犬馬の心

とは

犬馬の心

「わざわざ会いに来てやったんだぞ、優子。ありがたく思えよ」


 そう言って昨日まで『婚約者』だった彼、具志谷ぐしたに哉朗としろうは私を見下ろしている。

 その態度に不快感をにじませながら私は口を開いた。


「……どういうつもりです? あなたが今こうしているのは、いぬい家に対する八つ当たりでしかない」


 見慣れた自室でありながら、いつもより天井が高く感じられる。

 部屋の中央で床に組み敷かれているからだ。

 馬乗りになり私を見下ろしているこの男に、何か抵抗できないかと辺りを見回す。

 だが皮肉なことに、片づけを済ませたばかりのこの部屋は手に届く場所には何もない。

 倒れた場所がベットや机のそばであったならば、もう少し抵抗出来たであろうに。


「あなたは具志谷家を勘当されると聞いています。私達の婚約は破棄されたと、あなたのお父様から当家にも連絡が届きました。つまりは……」


 言葉を続けつつ、馬乗りで私を押さえこんでいる彼から逃れようと体をよじらせる。

 とうに哉朗はそれを予想していたようだ。

 彼は自分の両足で私の腰を挟み込むように押さえつけ、更にこちらへもたれかかるように体重をかけてくる。

 苦しさに思わず顔をゆがめながら、私は彼をにらみつけた。

 

「そう、そうしてお前はあっさりと俺から弟に乗り替えていくわけだ」


 その言葉に目を見開いた私を見て、「何だ、まだ知らなかったのか」と彼は呟く。

 婚約解消に留まらず、今度は弟との結婚話に持ち込むつもりなのか。

 想定外の具志谷家からの提案に、動揺を隠しながら私は彼へと言葉を投げかける。 


「乗り換えたというのならば、あなたが先にそうしたのでしょう。私の友人に手を出した挙句、……妊娠させたそうで。高校生である自分の立場をわきまえていない、随分と浅はかな行動をなさった……」


