ただひとつの輝き -Ⅵ

 避暑に向いた保養地は真冬の今閑散として、夜であることを差し引いても人のいない寂しい土地であった。一等明るい満月が、孤独に地上を照らしている。

 乾いているはずの冬の空気を裂いて吹き渡る風は、なぜだか少し湿っていた。それは潮を含んでいるからだという事を、生まれてこのかた海を見たことがないエリザベスは知らない。生臭い匂いは不吉なばかりだった。

 エリザベスは庭に繁る植物の影から、その屋敷を見つめた。

 見知らぬ土地の、見知らぬ家。それはこの家がオスカーの所有物ではなく、ソフィア・フィオナ姉妹たちの家の持ち物であるからというだけでなく。

 ずっと屋根裏に閉じ込められていたエリザベスは、自分がかつて居たはずの屋敷の外観すら記憶にない。

 ここでは郷愁を感じることがない代わりに、囚われていた恐怖心も湧かなかった。ただ怒りや憎しみが、尽きることなく身の内に渦巻いている。

 ソフィアが言うには、夜になるとこの別荘はオスカーひとりきりになるらしい。日中の間は通いの下働きが来ているようだが、エレクトレイの屋敷にいた使用人の類はもう残っていないようだった。今回、怪盗襲来の予告を受けて、護衛くらいは雇っているかもしれないけれど。

 怪盗エリザベスからの予告状を受け取って、オスカーは何を思ったのだろう。

 娘と同じ名の怪盗。娘であって娘ではない者からの、宣戦布告。過去の亡霊に突き付けるつもりで、いつも名乗っていた。

 今回はずっと探し求めていた、ただ一人の真実の敵に。


(だからニックさんは、ここには来ない)

 ニックはエリザベスがここにいることを知らない。後ろめたさからオスカーは警察に通報していないだろうし、エレクトレイの外で起きることだ。

 それでいい。彼のひたむきさにあてられて、自分を見失いそうになるから。

 胸元の星を握りしめる。

 私は蜥蜴の名を継いだ者。ジャン・ブライトマンの娘、リザ・ブライトマン。

 人の気配を感じられない別荘には、本当にオスカーしかいないかもしれない。娘の複製を自ら迎えるつもりだろうか。考えられないことではない、エリザベスをおびき寄せようと贋作を広めていたのだから。

 木陰に身を隠しながら、建物までの距離を詰める。

 黒い実が点々と実った木は恐らくオリーブだろう。潮風に強いから海辺の別荘に植えられているのだという事も、エリザベスは知らない。

 ジャンは本当に多くのことをリザに教えてくれた。それでも時間は足りなくて、まだ知らないことがリザにはたくさんある。本当はもっともっと、たくさん色んなことを教えてほしかった。もっとずっと、一緒にいたかった。

 さみしさと悔しさに滲む涙を、エリザベスはぐっとこらえる。

 実を収穫しているのか、小さな畑のようにたくさんオリーブを植えた一角を離れて別の庭木の影へ移る。暗闇の中に目を凝らしても、いつものように闇に踊るランタンの明かりは見えない。

 エリザベスは木陰を飛び出した。

 そのまま降り注ぐ月光の中、身をさらしながら走る。

 怪盗目掛けて真っすぐに駆けつけてくる警察官は、どうせここにはいないのだから。

 警察にも護衛らしき者にも一切出くわさず、エリザベスは別荘入り口まで一直線に駆けた。


 怪盗エリザベス最後のターゲットは、砕けたはずの『魔法の泉』とオスカー・ロレンス。

 魔法の鏡は『硝子の蜃気楼』と違って、エリザベスを呼ばないし。オスカーともお互いの存在を見つけ合うことができなかったから、この別荘のどこにいるのかははっきりわからない。

 どの部屋にも玄関にも明かりは見えなくて、このまま無暗に飛び込んでいいものかと一瞬迷うが。

(もう、今更。何が起きたってここが最後)

 辿り着いた玄関を押し開く。抵抗なく二枚の扉は放たれた。

「おかえり」

 玄関ホールの真正面、階段の上からその声は降ってきた。

 暗がりに浮かぶ黄金色の光。階段の手摺よりも高い位置で握られたオイルランプが、持ち主の顔を照らした。

 ぼんやり闇に浮かび上がった顔に、我知らずエリザベスの背に怖気が走る。

「おかえり、エリザベス」

 名乗りを上げるより先に呼ばれた。

 その名は、私のものではない。

「我が名は怪盗エリザベス、怪盗星蜥蜴の娘なり」

 他の何者でもない自分と、自分だけのパパがいる。

「ジャン・ブライトマンの娘、リザ・ブライトマンが、ここにいる!」

 怪盗エリザベス――リザは、ようやく見つけ出した、二度と顔も見たくなかった男と相対した。きっと生まれて初めて、正面切って。


「すまなかったな。引っ越していたから、ずいぶん探しただろう」

「どの口がそれを言うの……!」

 相手の出方を伺う余裕なんてなかった。腸の煮える思いで、高い場所から見下ろしてくる仇敵までの階段を踏みしめる。

「エリザベスが帰ってくるのだから、昼のうちに料理人を帰すんじゃなかった。好物の鳩のパイを作らせておくんだった」

「お生憎様。私が好きなのは、パパが作ってくれたサンドイッチ」

「メイドをまた雇わないといけないな。まさか父親が、年頃の娘の世話をするわけにもいかないだろう」

「手を借りなくたって、自分のことは自分でできる。パパはきちんと教えてくれたもの」

 エリザベスの現身だからか、ある程度までは操れた言葉や所作。

 それでも多くのものが欠け落ちた幼子のような自分に、ジャンはたくさんのことを教えてくれた。今、目の前で譫言を繰り返す男と違って。

「そうだ、大きなものは無理だったけれど、エリザベスの服や帽子や靴は、みんなこの家まで運んだよ。お気に入りだった赤いパンプスだって」

「私が好きなのは琥珀や山吹の色よ」

 見つめてくる瞳は、己と同じ琥珀の色。

 星のような石はリザの宝物だけど、抗えない繋がりを嫌でも感じさせる目の色は憎らしかった。間違いなくこちらを向いているのに、どこの誰を見ているのかもわからない。

「パンプスなんて、走り回れないから好きじゃない!」

 勢いのまま駆け上った先にいるオスカーに、エリザベスは吠えかかった。

「……お前は、誰だ」

 青白い顔は、まるで幽鬼のようだった。








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