LesPréludes ~ニジヰロチェリスト~

すきま讚魚

第1話

 チェリストのソロは、もともと村一番の音楽少年でした。管楽器も弦楽器も、ピアノだってまるで手足のように操り、息をするかのように彼の意のままに美しく奏でるのです。

 なんなら、ソロの口数よりもチェロの音色の方がよく聴こえるんじゃないか——そう皆が噂をするほどに、ソロはいつもチェロの練習にうちこんでおりました。

 当然、誰もがソロは街の楽団や音楽大学に行って、ゆくゆくは立派な演奏者になるのだと疑いませんでした。ソロ自身は何も多くを望まず、村の農家を手伝いながら過ごしてゆくのだと思っておりましたが、ある日教師の書いた推薦状から、街の音楽学校への進学が決まったのです。

 ソロはその人生の全てを、音楽と共に歩みました。国の楽団に所属する、優秀なチェリストのひとりとなりました。国が戦争をはじめた時も、彼は兵隊を鼓舞するための重要な奏者のひとりに選ばれたこともあります。

 ソロはどんな哀しみも、喜びも、慈しみも。その奏でるチェロの音色で一生懸命表現しました。それを多くに人々は絶賛し、涙をしました。


 ソロは幸せでした。村では天才ともて囃されましたが、国へ出ると素晴らしい音楽家は山のようにおります。独奏を任されたことはありません。決して誉れの多いものではなかったかもしれませんが、なんの不自由もなく満足して、その一生を終えました。多くは望まず、自分のできる範囲のことを、彼は懸命に奏でて生きていったのです。

 ただひとつ、戦火の中慰問で訪れたとある街の光景だけは。ずっとずっとソロの心の中にほんの少しの靄のように、小さくくすぶって残り続けておりました。





 ソロはまだ若くして死んだはずでした。

 自分でも死んだものだと思っていたのです。しかし目を覚ますとどうでしょう、彼はどこかのホールの楽屋のような場所に佇んでおりました。


「やあ、きみが新入りかね?」


 見覚えのない、シルクハットと燕尾服。ぴかぴかに輝く赤いタイが印象的な老紳士がそこには立っておりました。

 そして、はたと気づけば自分の側には相棒であるチェロが、いつものように黒いケェスに入ってそこに在ったのです。「どうにもそうらしい」とソロは直感的に思いましたが、いったいぜんたい目の前の老紳士にもこのホールにもまるで見覚えがありません。


「ここはどこでしょう? どこかの楽屋のようですが」

「おやおや、なにか心遺りでも? しかしきみは新入りのチェリストで間違いはないかと思うがなぁ。そうやって楽器を手に持っているじゃあないか」

「確かにチェロを持ってはおりますが……」

「充分十分、それではニジヰロ楽団へようこそ」


 ソロは云われるがままに、その日から『楽団』でチェロを弾き始めました。夜の演奏会は流れ星が集まるほどに大好評で、明かりを灯さずとも辺り一面が光り輝いて視えるほどの眩さでした。

 どうやらこのニジヰロ楽団は流星群や星雲の流れに沿って、天馬の引く列車で宙の中を旅しては年がら年中演奏会を開いているようでした。チェロを弾くことが何よりも大好きなソロは、昼間は練習、夜は演奏会と丸一日をチェロと共に過ごすようになりました。

 奏者は誰もが素晴らしい腕をもった者ばかりで、特に指揮者の腕前はソロが今までに出逢ったことのないようなものです。喝采と、拍手、そしてスポットライトの下で、ソロは連日連夜ずっとチェロを弾いておりました。


「ソロ、きみはどうしてこれまで無名のままだったのか、てんでわからないくらいに素晴らしいよ」


 楽団の誰もがソロの勤勉な性格や腕前に目をみはり、いつしかソロは独奏を任せてもらえるようにすらなっていったのです。しかしそれに驕りたかぶるようなこともなく、ソロは無心で日々チェロを弾いては過ごしておりました。





