――未来語り―― 胸には星を、瞳には太陽を

――未来語り―― 胸には星を、瞳には太陽を

 鐘の音が鳴り響く。

 澄んだ音色は福音と言われるけれど、それはそれ。日常の中では時を知らせる音として、人々の日々の暮らしに溶け込んでいた。朝、昼、夕と、今日も一日の終わりを告げる三回目の鐘が鳴る。

 教会内にいればどこにいても聞こえる音に、少女は顔を上げた。鐘の音が茜色の空にこだましている。六回ほど鳴り響いた鐘の余韻が、まだ夕焼け空を漂っているようだった。少女は残響に耳を傾けながら、夕方の掃除を切り上げる。

「ねえ!」

 掃除用具を片付けていたら、背後から突然呼びかけられた。振り向くと、少女と揃いの衣服を着ている娘が洗濯籠を手に息を切らしている。

「なにごと?」

「洗濯物を取り込んでいたら、上の階から落としてしまって。用具小屋の屋根に乗っかってしまったのだけど」

 見上げれば、今しがた箒をしまった小屋の上に手ぬぐいが一枚落ちていた。風にでもあおられたのか、上階にある干し場からずいぶん離れていて、小屋の屋根に乗り移れる建物は隣接していない。屋根のほぼ真ん中に落下してしまっていて、木の枝や箒の柄で引っ掛けて落とせるものでもなさそうだった。

「梯子ってあったかしら。誰か応援を呼ぶ?」

 おろおろとする娘の肩を叩きながら、少女はにこりと笑った。

「大丈夫。梯子も応援もいらないから」

 少女は小屋のそばに植わっている木の肌を撫でた。枝ぶりはしっかりしているし、距離もちょうどいい。

 少女は飛び上がって頭上に伸びた枝を掴むと、あっという間に木を登っていく。そしてそのまま、難なく小屋の屋根に飛び移ってしまった。


「とれたよ!」

 少女は手にした手ぬぐいを、地上の娘に掲げて見せた。

「あ、ありがとう……だけど、危ないから早く降りて!」

「平気なのに、これくらい」

 そう言って少女は屋根のそばに伸びる木の枝、ではなく、屋根の縁まで歩み寄る。何をしようとしているか娘にも想像がついたようで、さあっと顔が青くなった。

「飛び降りるなんて、絶対だめ!」

「大丈夫、大丈夫」

「梯子を持ってくるから、だからお願いそこに――」

「シスター・リザ!」

 鐘よりも迫力のある声が響き渡った。

 少女――リザは、地上から睨み上げてくる老女の姿に顔を引き攣らせる。

「泥棒じゃないのですから、そのような真似はおやめなさい!」

「……はーい」

 リザは素直に返答する。

 確かに怪盗業は引退しました、とは言わないでおいた。


「まったく、あなたは。元気なのは結構ですが、屋根から飛び降りるなんて言語道断ですよ」

 夕日の名残が差し込む回廊を、列になって歩く。廊下の敷石に落ちる柱の影を眺めながら、リザは老女のお小言に耳を傾けた。

「けれど院長先生、リザは私が屋根に落とした洗濯物を取ってくれたんですよ。それに屋根に登っただけで泥棒呼ばわりは、いかがなものかと思いますけれど」

 意見を述べた娘を一睨みし、老女――修道院長は息を吐いた。

「だからって、危険行為を容認はできないでしょう。それに最近、修道院の周囲で不審者も目撃されていますし……簡単に屋根に登れる場所があるなんて、よくよく気を付けないと」

