
そこには、ボロボロの布切れがあった。
「なんだ……?」
至る所が破れ、泥にまみれた長い布が、ぐすんぐすんと泣きながら震えている。
見間違いかと目を
「ひっ……!」
俺に気付いた布がひときわ大きく動き、涙に濡れたつぶらな瞳が俺を見た。小さな手には針が握られていて、そこから伸びる白い糸が不恰好に布同士を
布はぶるぶると震えたまま俺を見上げていた。見開かれた瞳からまた大粒の涙が溢れ、後ずさるように身じろぎする。
そして少年のように高く細い声が、布から聞こえた。
「あ、ああ、……ご、ごめんなさい、ごめんなさい」
「いや、えっと……え?」
これは、なんだ?
布が、動いて、泣いて、しゃべっている。
混乱する俺の脳内に浮かんだのは、アニメで見たことのあるキャラクターのことだった。
「一反木綿……?」
布は未だに涙を流して震えたままだったが、俺のその言葉に小さく一度頷いた。
「うわ、すげぇ、本当にいるんだ……」
「ううっ……ううう……」
「あ! あの、俺、大丈夫、捕まえたりとかいじめたりとかしないから! 怖いよな、離れる!」
人通りの少ない公園でよかった。完全に不審者の様相を
布なのに、涙も鼻水も出るんだな……。
少し冷静になってきた俺は、一反木綿の不恰好な縫い目が気になってきてしまった。何かがあってボロボロになってしまい、自分で手当てしているということなんだろうが、それにしても縫い目が汚い。あれではまたすぐにほつれてきてしまうだろう。
「あのさ……その……破れてるのって、君にとったら傷みたいなもん、だよな?」
また、一反木綿が一度頷く。
「俺……
「え……?」
二つの目しか見当たらないにも関わらず、一反木綿が怪訝そうな表情をしているのが分かる。いきなり見知らぬ男からそんなことを言われても、信用できなくて当然だろう。
俺は着ていたシャツの裾をズボンから引っ張り出して一反木綿に見せた。
「ここ、破れたの自分で直したんだ。縫い目、
「ボ、ボクのこと、きもちわるくないの……?」
「……正直、布にしか見えないから意外と平気だ」
それは本心だった。確かに動いたりしゃべったりは想定外だが、布は布。しかも縫い甲斐のある布である。パッチワークを捨てられた俺にとっては宝物みたいなものだった。
一反木綿は、しばらく悩むように黙り込んだ後、「お願いします……」と針を差し出した。
俺は慎重に近付いて針を受け取り、破れた部分を確かめる。
「結構ひどいな……汚れもすごいけど、洗わなくて平気か?」
「やぶれたところが直れば、飛んで、泉に行けるの。泉にはいったら、きれいになるから」
「すげーな。とりあえず、お前が縫ったの一回ほどいていいか?」
「うん……へただから……」
「練習すりゃ上手くなるよ。ゆっくりめに縫うから、俺の縫い方よく見とけ」
カバンに紛れていて唯一捨てられなかった糸切り
一反木綿は俺の手元をじっと見つめたまま黙り込んでいた。十メートル近い身体に大量にある破れを縫い合わせるのはかなりの作業だったが、一回説明した後は無心になって集中した。
それでも、一つだけ。ちょうど中央あたりに開いた大きな穴だけは
陽も暮れてしまい、公園にある一本の電灯だけがうっすらと一反木綿を照らしている。
「この穴、どうすっか……木綿なら当て布でいけるのか?」
「……たぶん」
「明日生地屋で買ってくるから、ここにいろ」
「う、うん……」
立ち上がった俺のズボンの裾を、一反木綿が
「俺の母さんさ、俺が縫い物するのすげー嫌ってるっていうか……ありえないらしくてさ。裁縫道具も、布も、全部捨てられちゃったんだよ、勝手に。だから、お前も連れてったら何されるか分かんないから……ごめんな」
「あ……ううん。ボクこそ……ごめんなさい」
長い布地をくるくると巻いてやり、なるべく小さくして植え込みの影に隠す。もう怯えの消えた瞳が、俺を見て数度まばたきをした。
「なるべく早く来るから、静かにしてるんだぞ」
「うん」
結局家に着いたのはかなり遅い時間だったが、相変わらず母は俺を見ようともしなかった。夕ご飯も用意されておらず、途中のコンビニで買ったおにぎりを食べて眠った。
次の日も購買に向かう俺を、増永が笑う。早く仲直りしろよ、なんて言われるけど、俺はもう一生口を聞かなくてもいいとすら思っていた。
帰りのホームルームが終わり、学校を飛び出す。今までは、誰にも見つからないように数駅離れた場所の手芸店に行っていた。それも、もういい。誰に見られたって構うものか。
昨日散々触れていた一反木綿の触り心地に一番近い木綿を買い、店を出る。向かいのゲーセンのガラス越しに、増永と目が合った。ひらひらと手を振り、口の動きだけで「またな」と告げて一反木綿の元へと急いだ。
「大丈夫か?」
「けんじ!」
一反木綿は、昨日と同じ状態のままそこにいた。俺は安心し、布地を広げていく。大きく開いた穴の裏側に買ってきた木綿をあてがい、するすると縫っていった。最後の玉結びを終えて糸を切ると、一反木綿の身体がぶるりと大きく震えた。
「あ、飛べるようになった」
「ホントか!」
「うん! ほら!」
ひらひらと自由自在に飛び回る一反木綿は、まだ泥だらけではあるものの、陽の光に透けて綺麗だった。自転車に乗った女子高生が公園の横を通り過ぎていったが、どうやら彼女には一反木綿は見えていないらしい。
「なんだよ、人には見えないのか」
「直ったから、見えなくなった。けんじは特別。ボクと繋がりができたから見えるまま」
「へぇ。それじゃあ、もう破れないよう気を付けろよ?」
「うん、気を付ける。ぬうの、練習するね」
「次は自分で綺麗に直せるといいな」
「けんじ、ありがとう!」
一反木綿が遠くの空に飛び去っていくのを見送って、俺はまた手芸店に戻った。針と糸、気に入った端切れを買って、家に帰る。
台所に立つ母の横まで行き、買ってきた物を広げてみせた。母の視線は変わらずに鍋に注がれていたけど、気にせずに声を上げる。
「俺は、裁縫が好きだ。何を言われても、何をされても、それは絶対変わらないから。高校出たら、この家も出るよ。裁縫してる俺、見たくないだろ」
自分の部屋に向かう俺の背中に、母の泣く声が聞こえてきた。でも、戻ろうとも、発言を撤回しようとも思わなかった。きっと母とは、距離をおいた方がいいのだ。
明日、増永に俺の趣味を話そう。どんな顔をされようと、俺はもう、大丈夫だ。
[了]
針を握る手 南雲 皋 @nagumo-satsuki
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