第八集 葬送の炎


 邯鄲かんたん城市――。


 その夜は、よく晴れて空気が澄んでいた。肌寒くはあったが、身を切るような寒さではない、秋の日の夜だった。

 宮城にある謁見の間には、慕容秀ぼようしゅうが座していた。相手が確実に彼を狙ってくる以上、万全の体制を整えたこの場こそが逆に安全であったわけだ。

 そのすぐ横には参軍の婁延ろうえんが控えている。必要とあらば、いつでも身代わりとして飛び出せる位置である。

 殷九叔いんきゅうしゅく道安どうあん僧朗そうろうの三人は、相手がどこから現れてもいいように三方に散っている。


 その場にいる者からは、前日に対峙した時に抱いていた恐怖はほとんど消えていた。強敵である以上緊張はあるが、胸中の大部分を占めているのは悲哀である。

 無論の事ながら、多くの命を奪った怪物である事に違いはない。しかし同時に、乱世によって人生を狂わされ、三百年もの間、死ぬ事も許されずに苦しみ続けた若い娘。

 滅びを与える事こそが、今の彼女にとって唯一の救いなのである。


 そうこうしている間に、正面の扉が開いた。まさに正面から堂々と現れたわけだ。

 その長い黒髪を風に揺らしながら、逆光となった月明かりが恐ろしい顔を隠している。正面に座った若き王に向かって踏み出す、そのゆっくりとした足取りは、どこか幽玄ですらあった。


 控えていた三人は、互いに頷きあうと、女の周囲を取り囲んだ。

 前夜までの苦戦は、相手を怨霊か、或いは殭屍キョンシーであると誤認していた事からくる物だった。だからこそ術の効果が出なかったのだ。

 だが相手が仙人の類だとなれば、相応の対策はあるものだ。生きた人間の法術合戦と同じである。


 荒縄を三人で投げ合い、女の周囲を駆け抜けるようにして物理的に縛り上げていく。縄には雄鶏の血を染み込ませており呪術的な効果も封じる事が出来る物だった。

 中心にいる赤い女は、自身が次第に縛り上げられていく間も、周囲を飛び交う縄に視線を移す程度で、全く暴れようとしていない。感情を失っているがゆえの無関心なのでろうが、その場にいる者には、まるで彼女自身がこの先に起こるであろう事を望んでいるかのように思えてならなかった。


「雷威雷動……」


 殷九叔が静かにそう唱えると、その手に構えた霊符が発火する。そしてその燃え盛る霊符を投げつけると、縛り上げられた女を炎が包んだ。


 女は動かない。

 勿論縛り上げられているゆえに動けず、術による逃避も封じられているのだが、燃え上がっても暴れようとすらしていないのだ。

 炎にその身を焦がされながら、その両の目はただ正面にいる慕容秀へと向けられている。

 前夜には、感情の見えない、昆虫や爬虫類のような視線と評されたその目が、一筋の涙を流したような気がした。

 その姿に、慕容秀も思わず涙を流す。


 どちらともなく、道安と僧朗が経を読み始めた。


「ナチャッシュル、ダートゥル、ヤーヴァン、ナマノー、ビッニャーナ ダートゥフ……」


 それは破邪の念ではなく、苦しみから解放され、安らかに成仏する事を願う物である。


「ナドゥッカ、サムダヤ、ニローダ、マールガー、ナッニャーナン、ナップラッティッヒ……」


 サンスクリット語で読まれる経の内容は、慕容秀には分からない。だがその意味する所は心で理解していた。若き王は立ち上がって膝をつくと、涙を流しながら自然に合掌していた。


「ガティー、ガティー、パーラーガティー、パーラサンガティー、ボーディッスヴァーハ」


 まるで読経が終わるのを待っていたかのように、炎の中で、邯鄲を恐怖に陥れた赤い女は崩れ去った。乱世に弄ばれた悲しき娘は、黒煙と共に、天へと昇って行ったのである。

 既に人の形すら留めぬ炭となった娘に歩み寄った道安は、やはり涙を流しながら真言を繰り返した。


ようやく彼岸へと至ったのですパーラサンガティーあなたの魂に悟りあれボーディッスヴァーハ……」






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邯鄲の匣 水城洋臣 @yankun1984

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