すべて孤独は音もなく倒れる

ぶざますぎる

すべて孤独は音もなく倒れる

[1]

 曩時、真夜中に目が覚めて、私は全身の自由が利かなくなっていることに気がついた。金縛りかとも思ったが、待てども待てども硬直は解けない。その裡に夜が明け、カーテン越しに外の明るさが伝わってきた。

 尿意を催した。体が動かない。転帰、尾籠な話で恐縮だが、私は失禁した。

 それから少しすると、部屋の外から通学する子どもたちの声が聞こえはじめたので、おそらく8時くらいだったと思うが、急に激しい頭痛が生じた。相変わらず体の自由は利かない。外では子どもたちが元気よく近隣住民に挨拶をしている。そんな平和な世界から壁1枚隔てたこちらでは、体を硬直させ、服と布団を尿で濡らしながら、頭が割れんばかりの痛みに苦しむ私が、みじめに独臥しているのであった。

 吐き気を催した。

 胃の内容物が喉元へ移動してくるのが判った。だが、どうしろというのか。私は相変わらず体が動かなかったし、ひどい頭痛のせいで意識もハッキリとしなくなっていた。

 私は吐いた。

 仰向けに寝た状態の、かつ体の自由が利かない人間が吐いたらどうなるか。

 自らの吐瀉物で窒息するのである。実際、私は息ができなくなった。

 頭痛、硬直、窒息の三重苦。私は泣き始めた。

 虚しく、情けなかった。おれはこんな惨めに死ぬのか? 急に体の自由を失い、失禁し、尿まみれの布団の上で、激しい頭痛に襲われながら、自らのゲロで喉を詰まらせて、独りでくたばるのか?

 その時分、私は無職だった。ここで死んだとして、当分死体は発見されないだろう。夏の盛りだった。発見される時には腐敗も大分進行しているだろう。私はぶざまな死に方をして、死した後も腐乱した惨めな姿を人々に見られ、二重に恥を掻くはずだった。

 その裡に私の脳は、誰にも看取られず、独りでぶざまに死んでいくという現実に、耐えられなくなった。現実逃避だろう、過去の記憶が、頭の中に蘇った。

 今思えば、走馬灯というやつだったのかもしれない。


[2]

 私の父は転勤族だった。

 父は単身赴任という選択肢を取らなかったので、子どもの私も彼につき合うことになり、県を跨いだ引っ越しと、それに伴う転校を何度も経験した。いい歳になった今になって、そのことを恨みがましく叙したり、親を責めるつもりはない。そんなことをしても現況は変わらない。それに父は既に亡くなっている。誰も私の人生の責任をとってはくれないし、代わりに私の人生を生きてはくれない。

 とは言い条、やはり子供時分の私は辛く苦しい思いをしたのであり、そういった経験は人格形成に大きく影響したし、そうして作られた人格によって先述したゲロまみれの境遇に至ったことを考えれば、少しくらいの自己憐憫は許されるのではないかと、甘ったれたことを思う。

 父は厳しい人間だった。躾の際にしばしば打擲を用いた。そのせいかは識らぬが、子ども時分の私はいつもオドオドしていた。この性質は、今に至るまで改善されていない。

 斯く人間は舐められやすい。已往、学校でも職場でも、私は他人から、小馬鹿にした態度をとられることが多多あり、ひどい時には、いじめやパワハラの対象にされた。

 転校に話を戻そう。既に人間関係ができあがっている空間に、ただ独り乗り込む、不安と恐怖。私は何度も転校したが、結句、これに慣れることはなかった。

 今まで全く関係のなかった集団に馴染むのは大変なことである。生来の愛嬌や魅力がある人なら、転校先でもすぐに馴染むことができるだろう。だが夙に述べたように、私はひどくオドオドとした子どもだった。それに器量も悪かった。自己弁護するわけではないが、公平に見ても私は最大限の努力をした。だが、根暗な人間が何をしたところで空回りをするだけ、結局それで悪目立ちをしてしまい、嘲笑やいじめの標的になってしまうのだった。そういうことを何度も、転校のたびに繰り返したのである。


[3]

 中学2年生の時分、私は父に連れられてN県からS県へと転居し、そこのT中学校へと転入した。少し荒れている中学校だった。クラスの担任に連れられて教室に入った私を、クラスメイトたちが見つめた。その裡少なからぬ生徒が、露骨に落胆した表情を浮かべた。この反応には慣れていた。

