別れ
ナビに教えられた場所にあった病院は、個人病院と総合病院の中間のような大きさだった。
あらかじめ教えられていた通り、裏手の救急受付口にバンを横づけすると、そこにはすでに三台のストレッチャーが準備され、数人の白衣やナース服を着た人間が立っていた。
急いでバンから降りて後部座席のスライドドアを開けると、いちばん年かさに見えた白衣の男性が私に向かって話しかけてきた。
「『彼』からすべて聞いてます。もう安心してください」
「怪我のことも?」
「それも『彼』から聞いています。『彼』が応急処置をして大丈夫だと判断したのなら、命に別状はないはずです」
私と白衣の男が話している後ろで、てきぱきとヘイたちはストレッチャーに乗せられていく。
病院の中に運び入れられていくそれと一緒に行こうとしたとき、私は白衣の男に押し留められた。
「ここからはすべて我々が」
「どうして? ついていてあげたいんです」
「『彼』の指示です。あなたを中に入れてはいけないと。すぐに彼が来ます。ここで私と少し待っていてください」
「だから、どうして?!」
「それは……『彼』の指示だからです」
「『彼』、『彼』ってダミアヌスのことでしょう?! 私とダミアヌスは戦友よ! 今運ばれてくあの人たちともね!」
「……私たちにそういった事情はわかりません。ただ、ここは『彼』のテリトリーで、私たちはそれに従うだけなんです」
「ふざけないで! あなたは医者でしょう? ダミアヌスの言うことなんか……」
「私の日本名は飯野ですが、中国名はチュアンです。自由主義者で共産党政府から逃げてきた私の日本国籍の取得や、中国でしか通用しない医師免許を日本で取り直すことに尽力してくれたのが『彼』なんですよ。『彼』が犯罪者だということもなにも私には関係ないくらい、私にとって『彼』は偉大な存在です。申し訳ありません、お嬢さん、私にとって『彼』以上に重いものは患者の命しかありません」
ああ、またひとつ。
私にはどうしてもわからないものが増えた。
国と言う軛。それにとらわれた人。
そんなもの考えもしないで生きていけるこの国に産まれたことはきっと、隕石に当たるくらいの確率の幸運だったんだ。
「『彼』はもうこちらに到着しています。すぐに……ああ……『彼』が来ました」
救急受付口の扉がまた開き、見慣れた背の高いシルエットがそこから出てくる。
それに……横にいるのはワンさん……?
飯野医師はそれと入れ替わるように、無言で病院の中に入っていく。すれ違うとき、ダミアヌスに軽く会釈をして。
「ダミアヌスさん! どういうことなんですか?! なんで私はヘイとイェンたちについてあげちゃ駄目なんですか?! 最後まで一緒に戦うって……!」
「すみません……それは、わたしが」
ワンさんがすっと一歩前に出て、私の顔を見据える。
「ワンさん……?」
「ダミアヌスくんはきちんとあなたを朋友として認めています。話を聞いたわたしも。だからこそ、犯罪組織であるわたしたちの、その上私的な復讐にあなたを巻き込んではいけないと……」
ワンさんはいつものようにやさしい声で私に話しかける。はじめて会ったときと同じように。
「……意味がわからない。もうこれはあなたたちの私的な復讐なんかじゃないもの。この国のどこかに私を追い詰めようとした『鬼』がまだいるのよ! そいつを見つけるまで私の戦いは終わらない!」
「それは我々が見つけます。どのような制裁を科すかも井原さんのご希望をお聞きします。ただ……井原さん、あなたはもうこの国を出るべきです」
ワンさんの口から飛び出した、私には信じられない言葉に、私は黙ったままのダミアヌスに食って掛かる。
「それは私が足手まといだから?! ねえ、黙ってないで何か言ってよ、ダミアヌスさん!」
ダミアヌスが苦しげに眉根を寄せ、ゆるやかに首を横に振った。
「……違います……。逆に……井原さんが我々にとって大切な人物になってしまったから……ワンに諭されました。ここから先、終わりのない地獄に朋友を巻き込む気かと」
