ただひとつの輝き -Ⅳ

 真冬の寒さが、額に染みた。

 警察署の前にあるカフェへ行くだけで、芯から冷えるような厳冬だった。滑り込むように店内へ入ると、コーヒーの豊かな香りに鼻をくすぐられる。

「鰻の燻製サンドイッチと、あと、豆のスープももらえるかな」

「はいはい、ちょっと待ってね。あらやだニックさんたら、ずいぶんはっきり残っちゃったね、おでこの傷」

 トーストにバターを塗りながら、カウンター向こうの女主人が言った。

「いい男が台無しだ」

 愛想のいい女主人に、ニックは苦笑いを返す。

 同じ相手に幾度となく傷をつけられて、その度に敢闘の証と言われたり不名誉の傷と言われたり。

 己にとっては怪盗エリザベスを捕まえる信念と覚悟と、取り逃がした悔しさを再確認する痛みでもあったけれど。

 今は傷が、少女の面影を伴って痛む。

 ずっと暗がりと、フードに隠されていた怪盗の素顔。

 至近距離で覗き込んだ琥珀の瞳、自分が叩いたせいで腫れた頬。

「はい、おまたせ」

 意識をあの夜へ飛ばしかけて、目の前に突き出された出来立ての食事の匂いに我に返る。

「元気ないねえ。仕事熱心なのもいいけど、疲れてるんじゃないかい」

「お気遣いどうも。はい、お会計」

 ぴったり料金を手渡して、女主人が勘定を数えるのを眺める。レジスターの前に置かれた、ガラスの覆いをかけた菓子が目に入った。

「会計中にごめん、このビスケットも包んで下さい」

 追加のコインを渡す。厚く焼いたビスケットが二枚、紙袋へ滑り込んだ。

「毎度どうも!」

 陽気な声に送られながら、新人の頃からこの明るい声にずいぶんと励まされてきたなと、唐突に思う。

 エレクトレイの街を守るという使命と職務を、愛してはいるけれど。

 正義だけじゃ、世の中の全ては救われやしない。

 諦観でも卑屈でもなく、ただ、救えずに零れ落ちたものがきっとあるのだと。正義で追い詰めた果てに向き合った真実が、そう突きつけてくるようだった。

(向き合った?)

 凍てつくような風が、身を震わす。

(まだ、向き合ってもいない)

 背中を見せて去ってしまったものと、腕に捕えたものと。

 ニックは署までの短い距離を、北風を受けながら顔を上げて歩いた。




「お腹すいただろう。ご飯買って来たぞ」

 簡素なテーブルに紙袋を置いて、部屋の片隅に声をかける。

 署内に設置された保護室は、あくまで保護が必要なものを一時的に留め置く場所。決して刑罰のために市民を拘束する部屋ではない、のだけれど。

「これは俺からの個人的な差し入れ。君、出された食事にろくに手を付けないから」

 会話は一方的で、返事はない。狭い部屋の壁際に寄せたベッドの枕元、壁に丸めた背中を預けた子どもが、黙って膝を抱えていた。

「ここに閉じ込めてるつもりはないけれど。でもずっとだんまりじゃ、君を帰してあげることができないぞ」

「帰るって、どこに」

 子どもがしばらくぶりに発した声は、酷く重かった。

「どこに帰るって言うの! 僕の帰るところはリザのところだけなんだ、リザと一緒に過ごした家だけ。お前に顔を見られたのに、リザがあの家に戻ったりするわけないじゃない!」

 ようやく向かい合った顔は、憎々し気にニックを睨んでいた。

「きっともうリザは、僕の知らないところに行っちゃってるよ……」

 髪がぼさぼさになった頭を、少年――コリンが膝に落とす。

 自分よりも体の大きな男に必死に立ち向かって、怪盗エリザベスを逃がして。彼女が遠いどこかまで逃げおおせたのなら、コリンは本望だろう。

(……なんて言い切るには、まだ子どもだよな)