 院長の憂い顔に、リザの心臓がきゅっと縮む。

「リザは本当に簡単に登っていたわね。ここに来る前に学校とかで、何か競技や体を動かすようなことをしていたの?」

「むやみに人の過去を尋ねるのはおやめなさい」

 笑ってごまかそうとしていたリザに思うところがあったのか、院長はぴしゃりと言った。

「この修道院では、生まれも身分も、経歴も過去も問いません」


 あの、怪盗エリザベス最後の夜のことを思い出す。

 オスカーが連行され、リザもきっと逮捕は免れないのだろうと思った。現行犯だけに絞っても、別荘への不法侵入もオスカーへの殺意も、言い逃れようもない事実だったから。

 傷つけた人がいる、迷惑をかけた人がいる。この上さらに人の命まで奪っていたとしたら――リザは確かにニックに救われていたのだと、震える腕を抱きながら実感した。

 リザは生涯、あの男を許さないだろう。それでも己まで同じ穴に落ちてはいけなかったのだから。

 この先の未来を歩んでいくという事は、過去を背負って生きていくという事だ。

 怪盗の過去を背負ったリザが辿り着いたのが、エレクトレイのはずれにある修道院だった。

 正義を重んじるニックが、リザのために何をどう取り計らい、立ち回ったのかはわからない。不正とか虚偽とか、彼の真心や経歴に傷をつけるものでなければいいと思う。

 ともかくもリザは素性も問われぬまま修道院に身を置いて、三年と少しの時を過ごした。

 祈りと奉仕の生活が、どれほどの罪滅ぼしになるかはわからないけれど。

(それでも生きていくんだもの)

 リザ・ブライトマンという、ただ一人の存在として。


「……そして、年齢でも区別したりはしませんけどね」

 まだ続いていた老女の説教に、リザは影を追っていた目線を正面に戻す。

「それでもいつまでも落ち着かないのは、いかがなものかと思いますよ。あなたはここに来た時から、あまり成長が見られないようですけれど」

 それは中身のことなのか、それとも外見を示すのか。真意を測りかねて、リザは冷や汗を浮かべた。

「ここのお食事は質素なので、身長に回す栄養が……」

「食べる物に文句をつけるなんて、罰当たりです!」

「洗濯物、片付けてきますっ」

 リザは隣を歩く娘から洗濯籠を奪い取って、すたこらその場から逃げ去る。

「建物内を走るものではありません!」

 廊下の先から、うっすら夕餉の香りが漂って来ていた。




 月明かりだけでは足りなくて、リザはランプを引き寄せた。

 窓ガラスの向こうには満月が輝いている。窓際の壁にぴったりと寄せた机につきながら、リザは日中届いた手紙を読んでいた。

 たまたま同日に届いた二通の手紙は、それぞれコリンとニックから。

 コリンは今、信頼できる画家に師事して修行生活を送っている。

 その人は画家であったコリンの父を知っていたらしい。ニックがコリンに本当に身内はいないか探していた流れで、その画家と繋がったのがきっかけだ。

 コリンは最初、ニックの働きかけで紹介されたことに不満があったらしく、手紙にも素直になれない心情が綴られていた。けれど師匠には絵画の教えを受けるだけでなく、生活面でもずいぶん面倒を見てもらっているようで。

「『でも先生は家事が壊滅的にできないので、結局僕が頑張ってます』、か」

 一緒に過ごしていた時のような、生き生きとしたコリンの毎日を知るとリザも嬉しくなるのだった。

「ニックさんも結構、筆まめよね」

 ニックからの手紙も、コリンと同じように高い頻度で送られてくる。

 堅苦しい時候の挨拶から入って、季節のうつろいや日々のなんてことない話題も、会話の時より少しだけかしこまった言葉で綴られていた。

 手紙にも人柄がでる、そんなふうにリザは思う。

 そして他愛のない話題に続いて時折語られるのが、ジャンの故郷や家族の手掛かりについて。

 ジャンはよほど親類や土地に縁が薄かったのか、それとも巧妙に自身の足跡を残さないようにしていたのか。警察のニックですら、ほとんど情報を得られないようだった。


「……いつかはパパを、故郷に帰してあげたいけど」

 父に帰る場所が、あるのなら。

 軽く息を吐いて、リザは手紙を畳んだ。

 そろそろ着替えて寝支度に入ろうかとした時、コンコンと何かを叩く音が聞こえた。入り口扉でなく窓の方に目をやると、月光を背にした人影がひとつ。ガラスの向こうで唇が、『こんばんは』と形を作る。