 それはいつもの流星群や星雲、星団ではなく、他の銀河へと移動している途中のみちでのことでした。

 ソロがここへやってきてから、果たしてどれくらい経っていたのでしょうか。楽団長が新しいチェリストをひとり連れてきたのです。そういえば楽団の顔ぶれも、時の流れと共に少しばかり変わっているようだなとソロはぼんやりと思いました。

 新しくやってきたチェリストは、少し顔色の悪い初老の男のようです。挨拶をしたソロに、彼は驚愕したような表情で「どうしてお前がここにいるんだ」とぼそりとつぶやきます。どうやら自分は彼にとっては歓迎できない人物なのだろうかと、ソロはまたぼんやりと思うのでした。


 その時、楽団の列車ががたんと音を立てて止まりました。


「どうも天馬がクレナヰサアカスの紅蓮に目を廻してしまったらしい」

「あゝそうか。ほんのごくたまにしかすれ違わないけれど、あそこは到底熱いからなあ」

「何十年ぶりだろうか、むしろ滅多にないことなのにどうしたのだろう」

「なんにせよ。出発は明日か明後日か、幸いなことに公演のない移動日の出来事でよかったよかった」

「サアカスが通り過ぎるまではしばらくここらで待つとしよう」


 皆がそう口々に云います。聞けばほのおの燃え盛ったようなサアカス団のことだそうです。この宇宙でいちばん深くて激しい焔をその身の内に宿したものだけが所属する、過激なサアカスなのでした。

 楽団員はそれぞれが列車の中で休んだり、お茶の時間をして彼らが通り過ぎるのを待とうとしておりました。


「あの、遠くに視える青白い光はなんでしょうか?」

「あら、ソロはあの光が気になるのかい。あれは銀河の端の川岸さ」

「川岸?」

「そう。天の川にも流星群にもなれなかった、星の屑が集まって水素やらガスで透明な川をつくっているんだ。あんまり面白いところじゃあないよ」

「そうさ、ごらんよ。あんな小さな弱々しい光じゃすぐに消えてしまうんだ」

「ソロはあの川岸が気になるのかい? きみはおとなしいもんなぁ、けれどあそこはいっとう静かでつまらない場所かもしれないねぇ」


 楽団の皆は口々にそう云いました。

 けれどソロにとっては、細やかな波のように揺れる遠くの小さな煌めきはなんだか魅力的に視えました。彼はひとり皆の誘いを軽くことわってチェロを持って外へと出ていったのです。





「やあ、こんにちは」


 その川岸には先客がおりました。深く暗い褪せた緑色の大きな山形帽を目深に被り、同じ色の外套を着た背の高い男です。ソロは緩やかに通るその男の声に、ぺこりとお辞儀をして返します。


「どうもこんにちは」

「なんとも珍しいことだね、楽団員さんかい?」

「そうです。あっ、チェロでお気づきになりましたか?」

「いやいや、その胸のバッジさ。楽団のものだろう? それに……キミの纏っている心のともしびがね、この場所にはあまり辿り着かないような輝きのものだから、すぐにわかったよ」

「灯?」

「そう。この川岸にはね、灯がいまにも消えてしまいそうな子がたくさんやってくるのだよ。光をもっている者には、この河原は少々暗すぎるんだ」


 そんなこともないけれど——そうソロは思いましたが、男の周りをゆらゆらふよふよと漂う不思議な光にふと目を奪われました。


「ああ、この子たちはね密蜂と情蜂と云うんだ。僕の仕事仲間さ」


 ふわりと漂う、けれど蛍の光よりも線香花火のようにも視えるその光を、まるで慈しむように撫でながら男はそう云いました。

 男は自分のことを『蜂飼い』と名乗りました。この川岸でずっと蜂の世話をしているのだそうです。


「彼らは様々なニンゲンたちの感情を拾ってきてくれる、そうすると川岸の巣箱に蜜が集まるのさ。そうしていろんな感情の蜜から飴をつくる……、哀しい気持ち、愉しい気持ち、それはもう色とりどりの飴をね。それが僕の仕事」


