第3話 エピローグ

 私はトシキを無視し続けた。トシキは階段のステップの一番下だった。足場みたいなもの。私は次々に男と付き合った。トシキはその一番はじめのデート相手で、付き合った時間も一番短い。はっきり言って記憶にもない。今ここで思い出すまでは。


 マサヒコとうまくいかなくなってからは私は、これまでマサヒコに捧げてしまって失ったものを思い出した。学校を三年生の途中でやめたことは、今思い返しても馬鹿だったよね。マサヒコのためにバイトして稼いだ金の使い道に困ったときに、私は私のためにお金を使った。


 CMで目に入ったミスタードーナツを買った。マサヒコに見立てて食した。でも、満足しない。私は失いすぎていた。私は私という個のことを何も知らない!




「おじいさんは……トシキ? ねえ、トシキ助けてよ! ここはどこ? 私は……こんなところで何をしてるの!?」


 菓子にまみれたこの村が不気味に見える。何年経ったの!? ここは私を一切受け入れていない気がする。


「ミサキちゃん。いや、ミサキ」


 おじいさんの目に若い灯が灯る。


「君の心が若々しくて、わしは驚いたよ」

「へえ!? どういう意味!?」


 おじいさんは悲しげな眼差しで腰を上げた。


「君は今でも心に色んなものを芽吹かせている。別に奇麗な花じゃなくていい。感情さえあれば形はドーナツでもなんだっていい。君は今回はじめてわしを思い出してくれた。菓子しか芽吹くことのできない場所にわしを芽吹かせてくれた」


「トシキ……あなたまさか、ここにいないの? この場所はどこなの!? ここは、本当に菓子しか存在しないの?」


「わしは一つ嘘をついた。妻を数年前に亡くしたと言った。妻は生きてるよ……」


「そうなんだ。どうして嘘を?」


「妻は君だから……だけど君は死んでいないけれども生きてもいない。君がいるのはこの菓子の村。君は……この天国を愛し続けるだろう」


 待って、話が飲み込めない……。私はつまり死んでいないけれども相当ヤバい状況にいる? そして、トシキと私は結婚した。だとしたら私は……マサヒコのことばかり考えている駄目な女じゃない……。私は……。もしかして、この場所に囚われているのかも。


「わしを……君の心に芽吹かせてくれてありがとう。もう行くよ」


 おじいさんは……トシキは消えた。私はまたこの菓子の村を訪れるだろう。マサヒコをドーナツに見立てて食べるだろう。もう何年もそうしてきたから。だけど、最期にトシキが来てくれて良かった……。


―――――――――――――――――――――――


 ミサキは、うわ言でときどきマサヒコと呟いた。医者は認知症の妻のこのうわ言を鵜呑みにしてわしの名を呼んでいるとよく言った。わしはマサヒコよりも格下の旦那ということだろう。いや、そうは思わない。妻は最も古い記憶に遡って自分探しをしているのだ。妻の記憶から色々なものが抜け落ちてしまったのなら、心から何かを芽吹かせてやりたい。


 わしにできるのは、マサヒコのいた時代……つまり学生時代の思い出を語ることだけだった。



 わしとの思い出なんかほとんどないだろう。あの頃のミサキはわしなんかよりマサヒコを拠り所にして青春を謳歌していた。


 それでもわしはマサヒコとミサキのことを語ってやった。ミサキの中での今はあの頃なのだ。ミサキには甘い夢を見させてやりたい。


 わしを思い出さなくてもいい。わしは側にいるからな。


「ご臨終です」


 医者はうつむき加減でそう告げる。ミサキは最期までわしの手をつかもうとしなかった。

 だけども、もう開かない目元が穏やかに笑っているように見えた。

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お菓子な村へようこそ 影津 @getawake

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