 上げ下げ式の窓は、拳一つ分ほどの高さまでしか開けられない。わずかに開けた隙間から、二つの目が覗き込んだ。

「こんばんは。こんな時間にこんなところから訪ねてくるのは、控えなさいって言ったでしょう」

 机に突っ伏すように目線を低くして、リザは窓の隙間から覗く目と視線を合わせた。

「リザに会いたかったんだもの」

 澄んだ瞳が、真っすぐな愛情を示してくる。

「コリンは寂しがり屋ね」

 窓の外に現れたコリンが、三日月のような形に目を細めた。

「そんなに恋しがるほどのことではないでしょう」

「だって女子修道院じゃ、僕はリザと一緒にいられないし」

「お師匠さんも皆さんも、よくして下さるでしょ?」

「それは確かだけど。でもリザはリザしかいないもの」

 どうしようもない子、とは思いつつ。そんな風に真っすぐ見つめられては、リザもお説教のしようがないのだった。


「だけどコリン、あなた不審者扱いされてるよ?」

 リザに与えられた部屋は三階だ。誰に似たのやら、コリンは高さをものともせず、部屋の窓の外まで登ってきてしまう。

「コリンが窓の外にかじりついてるのなんか見られたら、騒ぎになっちゃうわよ」

「じゃあさ、リザ。ちょっとだけ外に出て話さない?」

 コリンは期待を込めた眼差しで、リザを見つめる。

「外って、修道院の敷地外ってこと? 確かに建物に登ったまま話し続けるよりは、いっそ外に出ちゃった方が目立たないかもしれないけど」

 だけど夜中にこっそり抜け出す修道女というのも、いかがなものかと思う。

「良いじゃない、たまには。リザには自由が似合うもの」

「私は反省中の身なんだけど……」

 けれど窓の隙間から吹き込んでくる風が、コリンと一緒にリザを呼ぶようで。

「ちょっとだけよ?」

 わずかに開いていた窓を、リザは人一人通れるぐらいまで押し上げる。

「なんだかんだでリザも、いつでも抜け出せるように窓を細工してるんだもんね」

「見つかったら、怒られるだけじゃすまないだろうなあ」

 リザは窓の外に飛び出した。コリンが足場にしていた階下の小さな庇に足をかけ、さらに隣の庇に移って壁伝いに進んでいく。建物の端まで来ると手近な木に飛び移って、あっというまに修道院の内と外を隔てる外壁を越えてしまった。