 ソロは静かな中で響く、蜂飼いのはなしをもっと聞いてみたいと思いました。彼の話す、ずっと宙を眺めて過ごす一日のことや小石や川底に転がる星屑たちの話は、ソロにとってはとても新鮮だったのです。

 しばらくすると、そこにキィキィと音を立てて大きな海ガメのような生き物が引く、古ぼけた馬車のようなものがやってきました。


「あれは一体なんでしょう?」

「群青フリヰクスさ」

「群青フリヰクス……?」

「そう。この宙の中に放たれ、彷徨う魂のひとつのカタチだよ」


 ゆうらりと海ガメがそのヒレを動かすのをやめ、止まります。しばらくして、その古ぼけた馬車の戸が開くと、わっと青白く輝く小さな影がたくさん飛び出してきました。


「はちかいさん、ごきげんよう」「はちかい、こんにちは」

 小さな影たちは、みなまだ幼い子供のようでした。

 魚のようであったり、両生類のようでもあって、翼が生えている子や尻尾のある子もいます。


「やあ皆こんにちは、元気にしてたかい?」


 蜂飼いと呼ばれた男は、そう微笑むと小さな光たちに何かをひとつひとつ手渡してゆきました。びいどろ玉のようにも視える、綺麗な色をした玉です。

 その綺麗な球体を、小さな光たちはすぐに口へとほうりこみます。そのほっぺがころころと嬉しそうに動くのを視て、なるほど飴玉か、とソロは思いました。


 小さな光はふと、視たことのないソロが気になったのでしょう。少しずつ彼の周りに集まっては「それはなぁに?」と彼の持つチェロを指しました。


「これはチェロだよ」

「チェロ? なぁにそれ」

「弦楽器と云ってね、こうやって弾くと音が鳴るんだ」

「食べられる?」

「い、いや、楽器は食べられないよ」


 ソロの返事に、小さな光たちは「なぁんだ」と少しばかりがっかりしたようでした。


「じゃあそれは遠くへ飛んでいけるもの?」

「温かくなるの?」

「寒くないといいなぁ」

「真っ暗にもならない?」


 小さな光たちはまたソロにそう尋ねましたが、ソロはどれも違うなぁと首を横に振ります。するとまた光たちは少し残念そうにもじもじとしておりました。


「なぁソロ。楽団員のきみに頼むのはどうなのだろうとも思うのだけど——よければチェロを弾いてみてはくれないかい? この子たちは音楽というものも、何にも知らずに生まれもできずにこちらへやってきてしまったのだよ」


 それならば、とソロは快く蜂飼いの申し出を受け入れました。

 エンドピンをすっと伸ばし、川岸の小石たちの隙間に置きます。弓を取り出してさあ弾くぞという時には、小さな光だけでなく他の大きな青白い光たちも遠巻きにこちらを眺めている様子がうかがえました。

 ソロは昔からよく練習していたバッハの無伴奏チェロ組曲を奏でます。皆のこちらをうかがう視線を眺めながら、彼はふと思い出したのです。

 それは、生前に慰問で訪れた戦火で焼かれたとある街の光景でした。自分達の演奏は、確かにあの時の傷ついた誰かの心を少しは癒やしはしたのでしょう。けれど彼らに救いを与えられなかった——本当に彼らを助けるものを自分は届けられなかったのかもしれない。

 それが——ソロの『後悔』だったのです。あの時の希望ひとつ見出せない空虚のような眼光が——まさに今目の前にいる彼らのそれととても酷似していたのでした。


 あゝどうしよう。どうしたらいいのだろう。

 ぼくの音楽は心満たされた人にしか、音楽を幸せだと知っている・・・・・人にしか、届かないものだったのだろうか。

 だからこの子たちはがっかりとしたんだ。欲しがっているものではなかったからだ。


 初めてソロは、もうどうしていいかわからずに息を乱しながら汗だくになって、それでも譜面は崩さないようにしなければと一生懸命になってチェロを弾き続けました。まるで、初めてチェロを弾いたその時よりもさらに必死で、何かを掴もうと弾き続けたのです。


