紅
ザァと、蒼い光が退いて行く。いつだったか映画で見たスカラベの大軍、まるでそれのように波打つように移動して行く。光の粒一つ一つが意志を持っているかのように闇に隠れる。消えていく。
僕は立ち止まり、薄闇に包まれた道をゆっくりと歩いていった。体は重く、空気が煌いて見える事もない。さっきまでの『あれ』は果たして現実だったのか。腕を上げてみれば、見慣れた手が目に映る。獣のように剛毛に覆われてもいなければ、指が7本あったり硬質化しているような異形の者の手でもない。
ほぅ……、溜め息を洩らし、後ろを振り返った。誰もいない。ただ街灯が冷たい光で道を照らしている。
「夢でも見たか……?」
けれど今いる場所は、『あの場所』からずっと離れていた。あまりに離れ過ぎていた。過ぎた時は僅かに数分、それだけの時間で移動するには長すぎる距離。それはつまり……。
「夢だな……」
すべてをその言葉で封じ込めて僕は再び歩き始めた。
それでいい、考えるな。と囁いたのは、僕のどの部分だったのだろう……。
ともかく、再び歩みを始めた僕が立ち止まったのは、やはりというべきか。街灯の明かりの元、僕に背を向ける格好で立ち止まっている女性の姿を見たからだった。
赤いスーツをきっちりと着込んだOL風の女。街灯の白い光の下に佇んで、空を見上げているのがわかった。
「何を……」しているんです? というつもりだった。途中で気付いてしまわなければ、だ。
何にか。『物語』に。『ムジナ』という物語に。
あれはどういう結末だっただろうか……。確か、そう確か、二人目もそうだったのではなかったか!?
発してしまった言葉を消す事は出来ない。夜気を伝わり、声は女に届く。
「月を見ているの。良い月よね。蒼くて清んだ綺麗な月」
答えたのは鈴を転がしたような、と喩えてもよい声。振り向いた女に僕は言葉を失った。その姿が恐怖していたように『獣』に変った訳ではない。ただキレイだな、とそれだけが頭に浮かんだ。そう思うほどに女は綺麗だった。無粋な外灯の明るすぎる白の中でさえ艶やかな光を宿している黒髪、対照的に抜けるような白い肌。整った鼻梁に涼やかな瞳。すべてに引き寄せられ、だから僕は大事な事を忘れた。
蒼い月、その光。それがサラリーマンの姿を変えたのだと。
「本当に良い月よね……」
彼女の言葉に我を取り戻し、曖昧に頷くと僕は空を仰ぎ見た。月はまだ分厚い雲に隠れている。けれど。けれど、見ている間に雲が途切れた。
月が顔を覗かせる。月光が白い街灯の光を駆逐する。
音を立てて蒼い光の粒子が周囲に充満する。
「あああああ……」
口から洩れたのは呻きとも歓喜ともつかぬ言葉。発した僕自身良く分からない、が確かなのは心が恐怖を感じているという事だ。別の何かに変ってしまう事を喜ぶ自分に恐怖を感じている事だ。
「本当に、本当に狩りには良い夜だわ、ね」
肝が冷えるとはこういう事を言うのだろうか? 周囲の空気が冷たくなるとはこういう事なのだろうか?
女が右手に持つのは、真っ直ぐに僕に向けられているのは、拳銃。
元々、熊狩りなどの大型獣の狩猟用に想定されているが故に、射出時の反動は『ハンドキャノン』の通称に相応しい凄まじさで、女子供が撃つと肩の骨を外すと言われるほどの威力を持つ。そういう酷く無骨な銃だ。なのに、『それ』を構える女の姿は、とても様になっていた。
「動かないでね。無駄弾は使いたくないの」
まるで、『これから散髪するから動かないで』、と言うのと同じくらいの気軽さで彼女は言い、そして僕は押し黙った。
何故こんな事になったのか。そんな疑問もあるにはあったが、答えが出てくる筈もなく、また蒼い月光の中にハッキリと浮き上がった女の姿の前にすぐに水面の泡のように消える。
女の姿は美しかった。凄惨なまでに。蒼の光の中、赤いスーツがぬめったような紅さを際立たせている。浮かべているのは本来この情景には不似合いな微笑。
ぱぁ~ん、と。拳銃が鳴った。よく言われる事だけれども、映画と違い現実の銃声はまるで爆竹を鳴らしたかのようにチープだった。女の髪が衝撃で大きく花開くように広がった。熱く痛い衝撃が僕の顔スレスレを走り抜けていく。今思えばよく脳震盪を起こさなかったと不思議にさえ思う。もっとも、後になってだからこそそう思えるのであって、その時にはなにがどうなっていたのか把握さえで出来ずにいたのが本当の所だ。
