軸代

Aiinegruth

第1話 為福

 今日は変わった日だと、そう認識せざるを得なかった。

 卒業式の帰り道のことだ。普段通らない電信柱と塀の間や、曲がらない四辻などを巡って、大学進学に際して離れることになる故郷を見てまわっていた私は、丁度家に戻る最後の角を折れたところで、木の小屋の立ち並ぶ湖畔に一歩を踏み出していた。街の影も形も一瞬で消えたのに驚いていると、背後から音がする。振り向くと、向かってきていた。遠く見える森の木々を圧し折って顔を出した蛾の怪物と、それに追いかけられる同い年くらいの女性が。

 思いっ切り化け物を押し付けられる形になった。しれっと平静な表情で横を走る巫女装束の彼女に聞いたことには、私は渡界朔門山道とかいさくもんさんどうと呼ばれる、よろしくない意味合いでオカルティックな順路を通ったらしい。進行方向に見える武家屋敷の門。ここはさっきまでいた市内の数百年前の過去。お気の毒に、と変化の少ない表情で彼女は区切って、続ける。

「惣門から向こうには入れません、引き付けるので逃げなさい」

「どうやって帰ったらいいか分からない。何だよ、あいつは!」

「何って、白翅しろばねさまだけれど」

「名前は一番聞いてない!」

 私たちが通り抜けたあばら家を弾き飛ばしながら出てくる翼長一〇メートルほどの巨大な蚕――腹部の下は甲殻になっていて、黄色に黒の鋭い女郎蜘蛛の脚が八本生えている――から逃れながら、私は泣きたい気持ちで精一杯叫んだ。

 こんな露骨で非科学的っぽい化け物がいるなら、呪詛とか陰陽師とかがいてもいいはずだ。問うと、後続してくる蛾の放つ爆音に僅かに敵う声で答えが返ってくる。彼女は、わかという名前で、この湖の周囲を管理する異能の一族らしい。

「何か、大切なものをもっている? わたしのは、折れてしまっていて」

 懐から出した刃先の欠けた短刀に目を落とすその暗い表情に押され、鞄を開く。大切なもの、と思って何かを探す前に出てきたのは、卒業証書が入った筒だった。

「うん。しんぎとして悪くない。それを地面に刺して」

 いや、筒は乾いた地面には刺さらんだろ、と呟く令和の理性を抑え、化け物に向き直って得物を振り下ろした私だったが、――ずぽんと刺さった。刺さって、私たちを中心とした大地に半径一〇メートルほどの墨塗りの奇怪な幾何学模様が現れる。端に子、丑、寅……など、干支で見た字と見てない字が二四個ほど記されたその八角形の陣を私は知っていた。風水羅盤ふうすいらばん。家を建てる際、水回りの場所とか決めるときに使う運勢のあれだ。筒がぐるんと回って、うしとらの字が蛾の方を向く。

 白翅しろばねさまが鬼門の方角じゃなくなるようにしんぎを回して! 言うとおりにした方が早いだろうと思い、側面を握って捻るが、蛾の災厄の力が強すぎるために、うんともすんとも動かない。

「本来こういった自然のそうさまは十分に言祝ことほいでから転じるんですが、機嫌が悪すぎて全然聞く耳を持ってくれなくて」

 案の定無理だったか、というような感じで同じく筒を握ったわかが叫ぶ。蛾は腹の下の蜘蛛の脚で少し離れた大木に登ると、そこから飛び立って、私たちの上を旋回する。うしとらひつじさる、対角線上の鬼門と裏鬼門を怪物の方に向けながらしんぎはぐるぐる回りはじめ、二人とも大きく振り飛ばされる。天地を巡る視界。痛い。鞄と共に近くの木に叩きつけられ、打撲傷を残した私の腕を見て、同じく髪の乱れたぼろぼろの巫女服の彼女は覚悟を決めて口を開く。

きこせ。かくもかしこ周防すおうそうよ。――われは軸代じくしろ方位ほうい守人もりとさかええひこばえ、八卦の巡りに、禍殃かおう汚穢おあいを転じもうす」

 筒を幹にして水平の果てまでを覆う、巨大な枝垂桜しだれざくらが生える。聞き届けられない以上、この転禍為福卜てんかいふくぼくの形を造ってもそこまでだったはずだが、事態は止まらない。

 地鳴り。見渡す限りの草原や湖の水面が複数細長く隆起したあと、土と水を払いながら電信柱ほどの大きさの岩石の塔が顔を出す。塵を裂いて伸び上がる数百本の列柱。名を、高殿脚たたらあしさま。この土地の神格の一つのそれは、天に座す桜の枝を掴まえて、ごんっと力強く時計回転方向に押し始める。脚一本一本の付け根に開いた眼が驚いた様子で視ているのは、筒のフタが外れたせいで、天を舞う私の卒業証書だ。


 令和4年3月31日 

 瑚守こもり 幸子さちこ


「――今日、高校を卒業しました」

 淡い色の花弁の散るなかで、もう危機感はなかった。近くの神社にしたように、この場の全てに報告しながら、私は彼女と共に筒に手を添え、桜の幹を、回した。弾ける音に合わせて、白翅しろばねさまに辰の方角が向く。風が全ての影を薙ぎ、気付いたときには、もふもふとしたひとほどの大きさの蚕だけが眼前にいた。


 草華そうか、それほど津洲つづいてか。

 仔ら、糸は。


 軸代じくしろの鎮めの役割は、これで完了したらしい。

 私は冷静を取り戻した白翅さまに乗って方角を確かめながら山道を遡り、気付けば自宅についていた。仏壇に置かれた瑚守家過去帳かこちょう。わか、と呼ばれる一八代前のご先祖様の名前を人差し指でなぞりながら、私は眠りについた。



 


 




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