 小川のさざなみが、虹色にきらりと光ったり、紫や緑にほのかに染まりながら笑います。いつの間にか川底の星屑たちもうふふと笑いながらソロの奏でる音に耳をそばだてていたのです。

 どれくらい時間が経ったのでしょう。最後の音を弾き終わり、ぐったりと弓を下げたソロの周りで、小さな光がわっと咲いたように笑ったのです。遠くから恐る恐る眺めていた青の光たちも、その傷だらけの手で小さく拍手を送っておりました。


 あゝ、とソロは真珠のように大きな涙の粒を零して一礼をしました。何かが彼の中で払拭されたような気がしたのです。決して洗練された見栄えではなかったでしょう、乱れに乱れた独奏となったことでしょう。しかしその音が、初めて届けたかった人たちのところに届いたような不思議な達成感に包まれていたのです。


 どぉーん、ぶぉおおおん、と不思議な音が遥か遠くより響いてきました。


「あゝ『ヨアケノヒグレ』だ」「『ヨアケノヒグレ』がやってくるよう」


 皆々がそう口を開きます。

 ソロは初めて聴くその不思議な音に、遥か彼方を見つめました。


「ヨアケノヒグレ……?」

「そうさ。それは始まりで終わり」


 はたと隣を視ると、蜂飼いと呼ばれた背の高い男がそこにおりました。「素晴らしい演奏だったよ、それはきみが一番よく知っているだろう?」そう云いながら、蜂飼いは首を少しばかり傾げたままのソロの心の声に答えるように言葉を紡ぎます。


「ヨアケノヒグレ。実は毎日起こるとるに足らないものだとされているもの。始まりで終わり。アポカリプティックサウンドだとか、終末のラッパでもあるし、ヘカトンケイルのめいめいの挨拶だともね。ニンゲンたちはそうしてほうぼうに好きなように呼んでいるらしいけれど——つまるところはただの音。それを一日の始まりとも、終わりとも、何かの節目とも捉えていい……それは自由なんだ」


 川底の星屑たちがわっと煌めき、小さな波を揺らした風に蜂たちの羽音も揺らされます。微笑む蜂飼いのそばで、静かに蜂たちが光り、川と子らも仄かな輝きをはなっております。

 ソロにはこの光景が、なんだか最も美しいもののように感じました。


「ニンゲンたちは節目を好むらしい。だから何事にもきっかりと線や区切りをつけたくなるんだ」


 ふと隣を視れば、先ほどの青白い小さな光がひとつ、ソロのコートの裾を引っ張っております。その水晶細工のような身体に笑顔が少しばかり灯っているのを感じて、ソロはなんだか泣きたいような不思議な気持ちになるのでした。


「もしきみが望むなら、きっとソロ、きみはもう生まれ変わりの夜風に乗って、世界の向こうへ行けるはず」

「世界の向こう?」

「そうとも、それは——」


 そのとき。


 パァアン、とひとつ。人工的な拳銃の音が、静寂を裂くように響きました。


 トサッと肩に何かの重みが掛かるのを感じて、ソロははっと硬直が解けたかのようにそれを見下ろします。彼を庇うようにして、蜂飼いが銃弾に倒れた重みだったのです。


「蜂飼いさん! 蜂飼いさん!」


 ソロは思わずチェロを放り出して、倒れゆきそうな蜂飼いの身体を支えました。じわりと伝わるこぼれ落ちるような温かさが、彼から命を奪ってゆくような気がして、必死にソロは呼びかけます。