 パン、と乾いた音が部屋に響いた。

 頬に痛みを感じた次の瞬間には髪を掴まれ、顔を近づけて来た彼と目が合う。


「犬の癖に主人に逆らうなよ! 乾家は具志谷家がいるからこそ存在できているんだ! おれの爺さんがいなかったら、お前なんぞ生まれてもいなかったんだぞ」

「……その通りです。具志谷家の支援のおかげで私達、乾家は存続しております」


 その恩を忘れることなく、祖父の代から乾家は地元では屈指の名家である具志谷家へ忠義を尽くし、かげひなたなく仕えてきたのだ。

 自分が生まれる前から結ばれていた、この哉朗との婚約もその一つ。

 ふさわしき立場と教養をと、今まで私なりに努力してきた。

 周囲より優れた存在であるように、だが彼よりも注目を浴びる行動など決してないように。

 将来の夫であり、尽くすべき彼の立場を損なう事なく振舞う。

 実に難易度の高い要望を、彼の家から私は指導され育ってきた。

 その結果、大人からの受けはいいが感情をあまり見せない、私という存在が出来上がったのだ。


「お前ごときが今まで俺の婚約者でいられた。その幸運をお前はもっと感謝すべきだろう?」


 そんな幸運など、私は一度も欲したことは無かった。

 確かに彼は整った容姿と家柄もあり、女生徒たちの目を惹きつけてやまない。

 何も知らない彼女達からすれば、私の居た場所はさぞ羨ましいものであったのだろう。


『美人だからってお高くとまっている』

『不愛想なのに、ちやほやされていて腹が立つ』


 そんな彼女達から受けてきた中傷や理不尽な嫌がらせは数知れない。

 振り返るまでもなく、幸運とは程遠い立場であったと私としては思う。


 その感謝すべき彼はといえば、家柄という権力をかさに傲慢な態度をふるまい、多くの人を傷つけてきた男でもある。

 彼は自分に逆らえない、反抗することの無い立場の人間ばかりにそれを行う狡猾さを持ち合わせていた。

 外面しか見ていないお嬢さん方には、彼は快活な青年というように映っていることだろう。


 傷つけられたことを明かし、彼の正体を公にしてやると行動に出ようとした人達も何人かはいた。

 だが彼はその問題が起こる都度、具志谷家の力を使いそれをなかったことにしてきたのだ。


 そんな中、私の友人同級生が哉朗との間に子供が出来たと、具志谷家へ報告しに行ったのが一週間前のこと。

 哉朗としては、両親に知られる前にこの事実をもみ消したい。

 それもあり友人を説得してみるものの、彼女の「絶対に産む」という意志を変えることが出来ず、ずるずると答えを引き延ばし、時間だけが過ぎていってしまった。

 そのうちにしびれを切らした友人は自分の親に相談し、誠実さのない彼ではなく親から聞くべきと親子で具志谷家に突撃したらしい。

 具志谷家としても私との婚約もあり、穏便に処理をしたかったようだ。

 だが、友人の母が名家の出ということもあり、権力でねじ伏せるということが出来なかったという。

 彼はどうやら具志谷家を出て、彼女の家の婿として迎えられることになるようだ。

 それらの事実確認や今後の話し合いをするため、私以外の家族は今は具志谷家に出向いている。


『優子には迷惑を掛けた。今日の話し合いに来るのは辛かろう』


 当主様がそう言ってくれたこともあり、私だけが具志谷家に向かうこと無く家に残っていた。

 何もしないでいると余計なことを考えてしまう。

 それもあり、発表が近い演劇部の練習を一人でしていた。

 いつもは声に気を付けるが、今ならば遠慮なく声を張ることができる。

 普段であれば兄に練習を見てもらいアドバイスを貰うのだが、今は具志谷家に居るのだ。

 そのためスマホを机の上に立てかけ、動画撮影に切り替えると私は芝居を続けていく。

 録画をしておけば、後で指導を受けるのにも、動きを見返すにも実に都合がいい。

 台本を片手に、私は演技の世界へと入り込んでいく。


 つい熱が入り集中しすぎていたということもある。

 そのため彼の侵入に私は全く気付けずにいたのだ。

 自室の扉が乱暴に開かれる音で振り返った私に、哉朗は不敵な笑みを浮かべ近づいてくると、思い切り私を突き飛ばす。

 床に背中を打ち付け小さくうめき声をあげた私に、彼はのしかかりこうして言葉と暴力をぶつけてきているという訳だ。

 勘当の宣言に加え、私の新たな婚約者が自分より評判の高い弟に決まった。

 それに激高し、私に『最後の挨拶』をしにきたのであろう。

 

「お前の母親に『家族同然なのだから、鍵くらい寄こせ』と言っておいてよかったよ。没収される前にこうして会いにこれたんだからな」

「……ではもう目的は達成できたのでしょう? どうぞお帰り下さい」

「そういう訳にはいかないんだよ。このままあいつにお前をくれてやるなんてつまんないだろう? なにが『結婚するまではあなたと肉体関係は結びません』だ! お前は俺のお手付きで弟にプレゼントしてやることにしたんだよ」


 人をまるで物のように扱う姿に顔をしかめれば、彼は嬉しそうに笑っている。


「お前は、いや。お前たち兄妹はいつもそうだな。俺のことを見下してばかりだ。それでも俺の立場が上だから嫌々ながらも従っていたんだろう。そもそもお前がこうして変に身持ちが固いから、俺は他の女に手を出したんだからな。全部お前が悪いんだぞ!」


 愚かな言葉を吐き続ける彼の顔を、私は何をいうでもなく見つめる。


「お前の友達だっけか? あいつも言っていたぞ。『感情を殺して優等生ぶって、犬みたいに周りにしっぽを振り続けているあの子が気に入らない』ってな。それに巻き込まれた俺に対して、お前は誠意を見せるべきだろう」


