本文


 少女が走っている。

 少女は旅人の姿だ。かぶっていた笠はすでに落ち、白髪をさらして走っている。山中の道なき道を、前へ前へと走っている。


山は鬱蒼と深かった。杉が生え揃っていたかと思うと、広葉樹になる。そうかと思うとヤブが続いて、苔むした石がいくつも露出している。


 深い山を、月がひとつ照らしている。青い光が木々のあいだから差す。


「はぁ、はぁ……!」


 少女――ツバキは追われていた。

 追手ははるか後ろのはずだ。しかしいずれは追いつかれる。すでに回り込まれているかもしれない。彼らの方が、この山には詳しいだろうから。


 道は頼りにならない。ツバキはひたすら、月光に導かれるように走った。


「あ……っ!」


 少女はつまづいた。目の前の段差に足をとられる。小柄な体は前方に一回転した。山の斜面を落ちていく。地面を覆った落ち葉が、波のように弾ける。


「きゃあ……!」


 ごろごろと転がって、ヤブの塊に突っ込む。

 ヤブの中の岩にぶち当たって、ようやくツバキの体が止まった。


「いたた……」


 落ち葉まみれになった体を持ち上げる。

 ツバキはあたりを見回した。ヤブの向こうは、洞穴になっていた。

 ずいぶんと苔むした洞穴だ。わずかな月光を、苔の濡れた表面が反射している。


「こ、ここは……?」


 ツバキは夜目が効く。あかりがなくとも、洞穴の様子は見えた。

 洞穴の中には、小さな祠がある。誰も参ったことのないような、古ぼけた祠だ。ほこりが積もり、端には苔が生えている。


 祠の向こうには、御神体だろうか。これまた苔むした石像のようなものがある。大きな石像だ。大きく両手を広げた石像は、異国の救世主のようでもあった。だが顔はよくわからない。苔が濃く生えすぎている。


「ここにいたのかい、お嬢ちゃん?」


 ツバキはハッとして振り向いた。

 追手だ。複数の男が、洞穴に入ってくる。彼らもあかりは持っていない。彼らもまた夜目が効くのだ。

 追手たちは武装している。打刀や弓、それに銃だ。銃は旧文明からの貴重品で、少女ひとりを追うには仰々しいものだった。


「へぇ、そんな顔だったんだな。美人じゃねぇか」


 追手のリーダー格が、鼻を鳴らした。

 ツバキはたしかに美醜で言えば美しい。髪は肩までの長さで、白絹よりも抜けた色をしている。儚げな容貌は、大きな淡青色の瞳で彩られている。肌は白く、傷ひとつない。山中をこけつまろびつ走ってきたとは思えない様子だ。


「…………」


 ツバキは声を出さずに、一歩下がる。だが逃げ場はない。祠は身を隠せないほど小さい。石像のうしろはすでに壁である。逃げ場も隠れ場もない。

 その時。


 ――ゴルルル……。


 唸り声がした。大型の肉食獣の声に似ている。外からだ。


「五衰だ」

「五衰の怪物だ」


 追手の男たちが騒ぐ。銃を構え、あちこちを見回す。


「落ち着け、距離は遠い。俺らじゃねぇ」


 追手のリーダー格が一喝する。

 

「しかし、シロク殿」

「ビビってんじゃねぇ。てめぇら放免兵だろう。今さらバケモノに怯えんじゃねぇ」


 シロクと呼ばれたリーダー格は、刀を抜き払う。山中でも取り回しやすい、短めの打刀だ。シロクの様子に、追手――放免兵たちは落ち着きを取り戻す。彼らもまた打刀を抜いた。数は七人。


「とはいえ、こいつもバケモノかもしれねぇな?」


 シロクは笑った。ツバキに向かって一歩前に出る。

 ツバキはまた一歩、後方に下がる。祠にぶつかりそうになる。


 ――ゴルルル……。


 異変が起きた。

 洞穴を塞ぐヤブから、すさまじい勢いで何かが突っ込んでくる。

 それは巨大な獣の手だった。毛むくじゃらの手が放免兵のひとりをつかむ。ヤブの中へと引きずり込む。


「ギャアアア――――ッ!!」


 つかまれた放免兵の悲鳴が上がる。銃声が響く。ヤブの向こうが一瞬明るくなる。

 まもなく音と光は消え、咀嚼音が響く。


「まさか……!」


 シロクたちに動揺の色が広がる。恐怖の色さえある。

 ヤブが折れる音がする。バキバキと音がしたかと思うと、ヤブが割れる。洞穴の中にヌッと入ってきた者がいる。


「出た! 丹色だ!」


 怪物だった。

 全身は巨大な猿のようであり、白色の毛に覆われている。腕は六本、長い。脚は二本で、丸太のようだ。背中には翼が畳まれている。顔は人間じみていて、ひたいの毛だけが赤色をしている。