「地獄かどうかは私が決めます! 私たちは戦友なんだから!」
「だからこそ、なんですよ。きっと井原さんは俺たちにどこまでもついてきてくれるでしょう。そして、その先に終末があったとしても井原さんは後悔しないでしょう」
「なら……!」
抗弁を続けようとした私を手で制して、今度はワンさんが悲しそうな微笑みを浮かべた。
「でもわたしたちは後悔します。わかっていただけませんか? あなた1人を亡くせば倍以上の人間が後悔することを。なぜ、皆の大切な女性をこちら側に来させてしまったのかと……。わたしたちは井原さんが思ってくださっているようなまっすぐな正義ではありません。ダミアヌスくんも言ったはずです。畢竟、『龍』はチャイナマフィア、犯罪集団だと。今回はわたしたちの正義と井原さんの正義が幸運にもかみ合っただけなんです。普段なら、こんなことにはなりません」
「それが? 私はもう元には戻れない。あの女を撃ったときの感覚、まだ覚えてる……!」
「そんなことはありません」
ワンさんの手のひらが私の前髪をかきあげた。
そして、おかゆの材料を説明してくれたときと同じ、穏やかに光る眼で私の眼を見つめる。
「あなたの眼はまだ濁ってない。絶望にも、悪徳にも。――あなたはヘイとイェンのように眼を濁らせないまま人を殺せる人間でもありません。苦しむ人間です。ですから、どうか、元の世界に」
「じゃあ次の船の手配がつくまででいい。それまでヘイとイェンのそばにいさせて。お別れも言えないなんてこんなのってない!」
「申し訳ありません、船はもうすぐ出ます」
「え……」
そう、ワンさんに簡単に言われ、私は茫然とダミアヌスに視線を移す。
「だって、私一人のために船を遅らせることはできないって……」
「ええ。俺の方の船はもう出ました。ワンが言っているのは、ワンが独力で手配した船です」
「わたしは料理人ですから。材料を運ぶルートも持っています。ダミアヌスくんほどではありませんが……」
「井原さん、俺はあなたを今でも戦友だと思っています。でも……ワンの言うことの方が正しいと……気づいてしまいました」
「だって、だって、『鬼』の行方は?! 暁財団との戦いは?!」
「進捗状況はこまめに報告します。こちらが落ち着いたら、井原さんの新居にも遊びに行きますよ。ヘイやイェンも連れて」
「いや! いやよ! そんなのない! 戦うって決めたのに! 負けないって決めたのに!」
「あなたは負けてはいない。中垣ノゾミと金井ヨシトという財団処刑部の一番と二番を殺す手伝いをし、やつらの戦力を大きく削いだ。それに……あなたはこの鬼ごっこから逃げ切った。勝ちです」
「違う! 違う……!!」
「本当に……申し訳ない、井原さん。こんな手段を取りますが……あなたは俺たちにとって本物の戦友だということだけは信じていてください」
静かに体を動かしたダミアヌスが、それとは正反対の、怖いくらいの力で私を羽交い絞めにした。
そして、あのとき握手した大きな掌が私の鼻を塞ぐ。
息苦しくなって開けた口の中に、ワンさんがプラスチックのアンプルに入った液体を何本か垂らし、そのまま私の唇を抑えた。
「飲みこんで、井原さん。危険な薬ではありません。精神科で常用されているただの鎮静剤です。通常より量が多めですので、しばらく意識は失いますがそれだけです。なんの後遺症も出ません」
イヤイヤと私は首を振る。
でも、ダミアヌスも、ワンさんも、力を緩めてはくれなかった。
どうしようもない息苦しさの中、私の口は反射的に液体を呑みこむ。
喉が動くのが見えたのか、ダミアヌスの掌が私の鼻から離れた。
それでもワンさんの手は私の口から離れない。
……まぶたが……重い……手も足も……地面に吸い込まれてくみたい……。
いやだ……こんなの……だって……私は……ま……だ……。
私の意識は、電源を落とすようにそこでぷっつりと暗転した。
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