立て続けて三度の銃声。無駄弾を使うのが嫌と言っていた割に全て外すのはどうしてなのか。すぐに答えは示された。ひどく回りくどい方法を持って。
湿った息遣いが聞こえた。ピシャピシャと何かが滴る音もする。生臭い空気がたゆたっているのは気のせいか?ある意味確信のようなものを持って振り返れば果たしてそこにいたのはヒトガタの狼。何時の間に現れたと言うのだろう。ついさっきまでそんな気配一つしていなかったと言うのに。
目が爛と怒りに赤く燃えている。銃声の数だけ体から血を流していた。色は何色だろうか。紅? 違う。黒? それでもない。銀? には見えない。
がぁっ。『それ』が吠えた。心なしか勢いがない。それでも僕をふらつかせるには十分だったが……。その時に、僕の腕に飛沫がかかった。何かと思い手をやればヌルっとした感覚があり、それは、蒼い血だった。何故か背筋が寒くなった。今更ながら、目の前に居る何かが人ではない別の生物かどうかさえ怪しいものだと言う事を無理矢理実感させられた所為だった。
ヒトガタの体がぐっと小さくなる。全身の筋肉を収縮させ、獲物に襲い掛かるその為の前段階だ。獲物とは当然僕と、女。
「ひっ」
「流石にしぶといわね。でもまぁ、これでお終いにしましょう? これで……」
僕が恐怖に息を呑んだのとは対称的に、髪一筋さえも動かす事なく女はそう言い切り、引き金を引いた。
パアァ~ンと、殊更大きく銃声がした。銃弾は僕の頬を薄く裂き、全身のばねを伸ばしきり飛びかかろうと利肢を踏み切った直後だったヒトガタの眉間を打ち抜く。ポツッと眉間に小さく穴が空き、間を置いてボンとヒトガタの後頭部が弾けた。勢いはそれだけに留まらず、弾けた頭に引きずられていくようにヒトガタの体が後ろへと流れた。仰向けの状態でアスファルトの上を滑っていくヒトガタの動きはやけに緩慢に感じられ、見送りながら僕は頬の血を拭った。ぴりっとした痛みが走り、顔を顰めてしまう。すると、傷が捩じれてまた痛みが走る。最悪だ。けれど、もっと最悪が待って居た。眉間に突き付けられた銃。まだ紫煙が微かに上っている、そして、硝煙の匂いが鼻についた。
「さてと。これで一匹目はお終い、ね。じゃあ、次は……、君かな」
心臓が跳ね上がる。どうしてという言葉は掠れて音にならなかった。
「心当たりは……、あるみたいね。でもまあ……」言葉を止めて銃を降ろし、女はまじまじと僕の顔を眺め。そして。
「見逃したげるわ。どうやら君はまだ『戻れ』そうだから」
そう言うと女は僕に興味を無くしたように視線をヒトガタに向け、そちらの方へ。軽々とヒトガタの体を担ぎ上げ、そのままずるずる引きずって歩き始める。
女は歌を口ずさんでいた。僕も良く知る流行歌。だけど僕の生まれるずっとずっと前の歌。何故その歌なのかは分からない、けれど、こんな夜には良く似合う、そんな歌。唖然としたまま見つめていた僕に女は、
「君もさっさと帰った方が良いよ。折角見逃してあげたんだからさ」
「何者なんだよ、あんた……」
「ん? 分からないかな。『狼』といえば『――――』でしょう?」
女はまるで無邪気な少女のように笑い、僕は体の力が抜けてへたり込みそうになるのを必死で堪えて駆け出した。
どれだけ走ったか分からない。が、息がちりぢりに乱れ額に汗さえ浮いていた。汗を拭うために顔にやった手の甲が目に入る。頬を拭った時の血が乾いていた。擦れた黒い色をしていた。無意識のうちに頬の傷に手を当てる。乾き始めていた傷が痛むが、構わず押し付けた。傷が開いて血が滲むのが分かった。たっぷりと指先に擦り付け、街灯の白い光の下で確認した『それ』の色は、『紅』。
「…………」
今度こそ僕はその場にへたり込んだ。
その夜以来、僕は月があまりに綺麗な晩には絶対に外に出ていない。
あの時見た血の色は確かに紅かった。けれど、本当にそうだったのだろうか。そんな恐怖があるからだ。あの時、『月』の光の元で見ていたら、『蒼』かったのではないか、……と。
ただ、その反面こういう風にも時々思う。もう一度、あの蒼く染まった空気を胸一杯に吸い込み、思う存分に月の光を浴びるのも良いんじゃないか。その結果、あの女『赤ずきん』と名乗ったスーツの女に狩られる事になったとしても……。
月がとっても蒼いから 此木晶(しょう) @syou2022
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