 コリンがいかに酷い環境で生きてきたのかを聞いている。闇から救い出してくれた怪盗エリザベス――リザに縋り、慕うのは当然のことだ。

「だから僕からリザの居場所を聞き出そうったって、無駄なんだから。他のことだって、僕は一切喋らない」

 頑なに殻に閉じこもる子どもに、ニックは紙袋を差し出した。


「とりあえず、飯でも食おう。スープが冷めないうちに」

「いらない」

「サンドイッチ、好きじゃないか?」

「リザが作ってくれたサンドイッチが、一番おいしいんだ」

 顔を伏せてこちらを見ようともしないコリンに、ニックはビスケットを差し出した。

「甘いものならどうだ」

「いらないって言ってるの!」

 顔を上げたコリンが、ビスケットをつまむニックの腕を払う。勢いがついたのか、ビスケットは床まで飛んで行った。

「僕はひもじいのなんて平気なんだ。食べ物でつろうったって、無駄なんだから!」

 いや、子どもだから縋っているだなんて、酷い侮りだ。彼は彼なりにリザを守ろうとしている。

「だからあんたに何されたって、なんにも話すもんか。痛いのだって、僕は慣れてるんだ」

「……そんなものに、慣れないでくれ」

 コリンが囚われていた屋根裏を検分した。

 暗くて狭くて。ろくな食事も与えられないのに、痛みや苦しみだけは与えられて。望まぬ仕事をやらされ、この保護室の質素なベッドより粗末なそれに体を横たえて。己を守るように膝を抱え、安らぎのない眠りに落ちる。そんな日々に心を蝕まれていく幼子の姿を想像するのは、あまりに悲しかった。

「もう誰も、君をそんな目には」

「遅いよ!」

 コリンが吠えた。手負いの獣のように、手を伸べようのない激しさで。


「今更、今更だよ! 誰も僕を助けてくれなかった、リザだけが僕を助けてくれた! そのリザを追い詰めといて、良い人間ぶらないでよ!」

 その叫びはニックの心を抉った。

 なぜもっと早くに、怪盗に助け出されるより、もっともっと早くに救い出してやれなかったのだろう。

「リザだってそうだ。僕はリザのこと、本当に、あんたに話せるほど知らないよ。だけどリザだって、きっとつらい目にあってきたんだっていうのはわかる。そこを星蜥蜴に救われて、愛されて、なのにその大事な人を失って。リザがどんなに悲しかったか、あんたにはわかんないんだ」

 リザ。公園で出逢った、可愛らしくも利発でたくましいお嬢さん。

 怪盗エリザベス。夜に紛れて現れては依頼者や警察を翻弄し、贋作を破壊し人心を惑わす者。

 二つの像を重ね合わせて浮かび上がってくる彼女は、ニックの想像が及ばない姿。それに、そもそも。

「そうだな、わかってないんだろうな」

 ニックは何も知らない。彼女の過去も、目的も、得たいものも。

「リザが悪者だって、お前は言うのか」

 コリンの問いが、ニックに鋭く切りつけてくる。

「僕やリザを、助けてくれなかったくせに」

「出逢えなかったんだよ!」

 切り返す言葉は、投げつけるようになった。

 決して声を荒らげるつもりはなかった。脅すつもりも威圧する気も。

「リザさんや君が深く傷つく前に俺と出逢えてたっていうなら、それを選べたっていうんなら、とっくに助けてる! だけど出逢うタイミングなんて、誰も自分で選べやしないんだ!」

 それでも抗えない現実が悔しくて、ニックは声を上げた。


「俺はな、怪盗は罪だと思っている。窃盗も不法侵入も破壊行為も、認められない。その手助けをすることだって」

 認められないことがある。その行いによって苦しむ者がある。それを許してしまったら、真っ当なものが揺らいでしまう。

「だからリザさんが怪盗の道を選ぶ前に、救ってやれたら。一番、良かった」

「……そんな今更どうしようもないこと言って、ばかじゃないの」

 過去は変えられないんだよ、とつぶやいて、コリンはうつむいた。

 リザやコリンがニックと出逢えなかった過去は、変えられはしない。そのことでニックを責めてもどうしようもないことくらい、この子どもも気づいているのかもしれない。

「今からじゃ、駄目か」

 高ぶる気持ちをなだめて、ニックは言った。

 過去は変えられないけども。

 だからと言ってコリンやリザが、誰にも顧みられずに苦しんできた事実を『仕方がなかった』の言葉で片付ける残酷さも、許してはならない。

「今から君やリザさんを助けるというのは、駄目か」

 過去は変えられないけれど、未来は変えられる。

 陳腐な言葉かもしれない。

 だけどここから変えられるものがあるなら。救えるものがあるならば。

「……勝手なこと言うな」

 コリンはシーツを強く握りしめた。その小さな頭に、ニックは思わず手を伸ばして。

「お前なんか嫌いだ!」

 眼前に枕が飛んできて、ニックは手を引っ込めた。コリンは枕をめちゃくちゃに振り回す。

「リザの敵のくせに、リザのことなんにも知らないくせに! 僕の方が近くにいるのに! 大人だからってリザに好かれてるからって調子乗んな馬鹿警官!」

 言葉と枕を、憤りを込めて振りかざされる。すべてをまともに食らうわけにはいかないけれど。叩きつけられた想いの丈を、枕ごとと受け止められたら。

 ニックは枕を掴んで止めた。コリンは肩で息をしながら、枕から手を離す。

「……助けるに、したって。結局リザを捕まえるってことでしょ」

「それが俺の仕事だからな」

 ニックは警察官として、怪盗と向き合うという使命がある。

「だけど警察官として怪盗を捕まえることと、一人の人間としてリザさんを救うことは別の話だよ」









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