 醜く笑い続ける男を、もはや相手にしたくなかった。

 私は彼から目を逸らし扉へと視線を向ける。

 そこで一つの心の区切りをつけると、再び彼に向き直り問いかけた。


「この後のことをどうするつもりです? 私が病院や警察に駆け込むことを考えていないとでも?」

「お前がそう出来ないからこうしているのさ。確かに俺は勘当されるだろう。だがお前たち乾家は、どうあがいても具志谷家に逆らうことは出来ない。今から俺がすることにお前がどれだけ悔しがろうが、親父の『黙っていろ』の一言でお前達は口を閉ざすしかないんだよ」

「なるほど、確かにその通りですね。……実に卑怯で見苦しい発想が、本当にあなたらしい」


 後半の言葉は、彼に届くかどうかの小さな声量での呟き。

 今まで思うことがあっても、そんな言葉を彼に対して発したことは一度たりとて無かった。

 それが聞こえていたのだろう。

 彼の顔は次第に歪みはじめ、やがてその拳が握られ掲げられていく。


 ――だが、それが振り下ろされることはなかった。

 突然、私を押さえつけていた重みが消えると同時に、哉朗が床へと倒れこんでいく。


「優子! 大丈夫かっ!」

「優子ちゃ……! 哉朗様、あなたはどうしてこんな事を!」


 耳に届く父と母の声を聞き、私の目からは涙が次々と溢れ出す。

 部屋の扉の前で立ち尽くした両親の元へと、よろめきながら私は走りだした。


「おとっ、お父さん……。お母さぁんっ!」


 ただそう呼びながら、私は母に抱きついた。

 母はそんな私を強く抱きしめ、父は私の背中にそっと手を添えてくれている。

 そんな私の後ろからは「嫌だっ、誰か助けっ……」という哉朗のとぎれとぎれの声と、それをさえぎるかのような殴打の音が響きはじめた。

 ゆっくりと振り返れば、兄の賢人けんとが哉朗に馬乗りになり、黙々と哉朗を殴り続けている。

 兄は冷静さを失っているようで、哉朗の顔や腹に手当たり次第に拳を叩きつけていく。

 普段は逆らうことの無い存在から与えられる痛みに対する動揺であろうか。

 哉朗はしゃくりあげるように泣き続けていた。

 兄の手についた哉朗の血を見て、このままではいけないという思いが私の中に芽生える。

 よろよろとした足取りで私は兄達の元へと向かっていく。

 私の姿が目に入ったのだろう。

 哉朗の表情が泣き顔から怒りへと変わり、いら立った声で私へと叫んできた。


「優子、命令だ! 賢人を止めろ! お前が大人しく従っておけば、俺はこんな目に遭わずに済んだんだ! その責任をお前はきちんと取る義務があるぞ!」


 その声に反応するように私は兄に駆け寄り、腕に抱き着くようにして殴るのを止めさせる。


「優子! こいつはもうお前の婚約者でもない! お前が今までこいつにどれだけ辛い目に遭わされ、何度受けなくてもいい痛みをこらえてきたかっ……!」


 悔しくてたまらないといった様子で兄は声を震わせている。

 具志谷家の婚約者として、感情を失わねば心を保てなかった私と違い兄は。

 いや、兄こそが私の境遇と思いを代わりに受け止め、苦しんでいたというべきであろう。

 兄が寄り添い、そばにいてくれたから私は耐えることが出来たのだ。 

 そう、だからこそ……。


「いいのよ、兄さん。だって痛いのは辛いですもの。……兄さんの手も」


 兄へと笑いかけてから、私は哉朗の方へと向き直る。


「……それに哉朗さんも」


 幼き頃から言われ続けた、『具志谷家の人間の命令に乾家は従うべし』。

 これが守られたことに哉朗は満足したのであろう。

 血や涙でぐちゃぐちゃになった顔で、彼は歪んだ笑みを見せてきた。

 確かに私は今まで、哉朗の肉体関係を求める命令以外はすべて従ってきたのだから。

 けれどもそれは昨日までの話。

 私も哉朗に応えるかのように、薄い笑みを浮かべながらさりげなく扉に背を向ける。


 ――これで両親からは私の顔は見えない。


 私は笑顔を消し、哉朗の元へ近づく。

 そうして、彼の耳元に顔を近づけてある言葉をささやいたのだ。

 途端に哉朗は獣のような声を上げながら、体を起こし私に飛びかかろうと暴れはじめた。

 兄と後ろから駆け寄ってきた父が、二人がかりで哉朗を押さえつけていく。

 喚き続ける哉朗を見つめ、私は尻もちをついたまま後ずさりで彼から離れる。

 そんな私を母が後ろから引っ張り、立ち上がらせてくれた。

 自分の起こした行動に、震えが止まらない。

 そんな私を背中から抱きしめ、母が「もう大丈夫だから」と腕に力を込める。

 私はその腕にすがりながら、目の前の光景をただ眺め続けていた。

  


