第六集 誤算

 邯鄲かんたんの宮城の周囲には、普段以上に篝火かがりびが焚かれ、城内の住人は外出が禁じられた。しかし先ごろの奇怪な集団自殺が邯鄲の城市まちへと向かってきているのは住人にも知れ渡っていた事もあり、文句を言う者が出るどころか、禁じられていなくても出歩くものはほとんどいなかったであろう。

 宮城の中では道安どうあん僧朗そうろうが待ち構えており、他の者は退避させている。特に謁見の間には、柱と言う柱に梵字ぼんじで真言を書く事で結界を構築した。

 あとはどこまでやれるか、という話である。


 二人の僧侶は、ほとんど言葉を交わす事なく敵の出現を待った。互いに余計な事を語る必要も無いほどの仲であると同時に、雑談を挟もうという気にはならない緊張もあった。

 どちらともなく、いつしか経を唱え始めていた。未だに漢文翻訳される前の時代ゆえ、天竺てんじく(インド)から伝えられたままの、サンスクリット語による詠唱である。

 緊張感を鎮めようと、努めて穏やかに経を読んでいた二人の仏僧であったが、どちらともなく声を止めた。

 宮城の外から悲鳴が聞こえたのである。


 ――来た。


 道安と僧朗はほぼ同時に身構えるが、再びの悲鳴。そして二度、三度と更なる悲鳴が聞こえてくる。そこで互いに顔を見合わせた。

 最初の悲鳴こそ宮城の正面であったのだが、その後に続いた悲鳴は宮城を回り込んでいる。

 敵は宮城に向かっていないのだ。その先にあるのは、屯所である。


 それに気づいた時点で、どちらともなく駆け出した。

 大きな誤算であった。敵は一直線に邯鄲の城市へと向かっていた事から、誰もが敵は宮城へ向かっていると思い込んでいた。

 だが真の狙いは、邯鄲に駐留している蘭陵王らんりょうおう慕容秀ぼようしゅうだったのである。


 二人の仏僧が屯所へと向かう道すがら、兵士たちが自刎して果てているか、或いは踏みとどまった者も腰を抜かして震えている。

 屯所に踏み込んだ時、何とか間に合いはしたが、慕容秀と参軍である婁延ろうえんの二人が壁際に追い詰められている所であった。恐ろしさのあまりに涙を流して震えている若き王と、身を挺して庇うように進み出ている老臣。

 そして対する敵は、渦を巻いてうごめいている黒いもやの塊としか表現できない物だった。その靄の中にうっすらと人の形が見えるが、まるで無数の蛇の如く蠢いている黒い靄がその姿を隠している。

 ゆっくりと歩を進める敵を左右から追い越し、壁際に追い詰められている慕容秀と婁延を守るように構える道安と僧朗。


「ヤッドゥルーパン、サー、シューニャター、ヤー、シューニャター、タッドゥルーパン……」


 二人の僧侶は声を重ねて真言を唱えた。

 だが相手の足は止まらない。

 非常にゆっくりとした歩みだが、同時にまるで止まる気配が無い事が逆に恐ろしい。そして相手が近づくほどに、そのは心を蝕んでくる。


 ――辛イ。苦シイ。死ンダホウガマシ。死ニタイ。死ニタイ。死ナセテ。死ナセテ。


 それは死への憧憬。死への逃避。

 こんなに辛いのならば死んだ方がましであるという思い。

 特に衣食住もままならず、明日の命も知れぬ乱世では、ほとんどの者が一度ならず抱いた事がある思いだろう。しかし大抵は、日々の小さな喜び、生への執着、そして死そのものへの恐怖で眠っている感情。

