月がとっても蒼いから

此木晶(しょう)

その日は見事な満月で、『お盆のような』とよく言うけれどまさにそんな感じでまん丸の月が天高く鎮座していた。更に言うと、なぜか月はいつものような金色ではなく、衣替えか、気分転換だとでも言うように蒼い光を降らせている。

サァとケーキにまぶされるパウダーシュガーの様に降り注ぐ蒼い光は見慣れている筈の町並みを別の世界へと変えていた。

色づき始めた落葉樹はいつもと違う色を纏い、生き生きとしている。気のせいか空気まで青く染まり、吐く息は水泡となって空高く上っていく、そんな錯覚に陥る。まるで、水族館の水槽の中にいるような……。

口ずさむのは僕の生まれる前の歌。古い古い流行歌。けれど、こんな夜には良く似合うと思った。秋も深まりいつもなら虫の声が喧しいくらいに鳴り響いているだろうに、今は蒼い夜に遠慮しているのだろうか? 恐いくらいに静か。風さえ、そよりとも動かない。それでいて蒸し暑いと感じないのは今が秋だからなのか、それとも月が蒼いからなのか……。

どちらにしても、僕の口元からは歌が流れ出し、町へ響いていく。たまにはこんな夜もいいかもしれない、と思い始めていた。さっきまで散々文化祭の準備で帰宅が遅くなった事に文句を言っていた事も忘れて……。まぁ、人間なんてそんなもんだと言えば、その通りな訳で。嫌な事があれば愚痴を言い、気分が良くなれば忘れてしまう。だから、浮かれながら僕は歩いていく。

学校を出てから大分立つというのに誰とも出会わない事を不思議とも思わぬまま。




そいつは街灯の下にいた。無粋な明るすぎる人工の白い光に照らされて、男はしゃがみ込んでいた。ぱっと見た感じサラリーマン、しかも泥酔中。そう判断して、僕は舌打ち。

こんな夜には似合わない。似合わないと思うが、放っておくというのも気分が悪い。それも、こんな夜だからだろう。

「大丈夫? なんなら救急車呼ぶけど」

なんとなく街灯の明かりの届かない場所から声をかけると、意外な事に男はすんなり立ち上がりこう言った。

「ええ、大丈夫です。ちょっと立ち眩みがしただけですから。心配して頂いてすみませんねぇ」

意外なほどに若い声が返ってくる。ただ、気のせいだろうか? グルグルという唸りのようなものが重なっていた。

「大丈夫ならいいけどね。早く帰った方がいいんじゃない? 今日はよく冷えると思うから」

言いながら、一歩下がる、二歩下がる。街灯が息をするように点滅した。訳も分からず、恐怖を感じた。何に? 多分視線の先にいる男に。どうして? 分かるものか!!

街灯がまるで燃え尽きる前の蝋燭のように強く光を放ち、割れた。影が地面に焼き付いた。

月光を排除していた人工光が消えて、男の体が月光に晒される。

「そうですかねぇ~~。でも、もう大丈夫ですよ。温かい血が飲めそ……」

最後の方は聞き取れなかった。男の姿が変貌し、人間の言葉ではなくなっていたからだ。

過程は。

口が突き出した。長く、細くだが、荒々しく。指が節くれ、力を持つ。爪が月の光を反射した。腕が膨らむ、月並みな言い方をするなら丸太のように、だ。

全身にザワザワとさざめきの如く、黒い剛毛が覆っていく。

その変化は酷く滑らかに行われた。映画の中の、CGかなにかのように……。蒼い光の中それは、現実味がなく、僕は何処かでまだ『映画の撮影か?』と呑気な事を考えていた。

ガァ、と空気が震えた。何故か、蒼が濃くなった。その中に立っているのは狼。無論そのものではなく、無理矢理二足歩行に仕立て上げた歪な存在。もう一度空気が震える。

そこで初めて僕は自分の膝がガクガクと震えているのを感じた。心よりも体の方が先に恐怖を感じていた、と言うのだろうか。じわじわと恐怖が心に染み込んでくる。心臓が高速で運動を始めた。痺れるような感覚が全身に広がり、喉が悲鳴を上げかけた。それを静止したのは、『映画か?』などと呑気な事を考えていた僕の何処か。

そんな事をしている余裕があったら、『走れ』と命ずる。

人間、極限状態に陥ると色々と普段出てこないものが出てくるらしい。いや本当に……。反対する理由もなく、寧ろ全面的に賛同して僕は全力で走り始めた。

奇妙な事に一旦走り始めると体の痺れが嘘のように消えた。それどころか、体が軽い。一歩踏み出す、体がぐんと前に出る。腕を振る、走る勢いが増す。よくホラー映画で恐怖で体が竦んで動けないなんていうのがあるが、その逆というのはあまり聞かない、いや、ホラー映画自体ほとんど見ないからひょっとしたら、あるのかもしれないけれど。

ともかく、視界はそれこそ飛ぶように流れ、後ろに聞こえていた筈の息遣いも何時の間にか消えていた。

足は止まらず僕は駆け続ける。蒼い月の光を浴びて駆ける事がこんなにも素晴らしいものだとは、思いもよらなかった。少し違うけれど、目の悪い人間が初めてコンタクトを付けた時に見える世界を見た時の感覚に似ているかもしれない。これほどまでに世界は違うものなのか、と。驚愕。そう言えば良いだろうか? 体験した事のない感覚に酔い痴れる。

けれど、開放感に近いものを感じながら疾走する僕は、ふと気付いてしまった。

果たして、僕は以前の僕なのか? あの狼に変貌したサラリーマンと同じように、人ではない何かに変ってしまってはいない、と果たして言いきれるのか? と……。視線は前に向いたままだ。両腕はただ前後に振られている。ほんの少し視線を下にずらせば良い。そうすれば、自分の腕が見える。それだけで、全てわかる。大して労力は要らない。そう、ほんの少し……。

けれど視線は固定され、決心できないままに月が雲に隠れた。


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