ただひとつの輝き -Ⅴ

 白い息を吐きながら、夕暮れのエレクトレイを歩く。

 誰も彼も寒さに背中を丸めて歩いていて、さすがのニックもうつむきがちになった。

 最近はコリンを署内の保護室にあずかっていることもあって、ほとんど下宿に帰っていない。少し様子を見に行きたかったのと、時間が空いたのもあって、この時間に外へと出てきた。

 ひとりで歩きながら、考え事をしたかったし。

(怪盗エリザベスは、また現れるだろうか)

 ニックに顔を見られて、それでもなお彼女は再び姿を見せるのか。

 現れたなら、またいつものように現場で確保するよう努めるまで。

 もしも何の音沙汰もなく、怪盗がこのまま舞台から降りるというなら。

 その時は、どうやって彼女を見つけ出そう。

 人通りの多い街路を避けて、馴染みの公園を抜ける。

 泉のほとりを歩いていたら、ひと際冷たい風がニックに吹き付けた。泉は凍り付くほどではなかったけれど、冷たい水上を吹き抜けてきた風は一層寒さが染みる。

 足早に通り過ぎようとして、街路灯に照らされたベンチが目に留まった。

 リザと初めて出逢った場所。

 食事を包んでいたくしゃくしゃの新聞紙を広げて、思い切りサンドイッチを頬張っていた少女。不躾にもそれを背後からのぞき込んだニックに、物怖じせず向かい合った。

 ニックが警察官であることを、あの頃からリザは知っていたのだろう。

 思わずため息をついて、視界が白く染まった。


「こんばんは」

 夕闇の向こうから、声が聞こえた。

「いい月夜ですね」

 ぼんやりとした街路灯よりも高い場所に、昇りかけの白い月。街路灯の慎ましい光の下、背の高い人影がひとつ浮かんだ。

「えーと……」

 現れた人物を咄嗟に判別できなくて、ニックは困惑する。

「いつもご贔屓いただき、ありがとうございます」

 鳥打帽に指をかけて頭を下げる姿に、ニックは通勤時によく遭遇する行商人を思い出した。街頭で抱えている大きな商品盆がなかったので、いつもそれくらいしか目に入っていなかったのだと自覚する。

「ああ、雑貨屋のところに立ってる……。どうもこんばんは、仕事帰りですか」

「いいえ、仕事で来ました」

「は?」

 手ぶらで現れて、仕事も何もないだろうに。それにこんな時間、人もいない夜の公園では客も捕まらない。サンドイッチを買う時しか聞いたことのない声は、妙に癪に障った。

「リザさんの要望です。コリン君のことは穏やかに生活できるよう、取り計らってほしいと」

 瞬間、目の前のくたびれた格好の男と、夜会で少女の隣に並んだ紳士の姿が重なる。

「あんた、ルイズ嬢のパーティーでリザさんと一緒にいた」

「ようやく気付きましたか。職業柄、人の顔はしっかり記憶しているものだと思ったので、こっちはパーティーでも内心冷や冷やしていたんですけどね」


 今まさに素性を――パーティーの場では、ダニエルと呼ばれていたか――ばらしながら、それでもなお余裕の笑みを男は浮かべていた。そもそも婚約者を差し置いて他の女性を口説くような人間なのだから、面の皮は厚いに違いない。リザと本当にそういう関係なのかは、もはや定かではないが。

「あんた、怪盗エリザベスと繋がりがあるのか? それで俺の前に現れるなんざ、良い度胸してるじゃないか」

「私は確かにリザさんと一緒に、パーティーに参加していました。ご招待を受けましたので」

「招待客のリストは、一部が改竄されていた」

「そうなのですか? 私はリザさんから『一緒に参加してほしい』とお誘いを受けたので、ご同伴したまでです」

 いけしゃあしゃあとダニエルは言う。

「あなたはとっくにお気づきでしょうから、白状してしまいますけど。私は彼女を放って、他の女性と楽しく過ごしていました。その間に、リザさんが何をしていたかは私のあずかり知らぬことです」

「あんたが誑かしていたのは、あの家のメイドだろう。エリザベスは、メイドに変装して紛れ込んでいたんだぞ」

「それはそれは。貴族や良家のお嬢さんに手出しすると、面倒なことになりがちですから。だからメイドに声をかけただけのことですよ。綺麗な方でしたしね。図らずも私は、怪盗のお手伝いをしてしまったってことでしょうかね?」

 煙に巻くような言葉の数々。ニックは苛立ちを募らせる。

「あんた、普段は行商人やってて、一方で社交界のパーティーに呼ばれるなんて、どう考えてもおかしいだろう」

「行商人は真似事です。商家の人間として、市場調査ってやつですね」

「そんな白々しい嘘、通用するとでも思っているのか!」

 ニックの糾弾に、帽子の下の瞳がすっと細まった。


「だって証拠、ないでしょう」

 少なくとも今すぐこの場で、俺をしょっ引くには。そう加えて、ダニエルは言った。

「それでも俺を逮捕しようというなら、まあ、やりかねないでしょうね。あんたら警官なんてのは、適当で横暴だから」

「なにを……」

「友人がね、あ、リザさんの養父ですけど。不審死してるんですよ。事故ってことで片付いたんですが、現場を検分した警官は本当にまともに調べたんだかねえ」

 リザの養父。それはつまり、怪盗エリザベスの父とされる、怪盗星蜥蜴のことか。

 星のように現れたと思ったら、ある時突然、姿を消した。気づけば今度は娘と名乗る怪盗エリザベスが現れ、再び世間をにぎわせるようになり。怪盗星蜥蜴が表舞台から去ったことを、気にする者はいなくなっていた。

 その星蜥蜴が、不審死を遂げていた?

