世界のどこかにいるあなたへ
ざざ、ざざ。
寄せては返す波の音。
裸足で歩くにはすこし暑い砂浜。そこに誰かが置き忘れたような、コンクリートの日よけ。
私はその下に座って海を見ている。
良く冷えたビールの瓶を片手に。
膝の上に置いたタブレットの画面の中ではヘイとイェンがいつものように笑っている。
『キカ、無事にイギリスに到着できてよかったね!』
『俺たちのリハビリもいい感じだよ! さっさと現場に復帰しないと体がなまるからさ、頑張らないとね』
今朝、私のタブレットに届いた、ヘッダーの偽装された動画付きのメール。
きっと、彼らからだと思った。だから、私が夢見たことの一つ、海辺でビールを飲みながら開くことにした。
――結局、私は彼らには抗えなかった。かといって一人で偽造パスポートで帰国する勇気もなく……。
私、こんなに弱虫だっただろうか。
ノゾミに銃を突きつけた日が、もう遠い日のことに思える。
ダミアヌス、ヘイ、イェン、ワンさん。あなたたちと、もっと――。
『で、重大発表です!』
『ここからはワンくんとダミアヌスくんから!』
ヘイとイェンの姿が画面から消え、入れ替わりにワンさんとダミアヌスが映る。
その姿に、悔しさをこらえきれなくなった私はビールをごくごくあおる。
馬鹿。
どうしてあのとき、私の気持ちをわかってくれなかったの?
いままで、メールの一つもくれなかったの?
『井原さん、あのときは申し訳ありませんでした。心から謝罪します』
嫌よ、ダミアヌス。いくら謝ったって許してあげない。
『わたしからも。気恥しくて言えませんでしたが……仲間として敬愛する女性を、あんな血なまぐさい場所の中にはもう置きたくなかったんです。私たちのいる場所は……いえ、そんなことより、あなたの指は銃を撃つためにあるんじゃない。料理を作るためにあります。同じ料理人として、わたしはそう思っています』
ワンさんも、そんな、なんでもわかってるような顔しないで。
私の指は私が使いたいように使うのに。
ビールの炭酸が口の中で撥ねる。それはいつもよりきつく感じた。
『でも、井原さんのおかげで俺たちはひとつの成果を残せました。世界中に配信する前に、まずはいちばん初めに井原さんに届けます』
『わたしたちの、大切な仲間へ』
画面が切り替わる。
わ、懐かしい。渋谷のスクランブル交差点。
それをどこかのビルの上から見下ろしている動画だ。
画面が交差点へとズームする。
大きな楽器入れみたいなものを背負っていた男2人が、交差点の真ん中にそれを置く。
当たり前だけど、周りを歩く人たちはそんなの誰も気にしない。
そこからごろりと人間の体が出てきても。
どうせ、テレビの撮影か何かだとでも思っているんだろう。
でも。
私にはわかった。あれはノゾミと金井の死体だ。
そしてその上に撒かれる大量のCD―ROM。カメラがパンした空からはひらひらと降り注ぐたくさんの写真がくっきりと写っている。
さすがにここで周りの人間もそこで何かが起きていることに気付いたようで、死体に近づいたり、CDーROMを手に取ったりしだした。
そのときにはもう、男たちの姿は消えていた。
『奴らが政治家たちと会っていた画像はすでにわたしたちの手元にありました。でもそれだけでは足りない。暁財団と奴らと戦争の信者たち、三点を結べません』
『でもあの日、キチガイ女が勝手にべらべら喋りましたからね。あの日の会話は全部、録音してたんです』
ダミアヌスの手には、黒いスティックレコーダーが握られていた。
『これですべての点が繋がります。あとは画像も動画も世界中に配信する予定です。俺たちを引き裂いたあの戦争を続けている狂人たちの行動を、この国での小さなスキャンダルひとつで片付けさせないために』
『もちろん、このことだけで全部が終わったわけではありません。でも、これもひとつの勝利だとわたしは思います』
『ありがとう……一緒に戦ってくれて。……ありがとう……キカ』
ダミアヌス。
二度目だ。彼に名前呼ばれるの。
私は足元の砂をめちゃくちゃに蹴り上げながらビールを飲む。
おいしい。おいしい。
なのに、苦い。
『なるべく早く遊びにいくからね!』
『この宛先なら心配ないからメール送ってね!』
『『待ってるよ!』』
『お、おい!』
ヘイとイェンにカメラの前を占領され、ダミアヌスが慌てた様子でそれを押しのける。
『まあ、こいつらの言うとおりです。落ち着いたら全員であなたに会いに行きますよ』
『わたしも英国支部を作る夢は諦めてはいませんから』
『世界のどこにいても、あなたは俺たちの仲間です』
どうしよう。この気持ちはなに?
悔しいのか、嬉しいのか、もう自分にもわからない――。
『それから、あなたをこのゲームに巻き込んだ人間も特定しました。小野塚カオリ、あなたの高校時代のクラスメートです』
カオリ。
その名前を聞いたとき、私は妙に腑に落ちた気がした。
突然消えたカオリ、狂って現れたカオリ、私に『鬼ごっこ』の始まりを告げた、カオリ。
いちばん近い友人だと思っていたけれど、近すぎて見えないことがあったんだろう。――きっと。
傷つけた覚えはない。それでも人は人の心に不意に触れてしまうことがある。しかも、とてつもなく大きな場所に。
それは、これまでの体験で、やっと気づいたことだ。
『彼女はすでに自殺しており、理由はわかりません。周辺調査によるとよく、「私は優しくはなれない」と言っていたそうですが……』
『ただ、彼女は高額の依頼料を払えず、自身が鬼に買われることで代金を捻出していました。おそらくそのせいでしょうが――家に戻ったときには発狂していたそうです。きっとあなたには訳が分からないことでしょう。でもわからないままの方がいい。わかればあの中垣ノゾミや……金井ヨシトのような人間になってしまいます』
ううん。ううん。
私はビールを飲みながら首を振り続ける。
大学時代の幸せそうなカオリの姿が鮮明に蘇った。
『幸せな人間しか人には優しくできないものなのよ』
たぶん、それが、いちばんの答えだ。
私は、掴み上げた砂を風にこぼしながらビールを飲み干す。
狂ったカオリが私の所に来たのは、せめてもの思いやりだったのか、それとも勝利宣言だったのか、今となってはわからないけれど……。
確かなのはただひとつ。
これからも、私は自分が自分であるだけで、誰かを踏みにじるかもしれない――。
『とにかく、なるべく早く遊びに行きます、気を落とさないで』
『今度はぜひ、あなたの料理を食べさせてくださいね。楽しみにしています』
『したらいっぱい遊ぼうね!』
『ねー!』
タブレット端末の画面の向こう、すこし心配そうな目で私を見ているダミアヌスとワンさん。
そして、相変わらず無邪気なヘイとイェン。
きっと大丈夫かな? とか思ってくれてるんだろうな。
あの人たちは自分のことを犯罪者だと繰り返すけれど、その優しさは変わらない。
でも。
でも、私は平気だから。
カオリが私を憎んでたとしてもそれがなんだというの? 人間の心なんて最後までわからない。
ならば、敵ならば、理由なんかどうでもいい。立ちふさがるのならば打ち倒すだけ。
そう。それだけ
ビデオメールが止まる。
動かなくなった画像の中の、一人ひとりに触れながら、私はビールの最後の一口を飲み干した。
相変わらず、海岸には静かな波の音が響いていた。
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