◇◇◇◇◇ 



「僕が哉朗に負わせた怪我については見逃す。そのかわりに哉朗がお前にしたことを不問にしてほしい。これが具志谷家からの提案、……というか決定事項だな」


 包帯が巻かれた右手をゆるゆるとゆすりながら、兄は私のベットに腰掛けて見上げてくる。


「仕方ありませんね。相殺そうさいにまで持ち込めたのならばよしと、捉えることにしましょう」

「ふん、だったらもう少し殴っておけばよかったなぁ。哉朗への積年の思いは、全く解消できていないんだけどねぇ。……それにしても、優子」


 言葉を途切れさせ、兄は私の顔を見つめ悲しげな表情を浮かべる。


「上手くいったからよかったものの、今回は本当に危なかったよ。哉朗が謹慎していた部屋から抜け出したのに気づくのがもう少し遅かったら。……お前をもっと辛い目に遭わせてしまう所だった」


 兄に小さく笑みを返しながら私は続ける。


「そのために兄さんに、具志谷家に行ってもらっていたのよ。哉朗の動向を両親に伝えたことで、こうして戻って来て助けてくれたのだから」


 机に置いていたスマホを手に取ると、私は動画を再生し兄へと画面を向ける。 


「このスマホに残されている動画で、これからの乾家に対する具志谷家の対応は随分、変わっていくことでしょうね」

「確かに。これの存在もあって不問ということに出来たわけだものな。勘当する息子とはいえ、この醜聞は具志谷家としては誰にも見せたくないだろうからね」


 くすくすと二人で笑い合い、動画を止めた私に兄が尋ねて来た。


「ところで、優子は哉朗に何を話したんだい? 気が短い男だとはいえ、あれほどまでに怒り狂うとは」


「あぁ」と私は小さく呟くと、兄に顔を近づけて耳元で囁く。


「飼い犬に手を噛まれて、みっともなくワンワンとないて。……あなたこそが犬みたい」


 私の言葉に兄は目を見開く。


「それは……、いやこれは確かに手厳しいな。……でも」


 どうした事か兄は、淡く喜びをにじませた様子で私に笑顔を向ける。


「具志谷家に逆らうことを許されず育ってきたお前が、そうやって自分の意思であいつに言ってやったのが僕はとても嬉しいんだ。……頑張ったんだね、優子」


 兄の言葉に、胸の奥に隠したままでいた感情が零れてしまいそうになる。

 本当にあの言葉を哉朗に伝えるのは勇気が要ったのだ、怖かったのだ。

 けれども心の奥で長い間に渡り、抑え込まれ、縛られてしまっていた鎖を切るために。

 もう従ったままではいないという私の決意と区切りとして、どうしても言っておかねばならない言葉だったのだ。

 語らずともそれを理解してくれている兄へ、自然と私も笑みを返す。

 

「従順な犬だって度を超えれば牙を見せる。それを分からなかった愚かな人が一人消えただけ。それだけの話よね」

「あぁ。もうこんな理不尽な従属関係は、俺達の世代で終らせる」

「幸い弟の良太りょうた君は、哉朗と違って素直ないい子なのよね。きっといい関係を紡いでいけると思うわ。この動画で私の貞操が『守られている』ということも実証できたわけだし。……ふふ、楽しみだわ」

「そうだな。……さて、頑張った子にはご褒美の時間だね」


 柔らかく兄は私を見つめると、手を差し伸べてくる。

 同じように手を伸ばし、その褒美をねだるかのように私は兄へと体を預けていくのだった。

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