「まあ警察の見解通り、事故死である可能性も十分にありますし、俺はそれも彼の命運だったんだと思ってます。ただ、リザさんは納得していません」

「あんたは星蜥蜴とも面識があったと、認めるんだな」

 相手のペースにのまれてはいけないと、ニックは努めて冷静に問うた。

「俺はリザさんの養父、としか言ってませんが」

 明らかに怪しい振舞いをしておいて、誤魔化し切れると思っているのか、それともこちらをおちょくっているのか。

 いっそこの男が、リザを唆して盗みでも働かせたのではないか。そう勘繰って、さすがにその考えは浅すぎると、ニックは自分に言い聞かせた。


「……逮捕まではできなくても、重要参考人として同行願うことはできるぞ」

 この場で逮捕できなくても、こちらの場に持ち込めば。

 けれどダニエルは動揺もせず言う。

「事情聴取されたところで、俺、一切喋りませんけどね」

「黙秘を通すつもりか」

「こっちもね、信用商売なんで。警察なんぞにあれやこれや情報喋るようであっちゃ、商売あがったりなんですよ」

 ダニエルの商売。行商人、でなくて、きっと怪盗と繋がる生業。それがこの男の正体。

「尋問でも拷問でも、俺の口は割れません。方法があるとするなら」

 彼の化けの皮が剥がれるまでに、仮面はあともう一枚。けれどダニエルはその素顔を、ニックとの応酬に観念してさらすのではなく。

「情報料、いただけません?」

 取引に応じるのならば、その時は真の姿で向かい合う。そういう事らしかった。

「警察相手に、闇取引を持ち掛けるつもりか?」

「これはサービス情報ですけど、リザさんは次の一手で、自分の真の目的を達成するつもりでいます。それが無事に成されたら、今後、彼女が怪盗エリザベスとして現れることはなくなるでしょう。あなたの前にも二度と姿を現さない可能性が高いです」

 思わず息を飲み込む。

 リザが怪盗稼業から足を洗うというなら、その方が良い。けれどその時、ニックの前には二度と顔を見せないかもしれないという。それに『真の目的』とやらが、やはり犯罪行為によって達成されるというのなら、見逃していいものではないだろう。

「もしも目的達成に失敗したら……その時は、リザさんの身に危険が及ぶかもしれません」

「なっ……」

「これ以上の情報は、取引次第です」

 揺さぶりをかけるように情報を打ち切って、ダニエルはにこりと笑う。


「ふざけるな! あんたリザさんの身の安全がかかってるっていうのに、取引の材料にしようっていうのか!」

「あなたこそ、命令だけで市民に何でも話してもらえるとでも思ってるんですか?」

 笑顔のままダニエルは言う。

「あなたの警察という身分から、俺みたいな胡散臭い人間との取引に、そうやすやすと応じられないのはわかりますとも。正義の名の元に、有無を言わさず俺をしょっ引いて、事情聴取を行うのが正攻法だという考えも」

 顔は笑っていた。けれど仮面の下で、腹の底で、違う顔をしてニックを見ている。悪意よりももっと強い、信念のようなものを滲ませて。

「でも俺、正攻法じゃ話しませんので。あなたの正義ひとつで俺の口を割ることはできないし、少女一人救えない」

「……あんたがリザさんを救う気はないのか」

 話題をそらした、自覚がある。己の正義にいくらの値打ちがあるのかを問われて、答えられなかったから。

「俺はエレクトレイからトンズラする準備があって忙しいんで。自分ひとり食わせるので精いっぱいで、子どもを一人二人連れて行くのはとても無理ですし」

 開き直りなのか、堂々と逃亡宣言をしてダニエルは続ける。

「俺にあるのは少しの情と打算。あなたにもリザさんに対する情というものがあって、俺と違うのは正義とやらを掲げていること。亡き友人には大変申し訳ないですが、俺は情と打算だけでリザさんに最後までお付き合いすることはできませんね」

 ここで薄情だと罵ってやるのは簡単だろう。けれどニックは彼らの関係を深くは知らない。そして自分も、リザの深いところまでは知らないし。リザを助けるために、目の前の情報屋と取引をする踏ん切りもつかなかった。


「足りないんですよ、それだけじゃ。人一人救うには。あなたの正義も、リザさんを救うには不足している」

 ダニエルはサンドイッチの会計をする時のように、ニックに手のひらを差し出す。

「足りない分は情報に変えましょうよ。使えない正義なんぞ、売っ払えもしないんだから」

 ここでニックが賭けるのは、朝食のサンドイッチ代や今晩の酒代ではない。形のない、けれど自分が警察官であるための、自分が自分であるための芯の部分。

 ニックは差し出された手、その腕を捕まえるように掴む。

「幾らだ」

「払う気になりました?」

「……不正取引の罪は後からでも償える。けど、リザさんを助けるなら今しかない」

「頭の固いことで」

 情報を金で買う役人なんていくらでもいますけどね、という言葉は聞かなかったことにする。

「けど、あなたが決意してくれてよかった」

 その時、ダニエルの口元から狡猾な笑みが消えた。

「俺にはあの子は、救えませんが。それでも数少ない友人の、大事な娘ですから」

 情報屋の顔に一瞬垣間見えたのは、彼の素顔だったのだろうか。









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