第七集 時を越えて

 ひとまず危機は抜けたが、遅くとも明晩には再びあの赤い女が姿を現すだろう。

 死傷者の確認と生存者の手当など、一通りの指示を出し終えた婁延ろうえんが戻ってくる頃には、慕容秀ぼようしゅう僧朗そうろうも起き上がれる程度には回復していた事で、殷九叔いんきゅうしゅく道安どうあんを含めた五人で対応策を話し合う事にした。


 まずあの赤い女は、邯鄲かんたんの宮城に向かっていたのではなく、正確に慕容秀を付け狙ったという事に疑いはない。

 殿下を狙った呪詛による暗殺かと婁延は意見を述べたが、当の慕容秀がそれに異を唱えた。

 慕容秀自身は、皇族とは言え所詮は諸侯王の一人であり、同格かそれ以上の兄弟親戚は大勢いる。また駐留軍の指揮を執っているとはいえ、留守居の代理指揮官に過ぎない。

 護衛の数を物ともしない相手である以上、狙うならば兄たち、すなわち総大将である慕容恪ぼようかく、或いは皇帝である慕容儁ぼようしゅんを狙って然るべきで、慕容秀を狙った理由が分からぬという所だ。


 そして僧朗が赤い女に触れた時、相手の記憶の一端を見たという。相手の意識と同調する一種の霊媒である。

 その記憶は、若い村娘の視点であり、兵士たちに暴行を受けたのち、髪を掴んで引きずられながら強引に祭壇へと乗せられて縛られる。そして呪術者のような初老の男に、呪詛の言葉を向けられながら生きたまま顔の皮膚を剥され、全身を切り刻まれ、まだ生きている内に狭いはこの中に押し込められるという物であった。


 思わず耳を塞ぎたくなるような凄惨な話であったが、そこに来て殷九叔が自分の得た情報と繋ぎ合わせて、事の真相を導き出した。


 その娘は、最初から呪詛の道具として生贄にされたのは間違いないという。僧朗の垣間見た記憶に登場した匣は、最初に被害があった村の傍で既に見つけており、恐らくは偶然それを発見した盗人が財宝か何かだと勘違いして開けた事で復活し、今回の事件が起こった。

 その匣には道術を応用した封印が施されており、箱の中に魂を閉じ込めるように設計されていたというのである。


「魂を逃がさぬという事は、あれは殭屍キョンシーではないのですか?」


 そんな道安の問いに、殷九叔は頷いた。

 人の肉体には、こんはくという物がある。魂は人の記憶、感情、理性などを司り、魄は人の肉体の維持、健康などを司る。

 人間はこの両方が揃って生存しており、死とはこの両方を失う事なのだ。だが稀に片方だけ失って片方が残留してしまう事がある。

 魂だけが残って魄を失えば、肉体は朽ちても生前の意識だけがそこに残る。これが幽霊だ。

 逆に魂が抜け去って転生や成仏をしても、魄が体に残れば、その肉体は朽ちる事がなく、記憶や理性のない怪物として歩き回ってしまう。これが殭屍だ。


「あれに理性は感じられなかった。まるで殭屍だった」

「でも幽霊であっても怨霊のようにひとつの感情に支配されて理性を失っている者もいますからね。そういう相手は説得が通じない」

「しかしあれには触れる事が出来た以上、実体があった……」


 皆が口々に疑問をぶつけ合う中、遮るように殷九叔は結論を言った。


「あれは幽霊でも殭屍でもないです。かと言って、もはや人でもない……。あれは恐らく、尸解仙しかいせんです」


 尸解仙とは、仙人の一種である。

 不老不死の仙人となる事を至上目標とする道教において、死してなお魂も魄も失う事なく蘇る「尸解しかい」という術は、道士として目指すべき境地のひとつである。

 だがそれを成し遂げた者は非常に少なく、伝説に残るのみだ。事実、殷九叔も成し遂げたという者にはまだ出会った事がない。


「あの娘を匣に閉じ込めた術者は、単なる呪物に利用する事しか考えていなかったのでしょう。狙った相手を呪い殺すためのね。それが奇跡的な確率で尸解仙へと転じてしまった。これは術者も、娘本人も、予期してはいなかったはずです」


 息を呑んで次の言葉を待つ一同に、殷九叔は話を続けた。

 匣の状態や文言などから、彼の推測では漢代の物。恐らくは前漢ぜんかん王朝が王莽おうもうによって簒奪され、各地で高祖こうそ劉邦りゅうほうの子孫たちが割拠した時期に作られた物。

 その乱世は、光武帝こうぶていによる統一を以って終わり、後漢ごかん王朝が開かれる事となったわけであるが、光武帝の覇業の始まりとなったのが河北かほく、ここ冀州きしゅうである。

 その頃に冀州を治めていたのが王昌おうしょう。またの名を王郎おうろうともいう。この邯鄲を本拠地としていた群雄である。

 彼は前漢皇族の末裔を自称したが、もとは占い師の出で法術にも精通しており、或いは彼自身でなくとも呪術師の知り合いなどいくらでもいる素性である。覇業の妨げとなる光武帝を呪殺しようとしても何ら不思議ではない。

 だが王昌は、わずかな期間で光武帝によって滅ぼされてしまった。それは歴史の語る所である。呪物の準備すら整う間もなく……。


 しかし残されてしまったのは匣の方である。先ごろに開けられるまで三百年、ずっと忘れ去られていたわけだ。

 そしてただ怨念の中核にされるだけだったはずの娘は、何の手違いか尸解仙に転じてしまった。しかしそこは封印が施された匣の中。

 全身を切り刻まれた痛み、狭く身動きが取れない闇の中。出たくても出れない。死にたくても死ねない。そんな孤独の中で三百年も忘れ去られていたのである。想像するだけで生き地獄である。

 いくら魂が残っていても、三百年の年月は、感情を、理性など消し去ってしまうには充分な時間である。

 だが本人の理性や感情は消え去っても、匣の中に蓄積しただけは残留しつづけ、それを身にまとって周囲に放っていたのだ。

 それこそがあの思念。死にたいという思念の正体である。


 周囲の人間を次々と自刎に追い込むほどの思念を放ちながら、当の本人はそんな感情などすっかり忘れている。そして周囲に漂う死者の魂を、呪物として仕込まれた、いわば自動的に発動する術式によって、無意識に取り込んで肥大化していく。


「全く、とんでもない物を残してくれたもんですよ……」

「悲しすぎますね……」


 殷九叔の嘆息に対して、道安は視線を落として素直な気持ちを述べた。そこに婁延が改めて質問する。


「しかし、その娘がなぜ殿下を付け狙うのだ……?」

「分かりませんか? あの娘は後漢の光武帝を呪殺するための呪物として作られた。光武帝のいみなはご存じでしょう?」


 そこで婁延のみならず慕容秀も声を上げた。後漢光武帝の姓名は、劉秀りゅうしゅう。慕容秀と同じ諱である。


「理性も、感情も、記憶も既に失った娘は、呪物として仕込まれた目的を、まるで本能のように達成しようとしているんです。しかし、標的である光武帝はもうこの世にはいない。ゆえに同じ諱を持つ皇族を追っているというわけです」


 慕容秀と婁延は顔を見合わせて黙ってしまった。

 とんだ人違いだったわけである。


「だが一度目を付けられた以上、どこに逃げても今回と同じように、どこまででも追ってくるでしょうな。話し合いも説得も出来ない。悲しい身の上である事には同情しますが、もはや滅ぼすしか道はありません。あの娘の苦しみを、終わらせてやりましょう」


 殷九叔のその言葉に、一同は深く頷くのであった。





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