 クラスに転校生がやって来ると聞くと、学生たちは心躍るらしい。女子生徒は格好好い転校生を、男子生徒は可愛い転校生を心待ちにする。

 併し、そこに現れたのはオドオドとして俯き加減の、どう見ても外見的魅力を欠いている、薄気味の悪い男子生徒。彼らの落胆も理解できる。

 それでも、クラスの新入りというだけである程度の興味をひくものらしく、転校の初日に限っては、私の周りも人で溢れた。ただ、子どもというのは正直というか残酷なもので、私が何の魅力も面白味もない人間だとバレると、翌日には誰も私に興味を示さなくなる。ときたま、世話焼きの生徒が甲斐甲斐しく色色と面倒を見てくれるが、その生徒にも既存の人間関係がある以上、私にばかり構うわけにもいかない。私もできる限り明るく積極的に振舞うが、根暗な人間が無理をしているだけなので、他の生徒からすれば、どこか違和感を覚える薄気味の悪い存在にしかなれない。

 ひと月もすると、私はクラスで浮いた存在になり、転帰としていじめの標的になった。同じクラスにいたMは、大変に質の悪い生徒だった。至る所で横暴の限りを尽くし、教師に対しても反抗的に振舞っていた。そのような悪行を支えていたエネルギーが、私をいじめの標的にすることで、私だけに集中することになった。

 教室にいれば暴言と暴力、教室を離れれば荷物や机に嫌がらせをされる。いじめ自体はそれ以前もそれ以後も経験したが、Mにされたいじめが一番つらく、ひどいものだった。

 既述の通り、父はとても厳格な人で、私は父を恐れていた。而して、家でいじめのことを相談することはできなかった。それに、いじめられた経験がある人なら分かると思うが、他人にいじめ被害を告白するというのは、なかなか踏ん切りがつかないものである。

 今思えば、教師もいじめに気づいていたのだと思う。私はクラスメイトの眼前でMからいびられていたので、なかには教師へ報告した生徒もいたはず。それに、私は教室でMから暴力を揮われている最中に、廊下を通り過ぎる教師と目が合ったことがある。その教師はすぐに目を逸らして立ち去ってしまった。

 恨みがましく書いてしまったが、今になって教師やクラスメイトを糾弾するつもりはない。人にはそれぞれ事情がある。私がクラスメイトの立場だったとして、いじめに介入する勇気はなかっただろうし、教師の立場だったとしても、さすがにいじめを目撃して無視をすることはないだろうが、うまく立ち回る自信はない。


[4]

 閑話休題。いじめられて転帰、Mを避けるため、私はできるだけ教室を離れるようにした。そして大概、業間は図書室に逃げ込んでいた。Mに悪戯をされないように、荷物をまとめて身に着けて移動した。他の生徒からすれば、さぞ奇妙な姿をしていただろう。

 その裡、ヨシダという女生徒と顔見知りになった。彼女は3年生だった。彼女は少し動いたり喋ったりするだけでゼェゼェとした。気管支が悪かったのだろう。彼女自身、自分は体が弱いのだと語ったことがあった。図書委員だったらしく、昼業間にはよく図書室に居た。

 仔細は忘れたがある日、ヨシダの方から話しかけてきたのだった。

 今思えば、いつも奇妙ないで立ちで図書室に来る私の姿を見て、彼女も色色と察したのだろう。気の毒な下級生を労わるつもりで、優しさから話し相手になってくれたのに相違なかった。実際、彼女はとても優しい人だった。

 私とヨシダは本の趣味がまるで違った。私はホラー好きで、ヨシダはファンタジーのファンだった。だが夙に述べた通り、彼女は優しい心根の鷹揚な人間だった。ロクなコミュニケーション能力を持ち合わせていない私に合わせて話をしてくれた。当時の私は根暗な人間特有の、調子に乗ると相手を無視して自分の好きなことだけ話しまくるという悪癖を発揮していたが、それでも彼女は優しく傾聴してくれたのである。

 それまでの人生の中で、私は女性からあれほど優しくされたことはなかった。そして向後も、されることはないだろう。


[5]

「叔父さんから幽霊の話を聞かせてもらったよ」

 ある日、ヨシダが言った。

 叔父が家に遊びに来た際に、怪談を聞かされたのだという。それが本当なのか嘘なのかは判らない。ただ、確かに言えるのは、ヨシダはホラー好きの私のために昼業間の時間を割いてまで、その話を聞かせてくれたのであり、話の真偽に関わらず、彼女の優しさと思いやりは本物だった、ということである。


[6]

