ただひとつの輝き -Ⅶ
「お前はエリザベスじゃないな」
リザの顔を照らすように、オスカーはランプを携えた右腕を近づけた。
「わかりきったことを。私はリザ、あんたの娘なんかじゃない。ジャン・ブライトマンの娘、リザよ」
目の前の存在を拒絶するように、近づいてきた腕を振り払う。落下したランプは破損こそしなかったものの、シェードの中の炎が大きく揺れた。
「なるほど。彼に育てられたせいで、そんな粗暴になったのか。声を上げて、暴れて……教育者としてはまともな方だと思ったのに、子育ては真似事しかできなかったのだろうな」
ため息交じりのその言い草に、リザの中を巡る血液が一気に逆流する。
「ふざけるな!」
怒りが体を突き抜ける。沸騰した血は、今にも肌を突き破って噴き出しそうなほど。
「あんたがそれを言うの? 私に何一つ人としての生き方を教えなかった、あんたが!」
足を踏み鳴らしながらリザは叫んだ。
「屋根裏に閉じ込められて、ろくに走ったことも跳ねたこともない私に、体の使い方を教えてくれたのも。誰一人話し相手もいなくて、声の出し方すら忘れるほどだった私に、もう一度たくさんの言葉を取り戻させてくれたのも。みんな、みんなパパがしてくれたことよ」
ジャンが与えてくれた、外の世界で自由に飛び回る喜び。お転婆が過ぎるほど体を動かす衝動を手足に叩きこんだから、無茶な怪盗仕事だってこなせた。
ずっと心の奥底に押し込めて、自分でも知らなかった感情を叫べばジャンが受け止めてくれた。だからリザは、声を上げることをもう躊躇わない。
「屋根裏の暗がりの中で暮らした五年よりも、パパと暮らした光の中での三年の方が、はるかに私を人間にしてくれた!」
どうしてこの男は、己の非道さを自覚しないのか。真っ当な父を否定した挙句に、感謝ひとつしないのか!
「私を私にしてくれたのは、パパだけ。私はエリザベスじゃない」
リザはオスカーに指先を突き付ける。
エリザベス・ロレンスの複製。
その存在を、亡き娘の代替えにしようとしたのか。それとも娘そのものが、ジャンに連れ去られたのだとでも思いこんだのかは知らないが。
「エリザベスは、あんたの元には二度と帰ってこない」
おかえりと差し伸べられた手をリザが取ることは、未来永劫にないのだ。
「……それでも私には、確かめる必要があった。お前の中にエリザベスが還ってきたのか」
「なによ、それ」
「エリザベスがわざわざ自分の複製を造ったのは、死後に魂が還る体を欲したからだ。それを父親として確かめる必要があるだろう?」
「そんな根拠のない話を信じたの……?」
あまりにも確実性がない説だ。愛する娘の主張だったとしても、到底信じられる内容ではないだろう。魔法一つとっても胡散臭がっていた人間が、受け入れられる考えとは思えない。
(でもエリザベスだって、一瞬でも愚かな考えにとりつかれた)
全ては死に恐怖したエリザベスが始めたこと。
彼女が『魔法の泉』を使って『硝子の蜃気楼』を生み出してしまったのは、きっと一瞬の気の迷いと衝動。弱っていた心がそうさせた。ソフィアだって、同じような罪に踏み込んだ。
愛娘を失ったオスカーも、正常な心を保っていられたかはわからない。
「だがお前の中に、エリザベスはいないようだな」
オスカーの、茫洋とした目。
魂の存在を、神を、信じるか信じないか。それはきっと他人には決めつけられない。
「私の中にいるのは、私だけ」
己を誇示するように、リザは自分の胸元に手のひらを押し当てる。
「そのようだ。だから、もういい」
オスカーは一切調子を変えることなく言った。
「エリザベスでないなら、別にどうでもいい」
「は……?」
熱のない声から放たれた言葉に、リザは一瞬呆けた。
「お前が人間であろうとなかろうと、何者であってももうどうだっていい。エリザベスでないのなら必要ない」
階段三段分の距離まで迫ったリザに、オスカーは背を向けた。
「どうでもいいって、なに」
リザはエリザベスではない。だから娘として振舞えと言われても受け入れる気など一切ないし、この男の元に帰るつもりなど毛頭ない。執着されても恋しがられても迷惑なだけだ。あっさりと見限られて、リザの何が傷つくわけではない、けれど。
「じゃあなんで、パパが死ななくちゃならなかったの!」
リザは激昂した。首だけ回して振り向いた顔に、唾を吐きかける勢いで叫ぶ。
「『硝子の蜃気楼』をばらまいてまで、ソフィアを複製させてまで、パパをおびき出そうとしたくせに!」
贋作を世に出回らせて、人の道を外れた行為を容認して。オスカーがそうまでしたのは、屋根裏からいなくなった娘の複製を、なんとしてでも取り戻したかったから。
「全くの無駄だったというわけだな」
もはやジャンが死んだのも無駄、どうでもいいこと。
それは己の存在を否定される以上に、リザには耐えがたかった。
「彼にも気の毒なことをした。お前がエリザベスでないなら、くれてやればよかった」
「お前がパパを殺したんでしょう!」
ジャンは危険を承知でロレンス邸に乗り込んで、そして命を落とした。
帰ってきたのは亡骸ひとつ。
「事故だったんだよ。私はエリザベスの居場所を聞き出したかったのだから、彼を殺すわけがないだろう」
「だったらなんで!」
「あの日、彼もお前のように屋敷に乗り込んで来た。ここではなくエレクトレイの屋敷だったが、同じように玄関ホールの階段で対峙して。ようやくこちらの誘いに乗って現れたのだ。対面したら、私から要求したかったことはただ一つ。エリザベスを返せと」
ジャンがその求めに、応じることはなかったのだろう。