「さすがお見事!」

 リザに続いてすぐ着地したコリンが、楽しそうに笑った。

「コリンもね。こんなこと、得意にならなくていいのに」

 安定した地面に足をつけたリザは、正面からコリンと向き合う。久々に相対する、窓越しではないコリンの姿。

「コリン、あなたずいぶん背が伸びたのね!」

 小さな丸い頭は、いつもリザの目線の下にあったのに。今ではリザの方が、コリンを見上げるようになっていた。

「そうだよ。だって僕ももうすぐ十五になるもの」

「そっかあ……。外見だけなら、私と変わらなくなっちゃったのね」

 いつまでも変わらない姿のリザに対して、コリンはこれからどんどん成長していく。それは寂しくもあり、頼もしくもあるとリザは思う。

「僕、ニックさんのことなんて、すぐ追い抜いてやるんだから」

 コリンが胸を張って言う。

 ニックは背が高いので、コリンでも身長はまだ届きそうにない。でもコリンは成長の余地があるから、追い抜かす可能性は十分にありそうだ。

 コリンの師匠がどんな人かリザはほとんど知らないが、身近な男性としてニックのことも意識しているのだろうか。


「もしかしてコリン、ニックさんに憧れてる?」

「はああ?」

 珍しく頓狂な声をあげて、コリンはリザに詰め寄ってきた。

「なんでそうなるの!」

「え、だって、ニックさんくらい背が高くなりたいってことは、そういうことなのかなって」

「違う!」

 語気強めに否定される。リザの勘違いなのか、ただ恥ずかしがっているのかわからないけれど。

「憧れるのもわかるけどな。だってニックさん、かっこいいし」

 コリンが凍り付く。リザは瞬きを繰り返した。

「あいつ絶対負かす」

「ええ?」

 にこにこしていたコリンが急に顔色を変えたものだから、リザは戸惑うばかり。

「とりあえず、ここで騒ぐのはやめておきましょうか。あんまり遠くへは行けないけど、もう少し修道院から離れた所へ……」

 行きましょう、と言いかけたところで。

「……リザさん?」

 背後から明るい光が差した。まあるい、レンズ越しに大きくなったランタンの灯り。

「げ」

 明かりに目を細めたコリンが、心底嫌そうな声を上げる。


「今日は一体、なんだっていうのよ」

 普段は手紙だけでやり取りしている人が、揃いも揃ってご登場とは。

「お久しぶりね、ニックさん」

 久々の再会が、まさかの展開である。

 まるで怪盗と警官が、ばったり顔を合わせたみたいな。

「近頃、夜間に修道院の周辺に不審者が現れるというので、見回りを強化してたんですが……えーと、まさか」

「いえいえ、その。別に悪さをしようとか、そんなんじゃないんですよ、いや本当に」

「当たり前です」

 怪訝な顔をして歩み寄ってくるニックは、以前とあまり変わりないように見えた。成長期のコリンと比べるからかもしれないけれど。

 相変わらず背筋をまっすぐ伸ばして、何一つ己に恥じることのない正直さを滲ませて。

「怪盗業に復帰しようとか、そんなことも考えてませんので!」

「怪盗エリザベスが現れようものなら、俺はまた何度だって止めますし、助けますよ」

 リザを捉えて離さない、いつまでも揺るがぬ強い瞳。

「リザ!」

 ニックの視線の強さに気圧されそうになったその時、急に強く腕を引かれた。


「わっ! え、コリン?」

「あのね、僕、星蜥蜴の故郷を見つけたよ!」

 腕を掴んだコリンの言葉に、リザの意識はいっぺんにそちらへ向いた。

「え、本当に? パパの?」

「いやいやいや、待て待て! 俺だって警察に使える手立てを使えるだけ使って、それでもほとんど情報がつかめないんだぞ?」

 リザを間に挟んで、ニックが物申す。コリンはにやりと笑った。

「正確には、僕が見つけたんじゃないんだけど。ダニエルさんだよ」

「あいつか!」

「ダニエルが……」

 リザとニック、同時に口にする。

「僕よりもニックさんよりも、一番長く星蜥蜴のことを調べてた人だもの。ようやくつかめたんだってさ」

「それをコリンに教えてくれたんだ」

「僕、実はダニエルさんとやりとりがあるんだよね」

 いつの間にとは思いつつ、リザは口には出さなかった。

「修行中の身とはいえ僕も少しは稼ぎあるし、情報料払ったら、きっちり僕にも教えてくれたよ」

「あの野郎おおおおお! エレクトレイから消え失せたと思ったら、相変わらず悪賢い金儲けなんかしやがって。素直に情報提供しろ!」

「情報だって立派な商品だよ。言っとくけど、教えてやらないからね」


 コリンも言うようになったものだ。

 闇の中で怯えていた小さな子どもが、ここまで。

(コリンは私のことだって、助けてくれたものね)

 警察からリザを逃がし、憎悪に飲み込まれそうになったリザを引き戻してくれた。リザのためになることをしたいと、何度も口にしていた。

 コリンはずっと、強くあろうとしていたのだ。

「ねえリザ、一緒に行こう」

 力強く腕を掴む手。

「あ、わ、ちょっと」

 あんなに小さかった手は、もうリザよりずっと大きい。大きな手に引かれて、思わず走り出す。

「あっ、こら!」

 ニックが声を上げる。

 ああ、夜明けまでには戻ってこなくちゃな、とか。どれくらい遠い場所なんだろう、とか。パパの遺品を部屋まで取りに行った方が良いのかな、とか。いろんな想いが巡るけど。

「あんたなんかに、リザのことは渡さないんだから!」

「そんなこと認めるかあ! 待ちやがれえええ!」

 夜の闇の中を駆けるこの緊張感は、ずいぶんと久しぶりだったので。

 あともう少しだけ、コリンと手を取り合って、ニックと追いかけっこをするのも悪くないな。

 かつてエレクトレイの街を騒がせた怪盗の娘は、胸に星を抱きながら未来へと駆けていく。

 太陽のような輝きを、失うことなく。


 E N D









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

贋作怪盗エリザベス いいの すけこ @sukeko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