 突然の出来事に、川は水銀のような色に染まり、青白い光たちはぞっとしたように輝きを失って一箇所に集まるようにと誰かが呼ぶ声が聞こえてきます。


「どうしてっ」

「それはこっちの台詞だ、どうしてまたお前に会うんだ」


 蜂飼いの肩越しに眺めた声の主は、つい今朝方楽団にやってきたばかりのあの男でした。


「いつもいつも。邪魔ばかりする、田舎者が、少し巧く弾けるからといって」


 ぜぇぜぇと息を切らす男を呆然と見つめながら、ソロはふと思い出しました。覚えている姿よりは随分と歳をとっておりますが、その昔に同じ国の楽団で独奏を任されていた男にとてもよく似ていたのです。


「貴方は、まさか。自分が一番の独奏者になりたいからと……」

「そうだ、いつもいつも邪魔者は排除してきた。金や力で。なのにっ……!」


 どうしてここにきてもまだお前がいるんだ。拳銃がカチリと音をたてて静まると、何か苛立ったように男はこちらへ歩いてきてソロがとり落としたチェロを持ち上げ、ぼきりと叩きつけて壊してしまいました。

 なおも男の怒鳴る声に、ソロは目の前が真っ暗になってしまったように、とてつもなく深く悲しい気持ちに襲われました。すると、そっと「大丈夫だよ、ソロ」と耳元で蜂飼いの声がしました。


「蜂飼いさん……」


 動かないで、と云おうとするソロをそっと制して、蜂飼いはよろりと拳銃を持ったままの男を振り返りました。


「憎悪、嫉妬の弾丸は一発きり。さて……それを使ってしまったきみには、ふさわしいお迎えがくるだろう」


 蜂飼いのことばが終わるのを待つ間もなくでしょうか、熱風と物凄い轟音が辺りを埋め尽くしました。



 さあ! さあ! おいでませよクレナヰサアカス!

 激情と灼熱のクレナヰサアカス!

 寄ってらっしゃいみてらっしゃい!

 あまりの輝きに目が眩んでしまうあなたには、遮光グラスをお渡ししよう!

 今宵の演目も、永久の無限に燃え続ける熱いものばかりでございましょう!


 さあ! さあ! さあ!!

 血の紅や灼熱に囚われてしまったもの!

 激情に焦がれてしまったもの!

 光の真下に取り憑かれてしまったものよ!

 ようこそ ようこそ クレナヰサアカス!

 汝、隣人を燃え滾らせんとするものよ!

 過激な炎に狂ったその才能を、我がサアカスにて存分に生かそうぞ!



 火焔を噴き出すドラゴンに引かれた、まるで要塞のようなテント。そう、クレナヰサアカスは男の嫉妬の炎に呼ばれてやってきていたのです。


「おお! 私を正しく輝かせてくれるステージがあるというのか!」


 男はもう熱に浮かされたようになってしまって、ソロたちのことを見向きもせずにサアカスのテントへと吸い寄せられてゆきます。

 ニヤリと笑うその笑みは、サアカスの団長に恭しく招かれて、やがてテントの中へと飲み込まれてゆきました。川岸ではその焔に当てられたのでしょうか、ごうごうと音を立てて何かが燃えはじめておりました。





「ソロ、そんなに泣かないでおくれ。きみが無事で本当によかった」

「いいえ、でも、蜂飼いさん……貴方が」

「いいんだ、ほら、始まりの終わり。これもひとつのとるに足らないことなのさ」


 川岸に横たわる蜂飼いの姿は、まるで霧になってしまうかのように薄ぼんやりと、どんどん霞んでゆきました。川底の星屑たちが沈むように声をしのばせ、青白い光たちも集まっては悲しみに暮れております。


「ぼくは、なにもできなかった。また、救えなかった」

「そんなことはないさ。それもまたひとつの目先のことで——きみはこの先きっとたくさんの魂を救えるかもしれない。何より、僕の心を救ってくれた」

「そんなことない。例えそうだとしても、そのチェロさえ——失ってしまったと云うのに」


 川底からぽろん、と老いたピアノの鍵盤の音が微かに響きました。

 星屑たちが、彼のために一生けん命になって、その鍵盤に触れようとしていたのです。


「僕はその昔、楽団にいた。僕は逃げたんだ、一番のピアニストになれない悔しさと、走り抜く勇気がなかった、そのままのうのうと暮らしていたんだよ。きみは、立ち向かい走り抜いたんだ……。人生はスポットライトにあたることが全てではない……それを教えてくれたのはソロ、きみなんだよ」