 ヨシダの叔父は若い時分、ある友人を事故で亡くした。

 二人は幼いころからずっと仲が良かった。

 生前、二人でこんな約束を交わしたのだという。

「幽霊がいるかどうかを確かめるために、先に死んだ方が化けて出ようぜ」

 叔父は友人の死を知らされた際、その約束を思い出した。

 爾後、ことあるごとに友人との約束を思い出した。

 友人は現れなかった。一向に現れない友人への苛立ちを覚えた。復、所詮幽霊なぞおらず、死によって人は永遠の懸隔で分かたれ、救いもなにもあったもんじゃないという、なかば自棄な気持ちも生じた。

 齢を重ねるなか、諦観めいた気持ちを抱きながら、叔父は友人の墓参りを欠かさなかった。気づけば中年になっていた。

 ある時、友人の墓参りをした際、墓石を目の前にして、怒りが生じた。

 友人に約束を反故にされたのだという稚気めいた癇癪と、死後の無に対する恐怖が起こしたパニックが混ざり合ったような感覚だった。

「ほんとによ、なにもかも、なにもかも、クソみてえだな」

 そういって叔父は友人の墓を足蹴にした。

 直後、自らの横暴に血の気が引き、ごめんと呟きながら、蹴った場所を必死になって布巾で拭いた。

 その日の深更。叔父は布団の上で目覚めた。部屋は真っ暗。足元に気配がする。叔父は一人暮らしだった。

 足元のなにかは強烈な存在感を発しており、夢や幻覚の類とは思えなかった。

 叔父の体は動かなかった。金縛りらしい。

 はな、恐怖に身が竦んだ叔父だったが、直ぐにその恐怖は和らいだ。

 予感めいた確信があった。

「〇〇、お前か?」

 叔父は足元のなにかへ、友人の名前を呼びかけた。

 足元のなにかが呼びかけに反応する気配があった。叔父は、姿は見えないなにかが、足元から枕元へと移動するのを感じた。

 叔父の耳元で囁きがあった。

「おれはずっと、居たんだぞ」


[7]

「見えないだけで、私たちの周りにも幽霊がいるのかもしれないね」

 話を終えてヨシダは言った。

 私は、彼女の言葉に思わず背筋が冷え、自分の傍にも、もしかしたら幽霊がいるのではないかと思い、辺りを見回した。

 併し、ヨシダは私を怖がらせるためにそのようなことを言ったのではなかった。

「もしかしたら、私の周りでは幽霊が何かを訴えてるのかもね」

 ヨシダはどこか申し訳なさげな口吻で言った。

「誰にも気づかれなかったり、無視されたりしたら、悲しいだろうね」


[8]

 ヨシダのその言葉を想起した処、私は自らの吐瀉物と尿で汚れた布団の上で、目覚めた。

 意識を失った際は仰向けだったが、目覚めた時にはうつ伏せになっていた。どうやら識らぬ間に金縛りは解け、無意識のなかで私は何とか寝返りをうち、生きようと藻掻いていたらしい。

 部屋は真っ暗。カーテン越しにも外の暗さが判った。

 私は部屋の電気をつけた。時計を見ると20時だった。部屋は惨憺たる有様。洗面所に行って鏡を見た。これ復、凄惨言語に絶すといった顔。漏らした尿のせいで部屋も体も悪臭を放っていた。とりあえず風呂に入ってから部屋を掃除しなければ。布団も洗わなければならない。幸い、無職で孤独な身、時間だけは腐るほど用意されていた。

 風呂を済ませて直ぐ、部屋の掃除に取り掛かった。気分が滅入っていたのでテレビをつけた。馬鹿みたいに明るいバラエティが好い。私はザッピングして適当な番組に回した。

 己の吐瀉物と排泄物に汚れた部屋と布団を片付ける私の脳裡に「誰もいない森の中で木が倒れたら音はするのか」という有名な言い回しが浮かんだ。

 森の中で木が倒れても、観測者がいなければ倒ようと倒れまいと同じことである。

 テレビでは若く華のあるタレントたちが、綺麗なスタジオで楽しそうに笑っていた。私の現況とは真反対のように思えた。そして私の苦しみは誰にも気づかれていないし、そういう意味でおそらく、世界にとって存在しないものだった。

 併し、テレビに映る笑顔のタレントたちも復、人識れずに苦しんでいるのに相違なかった。

 斯く詮のないことを考えながら、私はヨシダの優しさをしみじみと思い出し、向後二度と、あのような優しさを受けることはないのだろうなと自嘲めいた気持ちになり、薄気味の悪いニヤニヤ笑いを口元に浮かべ、部屋の掃除を続けたのであった。


[9] 

 おそらく今も、どこかの森で木が倒れているのだろうが、私にはその音が聞こえない。

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