「彼は言った。リザは私の娘だ、父親は私だ――と」
いつものように『パパ』と呼びかけようとした声は言葉にならず。
リザの目から、堪えていた涙がこぼれる。
ジャンはリザを連れて行ってくれたし、リザが魔法の産物であるなら、鏡の所有者であるジャンが生みの親みたいなものかもしれないけれど。それでもジャンは自らリザに、己が父親だと名乗ったわけではなかった。
ジャンから広い世界のことを学びながら手にした本に、家族を描いたものがあった。街中を歩いてすれ違う人たちの中に、親子連れの姿があった。
子どもに温かいまなざしを注いでいるのが『パパ』という存在ならば、この人は間違いなく私のパパなのだ――。
だから自分からそう呼んだ。パパと口にした時、笑って頭を撫でてくれたことを、リザは生涯忘れないだろう。愛された記憶を、一生。
リザはリザでしかないけれど。
ジャン・ブライトマンの娘であると、いつだって胸を張る。
「だから返すまでもない、リザもエリザベスもあなたのものではない、と。私は彼の傲慢さに、腹を立てたよ」
「傲慢なのはあんたよ。私も、エリザベスも、あんたのモノじゃない」
「お前も彼と同じことを言うのだな。私たちの考えは交わらなかった。平行線のまま言い合いになって……私だって焦っていたのだ、このまま彼がエリザベスの居場所を言わなければ、私は二度と娘を取り戻せなくなるかもしれない。だからなんとしてでも話してもらわねば、ずっとそう己に言い続けていたはずなのに」
オスカーは再度リザの方に体を向けた。階段の段差で足を入れ替えるようにして、一歩分リザに近づく。
「彼が、何があっても娘は渡さないと、そう声を上げた瞬間に。黙らせたいと、そう思ってしまった」
リザの左肩のあたりに、オスカーの腕がゆっくり伸びてきた。開いた手のひらを突き付けられる。
まるで階段から、突き落とすように。
「っああぁぁあ!」
リザは言葉にならない叫びをあげた。伸びてきた腕を掴んで、骨を折らんばかりに握りしめる。
「やっぱりお前が、お前がパパを!」
「言い合いになって、お互い何度か手が出たんだ。彼だって私の肩を掴んだりした。打ち所が悪かったのだろう、揉み合った末の事故だ」
今もってリザは、オスカーの腕を力いっぱい掴んでいる。思いっきり引っ張れば、階段から転落させることも可能かもしれない。だけどそれを、事故だなんて主張しない。
今の自分は、相手に殺意を抱いているから。
「人死にが出て、警察が来て、面倒なことになる前に一時的にエレクトレイを離れた。エリザベスが帰ってくるかもしれないとは考えたが」
リザの憎悪をものともせず、オスカーは一方的に話を続ける。
「けれどもしエリザベスが帰って来てくれたとしても、冷静に話せるとは限らないと思ったのだ。あの子はブライトマン先生を慕っていたし、言い争いになる可能性も考えた。父親として情けない限りだが」
己の複製にも同情的だったし、とリザを目の前にしてオスカーは言った。
「元々、星蜥蜴を惹きつけるために流通させた『硝子の蜃気楼』につられ、怪盗エリザベスまでもが現れた時。それが娘のエリザベスならば、エレクトレイで出迎えたいと思ったんだが」
「だけどあんたは、こんなところに逃げたままだったじゃない」
「いっそ警察に追わせるのも一つの手だと思ったのだ。エレクトレイの警察は優秀だから、多少手荒な捕り物になっても、聴取を行う前の人間を、みすみす死なせるようなことはないと踏んだ。逮捕後に話を聞く手立ても保釈金を積むのも、いくらでもなんとでもできる」
言い争いの末、オスカーはジャンを殺した。つまり自らエリザベスと対峙した結果、ジャンの二の舞になることを恐れたのか。
「自ら一刻でも早く、エリザベスを迎えたかったが。私だって、感情的になりブライトマン先生を死なせてしまった己に恐怖していたんだよ」
「あんたって人は……!」
感情に流されて人を手にかけた後悔よりも、慙愧の念よりも。
同じように諍いになって、エリザベスを傷つける事の方を恐れたのだ、この男は!
「ああ、鏡が欲しいなら渡そう。どうせもう必要がないからな」
オスカーは掴まれていない左手で、上着の内側から布の包みを取り出した。
しっかり包まれていたけれど、平たいそれ。奪い取るように掴んだその包みをほどくと、中から鏡の破片が出てきた。元の『魔法の泉』よりは小さいが、あの時オスカーが踏み砕いてできた欠片よりはずっと大きい。細長い三角に近い形で、リザの手に乗せたら手のひらと中指の先まで覆うくらいの大きさ。距離と角度を調整すれば、大概のものは映せそうだった。
「あれだけ念入りに砕いたのに。片付けたメイドが処分するまでの間しばらく放置していたら、破片の一部が繋がって修復してしまったそうだ。結局私も使ったとはいえ、やはり魔法は得体が知れないな」
そんな現象は、ジャンさえ知らなかったのだろう。知っていれば破片の一粒も残さず回収したはずだ。『硝子の蜃気楼』なら、砕いたものは元に戻らないし。一度も『魔法の泉』を破損したことがなければ、知らないのも無理はない。
「これでもう、私に用はないだろう」
そう告げてオスカーが拘束された右腕を振り払おうとするのを、リザは離さなかった。
「……もう、もういい。こっちだってもう、あんたなんか。何も聞きたくない顔も見たくない」
『魔法の泉』の欠片を握りしめる。手袋をしていなければ、きっと手のひらが傷ついていた。
「永遠に消えてよ、私とパパの中から」
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