ただひとつの輝き -Ⅷ
私とパパの幸せな思い出を黒く塗りつぶすのなら、いなくなってくれ。
片を付けてやる、ひとおもいに。
リザはオスカーの喉元に、鏡の破片を突き付けた。
「リザ!」
オスカーの喉を裂く寸前、悲鳴のような声が背を打った。
「……コリン」
玄関から飛び込んできたのは、あの夜守り切れなかった少年だった。
「なんで、ここに」
警察に保護されたとのことだったけれど、逮捕と違って自由に出歩けるのだろうか。この場所のことは、ダニエルが教えたのだろうか? 混乱した頭で、考えが追い付かない。
「リザ、やめて」
パーティーの夜、リザを逃がしてくれた時と同じように。コリンは懸命にリザに訴えた。
「お願い、破片を離して」
かつての自分と同じだと思った。
屋根裏に閉じ込められて、人として扱われなくて。
孤独を抱える者同士、解り合えることがあるだろう。
しばし寄り添い合って、穏やかに日々を送れたら。それは間違いなく長い孤独と空白を埋める時間だったけれど、それでも。
「……いや」
己の悲しみも苦しみも、己だけのものでしかない。この痛みは、コリンにだってわからない。
「止めないで、コリン」
コリンの顔が歪む。悲しみとも怒りともつかない表情だった。
でもきっと、自分の方が酷い顔をしているとリザは思う。こんな姿を幼い子に見せてはいけない。それでも、自分の醜さを自覚してなお、晴らしたい無念があった。
「リザが本当に復讐を果たしたいんだったら、誰が死んだって僕は知らない。リザが自分のしたいようにしてくれるのが、僕はそれが一番いい!」
だけど、だけどと繰り返してコリンは首を振った。まるで駄々をこねるように。
「だけど、あいつが言うから! 悔しいけど、あいつがリザを助けてくれるって言うから!」
「……あいつ?」
「だからとっととリザを助けてよこの馬鹿警官!」
コリンの叫びは、救済を求めるというにはあまりにも乱暴だった。
けれどその暴言は、確かに玄関ホール中に響き渡って。
破片を握った右腕を、力強く掴まれる。
落下したランプの光が届かない、暗がりから伸びた腕。
「ニック、さん」
リザを掴んで離さない、大きな手。ろくな光源もない場所ではっきりわかるはずもないのに、輝くように真っすぐと見つめてくる瞳。
「捕まえたぞ、怪盗エリザベス」
「なんで、あなたまでここに」
そう問いながら、きっと答えは一つだと思う。
ここはエレクトレイではない。けれど彼は、自分の使命に忠実だから。
「……二階から、勝手に失礼」
リザと同様に驚愕した様子のオスカーに一瞥くれて、ニックは言った。
昇り切った先の踊り場から、さらに左右に分かれて二階に続く階段。上階へ向かって広がる暗闇に隠れて、ニックはずっと様子を伺っていたのだろう。
「武器を離して。……ここは堪えてくれ、リザさん」
怪盗に対してでない、リザへの言葉。それは余計にリザの心に波を立てた。
「捕まえるんだったら、こいつを殺してからにして!」
「そんなことはさせない」
「警察だろうが何だろうが、あなたにも私を止める権利なんてない!」
職務を全うしようとするニックを、リザは否定する。誰にも止めさせない、邪魔はさせない。
「裁きなら、全てが終わった後にいくらでも」
「俺はリザさんを助けたい」
罪を問うより先に、助けるとニックは言った。
その言葉に、胸を打たれる自分がいる。
彼の本気を疑いもしないし安っぽいとも思わない。けど、それでも。
「私の無念は、私にしか晴らせない。あなたにできることなんて、何一つないの!」
正義は役に立たない。同情も優しさもいらない。
「リザさんにできなくて、俺ができることがある!」
「私の代わりに、こいつを殺してくれるとでも言うの?」
今この場では、父の仇を憎む心こそが真実だ。それに勝る答えなんて、ない。
「俺はこの人を、捕まえることができる!」
「は……?」
唐突な宣告に、リザは戸惑いの声を上げる。逮捕の宣言を突きつけられたオスカー自身も、身動ぎすらせずただ目を見開いていた。
「あなたには過失致死傷罪、もしくは殺人、それと監禁の嫌疑もかかっている。あと、贋作を流通させた詐欺罪も。ご同行願いますよ」
並びたてられたオスカーが犯した罪の数々。
そのすべての重さ、突きつけられる刑をリザは知らない。知らないし、どうでもいい。
「……ふざけないでよ」
リザにとっては、己を苦しめたことがすべて。
「そいつが逮捕されようが牢獄にぶち込まれようが、私の心は晴れない。そんなことで、救われたりなんかしない!」
「殺して救われるもんなんか、あってたまるか!」
あまりにも正しい叫びが、リザに浴びせられた。
だからって、正しいからって、自分を助けてくれるなんてリザは信じない。
「暴力で、血を流して、殺して、それで発散できる苛立ちも悔しさも。果たせる復讐心も晴らせる無念も、きっとあるんだろう。そうしなきゃ、下ろせない拳もあるんだろう」
「そうよ。その通りよ」
「でもその後に残るものは、絶対に救いなんかじゃない」
復讐を果たした後に、残るもの。
(その後のことなんて、ずっと考えてこなかった)
リザは想像してこなかった。
父のいなくなったこの世界をどう生きるか考えて、怪盗になって。父の無念と自分の苦しみを晴らすために、真実まで辿り着く。
その後は、どうなったっていいと思った。
「……そう、だから。私、助けてほしいなんて言わない。ここで終わって、良いんだもの」
罪なら後で贖うと言いかけた。だけど本当は、今後なんて真っ白で。罪を償うことを約束しない代わりに、助けだって求めない。
だからもう、全部終わりでいいでしょう?