「ゴアアアア……」


 丹色と呼ばれた怪物は、胸元が紅く染まっていた。すると胸元がモコモコと動き、バカリと割れる。口だ。

 怪物は胸に開いた口から、ベエとなにかを吐いた。刀や銃――放免兵の装備だ。先に襲われた放免兵が食われたのは、間違いなかった。


「うお……うおおおおおッ!」

「殺せッ、殺せェッ!!」


 放免兵たちは丹色に向き直り、銃を発砲した。火薬の起こす光が怪物を照らす。何十発という発砲。硝煙が洞穴に満ちる。嫌な臭いが充満する。


「グルル……」


 丹色は弾丸を避けようともしない。次々と着弾する。白い毛がわずかに血飛沫を上げる。

 やがて放免兵たちは弾切れを起こした。モタモタと装填する。

 その一瞬を、怪物は見逃さない。八本ある肢で地面を蹴った。巨大な肉体が、放免兵たちに襲いかかる。


「ガアアアアアアアッ!」


 怪物の胸元の口が、放免兵のひとりにかじりついた。放免兵の上半身が食われる。下半身だけがヨタヨタとたたらを踏み、血飛沫を上げて倒れた。


「おおおお――!」


 放免兵たちの雄叫びが上がり、怪物に反撃する。銃を発砲する。

 だが怪物はびくともしない。無造作に腕を振り上げる。またひとり、放免兵の首が飛んだ。


「あ、ああ……」


 洞穴の奥、石像の前でツバキは呆然としていた。両脚に力が入らない。腰から下にまるで感覚がなくなったようだ。


「ぎゃあ――ッ!!」


 あっという間に、放免兵たちは六人が殺された。洞窟の中が静かになる。

 怪物は放免兵たちの亡骸をむさぼり食う。胸元の口で亡骸を砕き、噛みちぎっている。


「グルル……」


 胸元の口で咀嚼しながら、怪物が頭をもたげた。ゆっくりとツバキの前へと進み出る。


「……ひっ」


 ツバキは息を呑んだ。祠の横でへたりこむ。

 怪物はかまわず近寄る。濃い血の臭いが、硝煙で満ちた洞窟の中で濃くなったような気がする。


「フーッ……フーッ……」


 怪物がツバキの目の前までやってくる。人間じみた顔が、ツバキのそばに寄る。何度もツバキの匂いを嗅ぐ。生臭い吐息が、ツバキの全身に吹きかかる。

 ツバキは恐怖で固まった。肉体は氷のようにひきつり、脚に力が入らない。


(こわい……!)


 ツバキは硬直する思考の中で、かろうじてそう思った。

 その時。


「ガ……!?」


 怪物の左腕――その一本に、刀が突き刺さった。放免兵の打刀ではない。もっと長い刀が、ツバキの後方から突き出している。


「え……!?」


 ツバキは振り返った。

 石像だ。苔に覆われた石像が、太刀を突き出している。


「機能限定解除、人格反転、夜雀起動」


 石像の内側から、そんな声がする。石像がゆっくりと腕に力を込める。太刀が怪物の腕に潜り込む。


「ガアアアアアアアッ!!」


 怪物が咆哮し、飛び下がった。太刀の突き刺さっていた場所から出血する。


「グルルルルルッ!」


 怪物が威嚇するように喉を鳴らす。

 石像は一歩、前に出た。ボロリと苔が落ちる。一歩、また一歩と前に出る。ボロボロと苔が落ちる。


「あなた……は……」


 ツバキは見た。

 石像と思っていたのは、大柄な人間だ。苔の中から、ボロボロの格好をした人間が出てくる。頑健そうな肉体に、ボロボロになった布地が引っかかっている。


「…………」


 その者はツバキに答えない。炯々と光る眼が、ただ怪物を見据えている。紫がかった金色の眼だ。暗闇の中で、まるで発光しているようにも見えた。

 ひときわ厚く積もった苔が、その者の顔からボロリと落ちた。


「あ……!?」


 ツバキは思わず声を上げた。

 その者の顔は、人間ではなかった。尖った鼻先、尖った耳。鋭い目元に、口元からのぞく牙。狼の顔だ。


「人狼……!?」


 人間ではない。人の肉体、狼の顔。全身を黒銀色の毛に覆われた、人狼だった。


「ガアアアアアアアッ!」


 怪物が咆哮する。

 同時に、人狼が突っ込んだ。その手の太刀を振るう。


 ――ザン!