 それが一気に肥大化するのである。


 相手の足は一向に止まらない。

 徐々に後退あとずさる二人の仏僧は、とうとう壁際にいる二人の所まで追いやられてしまった。

 そこで意を決した僧朗が、敵に向かっていく。道安が止める間もなく、真言を叫んだ僧朗は、両手で黒い靄の中にいるに掴みかかった。

 僧朗の悲鳴が響き渡った。見れば涙を流し、恐怖に歪んでいる。それでもなお必死に耐えて相手の首を掴んでいる。凄まじい自制心と言えた。

 僧朗の決死の行動で相手の足は止まっているが、限界が来るのも時間の問題である。壁際では慕容秀と婁延はすっかりと腰を抜かして座り込んでしまっている。

 道安が打つ手を考えあぐねて逡巡している間に、屯所の入り口から一人の人影が飛び込んできた。


「避けなさい!」


 その声に道安は、僧朗の両肩を掴んで敵から引き離す。それとほぼ同時に、飛び込んできた人影は背後から敵の胴体に剣を突き刺した。まるで鳩尾みぞおちから剣の切先が生えるかの如くである。

 その瞬間、何人分もの悲鳴が同時に折り重なったような叫びとともに、黒い靄が破裂するように周囲に飛び散った。

 台風のような突風が屯所中に吹き荒れたかと思えば、次第にその突風と共に悲鳴も収まっていく。


 黒い靄はすっかりと消えたが、中心にいたは未だにそこにいる。

 真っ赤な深衣しんい(ローブ)を身に着け、腰まである長い黒髪を垂らした女の姿。だがその顔は思わず目をそむけたくなるほどに恐ろしい物だった。

 顔が無かった。

 正確には顔面の皮膚が完全に剝がれている。剝き出しの眼球と、白い歯、そしてズタズタになった表情筋は、赤い髑髏ドクロを思わせる。

 よく見れば身に着けている深衣も、それは赤い布ではなく、血に染まった赤である。

 まるで昆虫や爬虫類のように感情の読めない、そんなの両目は、壁際で座り込んでいる慕容秀を捉えていた。そしてゆっくりと視線を落とし、自分の腹部から突き出た切先を見つめる。まるで痛みを感じていないかのように。


 次の瞬間、突如として赤い女の姿が消えた。というより霧状になって空中に散った。

 だがそれは倒し消滅させたという手ごたえではなかった。実体を消して逃げられたと、その場にいる誰もが本能的に理解した。


 赤い女が姿を消した事で、危機を救った闖入者の姿が壁際の四人からも確認できるようになる。女に突き立てた桃木剣とうぼくけんを背中に背負いなおしているその姿は、いつぞや出会った道士の物であると道安は気が付いた。


「あなたは確か、いん道士」

「確か、道安大師。やはりあなたもおりましたか」


 殷九叔いんきゅうしゅくが邯鄲の城市に到着した時、既に騒ぎは始まっており、黒い霧のような陰の気を辿って城の外れにある屯所に来た時は、まさに間一髪。

 そこには燕国の駐留軍を率いている十五歳の諸侯王・慕容秀と、その参軍である婁延。そして道安と僧朗と言う二人の仏僧が、今まさに追い詰められていたところであった。


 邪を払う桃木剣を敵に刺した所、周囲に渦巻いていた怨念を散らす事には成功した物の、本体であるには全く効果が見えず、そのまま取り逃がしてしまった。

 だがその事で、殷九叔は敵の正体におおよその見当を付ける事が出来ていた。


 ふと壁際で絶叫が聞こえた。

 先ほどの邪気に充てられたままの慕容秀が、腰の剣を抜き放って自刎しようとしている所を、脇にいた婁延が必死に止めている状況である。

 殷九叔が向かおうとする前に、道安が若き王の前に立ち、手を振り上げた。


「喝ァァァアアアッ!!」


 響き渡った一喝と共に、慕容秀の頬を平手で打った道安。その衝撃で、慕容秀は勿論、周囲の者も静まり返って動きを止めた。そしてどうやら慕容秀も正気を取り戻したようで、叩かれた頬を押さえて道安を見上げた。

 胸を撫で下ろした道安は合掌して頭を下げる。


「失礼しました、殿下」


 そんな道安の様子に、消耗して横になっていた僧朗が噴き出して笑った。今は亡き彼らの師父しふの姿が、今しがたの道安に重なったゆえである。





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