 彼の言葉をひとつも聴きもらさないようにと、ソロはそっと小さくなる彼の声に耳を寄せました。


「きみの価値はきみ自身が決めていいんだ。誰だってそうさ。きみの悲しみは僕がもってゆこう。大丈夫、きみなら世界の向こうへとゆける……」


 にこりと笑う蜂飼いはもうほとんどその形が視えなくなっておりました。山形帽がふわりと霧に煽られて落ち、黒曜石のような色の髪がはらりと額に落ちました。その頬に触れようとしたソロの手に、そっと蜂飼いが何かを託すように乗せたのです。


「これは蜂たちの集めた——の蜜の飴。これからのきみに、さいわいが訪れるようにと……やあみんな、少しのお別れだよ、大丈夫また会えるさ。うん、ちょっとばかり寂しいけれども」


 あゝ、蜂たちや。きみたちは自由にもう羽ばたいてもいいんだよ。そんなに羽を落とさなくてもいいんだ。ありがとう、ありがとう。


 消えゆく蜂飼いは、青白い光や蜂にそう笑顔で告げると、力尽きたようにその目をゆっくりと閉じました。


「ソロ、僕のほんとうの名前はね、——」


 そうして、宇宙の空気の一部に戻ってゆくように、蜂飼いの姿は忽然と消えてしまったのです。

 誰かが「寒くないねぇ」とぽつりとつぶやきます。

 役目を終えたように、それともまるで身代わりになってくれたかのように、折れたチェロが炎の中で燃えておりました。

「蜂飼いもきっと寒くないよ」小さな青白い光がそう云って、炎のそばに小さな手をかざしております。その炎を眺めながら「そうだとも、きっとね」とソロは静かに応えるのでした。





 楽団は少しばかり慌ただしくなっておりました。

 ようやく天馬が調子を戻したぞとなった時に、二名の楽団員の行方がしれなくなっていたのです。

 二名を探しにゆこうと大慌てするもの、奏者はたくさんいるから戻ってこなくてもそんなに焦らずともよいと云うものも、それぞれでした。

 やがて戻らぬ二人を残したまま、楽団は次の公演に向け銀河を旅するために出発してゆきます。



 流星群や天の川になれなかった星屑たち。

 ひと目につかない彼らが流れ着く、最果ての川岸がこの宙のどこかにはありました。

 けれども、眩い星になれずとも、星屑たちは川の底でくすくすおしゃべりをするだけで満足でした。最近では新たな友人が川岸に増えたので、星屑たちはますます嬉しいのです。


 そこには、ありとあらゆる世界から、輝きを失い、求め、傷ついた魂がやってきます。悲しみに暮れる彼らに、そっと話しかけるものがおります。

 それは亜麻色の髪の物静かな男でした。深緑の山形帽を目深にかぶり、川岸で蜂や星屑たちや、流れ着いた誰かの話し相手をしているのだそうです。

 彼は物知りで、これまでに視たたくさんの世界のはなしを聞かせてくれます。


 それは煌びやかな場所でも、大歓声と拍手に包まれる場所でもございません。

 けれども決してつまらない場所ではない、むしろ大切なものがこぼれ落ちてくる場所なのだと彼は云います。


「こんばんは、ぼくは蜂飼い」


 今宵もこの宙の下、耳をそばだててみてごらんなさいな。

 星になれなかった星屑たちの囁き声や、小さな小さな蜂の羽音が。

 誰かの哀しみを癒すようにそっと聴こえてくるかもしれません。


 それは誰かの見失ってしまった——ほんとうの倖の音なのかもしれませんね。

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LesPréludes ~ニジヰロチェリスト~ すきま讚魚 @Schwalbe343

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