 怪物の白毛が飛び、肉の削れた音がする。

 血飛沫が霧のように立ち、怪物がたたらを踏んだ。背を向けて、洞穴から飛び出す。その後方から、人狼が追いかける。


「ああ……!」


 ツバキは呪縛が解けたように、脚に力を入れた。逃げるにしても、洞穴から出るしかない。ふたつのバケモノが切り開いたヤブに向かう。這うように出る。


 暴風に似た音がして、ツバキはハッと見上げた。

 月だ。青色の月がひとつ、空に浮かんでいる。

 月影に照らされて、ふたつの影が木々のあいだを飛ぶ。ひとつは五衰の怪物、もうひとつは人狼だ。


「ガアアアアアアアッ!」


 怪物は人狼に、二本の前脚を突き出した。人狼は太刀でその腕を防ぐ。ふたつの者はガッチリと組み合いながら、地面に落ちる。

 怪物が人狼に対して、上になる。怪物の胸にある口が、ガチガチと歯を鳴らした。その顎を、人狼は蹴り上げる。怪物の牙が何本か折れて、下草の中へと落ちる。


「――ふっ!」


 人狼が気合を入れて、怪物を下からすくい投げる。怪物の巨大な体が離れ、山の坂を転げ落ちる。太い杉の木に、怪物は背中を打ち付ける。


 人狼が体勢を立て直す。右手に太刀、背中にその鞘を帯びているのがわかる。


「…………」


 人狼は背中から鞘を引き抜いた。太刀を納める。


「な……!? どうして……」


 ツバキはその様子を、ただ見守るしかない。人狼の行動がわからない。強大な敵を前に、武器を納める理由は推察できない。


「――濤波の剣、能力限定解除」


 人狼の口から、そんな声が漏れた。

 青い月の光が、人狼の上に落ちる。黒銀色の毛が、ちりちりと光っている。まるで青白い瓦斯の燃えるように。まるで月下に降る雪粒のように。

 人狼は鞘に入った太刀を構え――抜き払う。


 突風だった。抜き払った太刀から、旋風のように斬撃が繰り出される。刀の軌道も見えない速さで、斬ったという事実が怪物に襲いかかる。


「ギエエエエエエ……!」


 怪物の毛が、皮膚が、斬れる。血飛沫が上がる。怪物は、体勢を立て直すこともできず、ただ斬られる。


「あ……」


 ツバキの喉に、熱が宿った。出したい音がある。伝えなければならない言葉がある。


「待って!!」


 ツバキの高い声が、森を貫いた。同時に、彼女が帯びていた鈴が鳴る。


 ――りん。


 わずかな音は世界の空気を変える。斬撃が止まる。人狼は必殺の構えのまま、ツバキに視線をやる。


「ガアアアアアアアアアアアッ!!」


 怪物はひときわ大きな声で咆えた。血まみれになった肉体を立て直す。ガチガチと胸元の口を鳴らす。背中の翼を広げ、杉の木を昇っていく。

 バサリと大きな音を立て、怪物は空へと飛び立った。青い闇の空を、すさまじいスピードで飛び去っていく。


「あ……」


 ツバキはヨロヨロと何歩か前へと出た。怪物の去った方角を、ただ見つめている。


「おい」


 呼びかけられる。ツバキはハッとして、呼びかけた者を見た。人狼だ。太刀を鞘に戻しながら、人狼がゆっくりと歩いてくる。


「なぜ、じゃまを、した」


 人狼が問いかける。狼の口から発せられた言葉は、どこかたどたどしい。

 ツバキは固唾を飲み込み、言葉を選ぶ。


「殺さないで」

「なぜ」

「……あれは、人だから」


 ツバキは迷いなく、怪物を「人」と呼んだ。

 人狼の眼が見開く。そしてスッと細くなった。どさりと地面に腰を下ろす。太刀をついて、あぐらをかく。


「あ、あの……」

「つかれた」


 人狼は短くそう言うと、ガクリと頭を垂れた。

 ツバキは慌てて、その顔をのぞき込む。人狼は肩を揺らしながら、息を立てている。眼は閉じており、眠っているようだった。


「ああ……」


 ツバキは緊張感が緩むのを感じた。疲労感が全身に押し寄せ、おのれもまた腰を下ろす。

 人狼の隣で、その顔を見る。恐ろしげな狼だ。だが眠っている今は、穏やかな気配に満ちている。


『能力限定、夜雀人格を封印。主人格に変換』


 そんな声がして、太刀が一瞬きらめく。正確には、太刀の柄からぶら下がる、根付が光った。


「あ……!?」


 ツバキは思わず声を上げた。

 人狼の顔が、徐々に狼の顔でなくなっていく。毛はなくなり、まつげが現れ、鼻が短くなる。牙は隠れ、人間の男の顔になっていく。


「本物の、人狼……」


 ツバキはおそるおそる、男の顔に手を伸ばした。ふれると、皮膚の感触がする。自分と同じ、人間の皮膚の感触だ。あたたかみがある。


「ああ……」


 ツバキの視界が、グラグラと揺れ始める。疲労が極限に達しようとしている。目を開けていられない。姿勢を保つこともできない。

 ツバキは意識を失った。人狼の男のあぐらに顔を突っ込んで、眠ってしまう。


 月がずいぶんと傾いていく。青みを帯びていた月は色を失い、白くなっていく。

 朝が近い。


「なんだ、あいつぁ……」


 洞穴から、人影がひとつ這い出てくる。ツバキの追手――シロクだ。あの混乱の中で生き残ったらしい。折れた打刀を鞘に納める。


「なんだ、あいつは!」


 シロクは、朝を迎えようとしている山に叫んだ。誰も応じない。人狼もツバキも眠ってしまっている。


「なんだ、あいつ、なんだ!?」


 狂ったように何度もつぶやき、シロクは踵を返した。山を下るルートを取る。そのまま駆け下っていく。まるでツバキのことなど忘れてしまったかのようだ。


 山はすべての混沌を飲み込み、朝の光へと照らされ始めた。

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④オクリオオカミ 南紀和沙 @nanayoduki

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