「終わりなんていやだよ」
すぐ後ろで、声がした。
首だけで振り向けば、コリンがそばまで歩み寄ってきていた。
自分を追ってきた者達の訴える瞳が、リザを囲む。
「リザが想いを遂げられるなら、何したって良いよっていうのは本気なんだ。でも、やっぱり、終わりなんて悲しいよ。僕はまだ、リザと一緒にいたい」
連れ出すだけ連れ出して、未来のことをろくに考えてやれなかった子どもの姿。これから何もかもを投げ出そうとしている自分では、やっぱり不十分だったのだ。
「私がいなくても、代わりにコリンを大切にしてくれる人が、きっといるから」
私の、代わりが。
口にしたら、憎しみとも虚しさとも別のところで、胸が軋んだ。
「他の人じゃなくて、僕はリザが良い!」
力強い、己を求める声。
琥珀のブローチの下で心臓が跳ねる。
「だってリザは世界に、一人しかいないんだもの!」
「……ああ」
ああ、そうだ。
己の行く末が見えなくても、それだけは見失わないできた。
他の誰でもない、代わりではない。
たったひとりのパパに愛された、たった一人の娘。
その、ただ一人の自分を、見てくれる人がいる。
涙の滲んだコリンに見つめられて、脳裏に蘇った温かい部屋。
爆ぜる暖炉と、白いテーブルセット。二人で囲んだ食卓。
「あなたが怪盗星蜥蜴を……お父様を失って、怪盗エリザベスとなった頃。リザさんは本当に、お父様の無念を晴らすこと以外はどうでも良かったのかもしれない。だけど今は」
生真面目な瞳に思い出すのは、夜の闇の中でなく、昼間の、明るい公園。
輝くような銀杏の黄色、凍てつく冬の風。
「今、は」
油っぽいツナサンド、手作りのマーマレード。
素顔を隠して、それでも笑いあった時間。
「……もう、あの屋根裏に独りぼっちじゃないわね」
たった独りの屋根裏の世界。
その暗闇の中で、唯一の光だったのが父のくれた琥珀だった。父に助け出されて、今度は父の与えてくれる物だけが、リザにとって世界の全てになった。
(だからパパを失って、もうその先に世界はないと、ずっと思っていた、のに)
「あなたはまだこの先を、生きなければならない」
そうしてニックは、自分自身が苦渋の決断をするような、沈痛な面持ちで言った。
「……だからどうか、取り返しのつかない罪にまで手を染めないでくれ」
世界は終わらない。
物語なら正義のヒーローが勝利を収めても敗れても、悪が成敗されても世界を手にしても、終焉を迎えるけど。
現実は復讐が成功しても失敗しても、悪党が捕まっても逃げ延びても、続いていくのだ。
(この男だって、娘を失っても終わらないんだ)
リザは鏡の破片を捨てた。
続けて、掴んでいたオスカーの右腕も離す。ニックも凶器を捨てたリザの手首を、ゆっくりと解放した。引き継ぐように、ニックはオスカーの両腕を掴む。
それが保護でなく拘束であることはわかっているだろうに、オスカーは抵抗する様子も見せず項垂れた。ひどくすり減った顔は、やはり亡霊のようだとリザは思う。
リザにはまだ、憎しみに燃える心がある。だけどニックがこの男を逮捕して、正当な裁きを受けさせるというのだから。
(今は、それで。それでいいかな、パパ)
涙が止まらなかった。
あまりに悔しくて。やりきれなくて。
それでも、過去よりも未来を見てしまったから。
ニックにずっと掴まれていた腕はじんじんと痛んだが、確かなぬくもりも感じる。
私はリザ・ブライトマン。
今までだって何度も、私は私だと胸を張ることで生きてきた。
憎悪と虚無に失いかけた自分自身を、もう見失ったりしない。
リザは胸の琥珀の上で、祈るように手を組んだ。
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