わたしのすきなひとの、すきなひとのはなし

霞(@tera1012)

第1話

 私には、すきなひとがいた。


 そのひとについて、知っていることは多くはない。

 走るのが得意だったこと。左ききなこと。猫舌なこと。甘いものが好きで、すっぱいものが苦手なこと。

 ずっと、すきなひとがいたこと。


 私が知っていることは、そのくらいだ。



 はじめてそのひとが、私の働くお店にやって来たのは、ひどい土砂降りの昼すぎだった。


 そんなお天気の日に、お昼をすぎてから、珈琲など飲みにわざわざ出かける人は多くはない。というわけで、喫茶店は開店休業状態で、私とオーナーは暇をもてあましていた。


「あの子、さっきからずっとあそこに立ってるな。気の毒に」


 テーブルをひとつひとつ拭き上げて、減ってもいないペーパーナプキンをひととおりチェックして。

 ほとんど暇つぶしにゆっくりと店内を歩きまわる私に、オーナーがつぶやく。


 目をやると、通りに面した窓ごしに、人影が見えた。


「傘、ないんだろうな」

「あの、わたし、傘を2本持っているので。貸してあげても、かまいませんか」

「そうしてあげてくれると、助かるな。とりあえず、中に入れてあげよう」


 からん。


 内びらきの入り口ドアを引くと、とたんにざあざあという雨音と、濃厚な湿気が私を包んだ。


「あの」


 雨音に打ち消されて、かなり声をはらないと、彼には私の声はとどかないようだった。


「あの!」


 はじかれたように、うつむいていた男の子が私を振り向く。大きなダッフルバッグ。制服の白いシャツが、濡れて肌に張り付いていた。


「おはいりに、なりませんか」

「え」


 男の子の目には、戸惑いが浮かぶ。


「雨、しばらく、やまないですよ。かさをお貸しします」

「でも」


 男の子は、迷っているようだった。


「かぜをひいてしまいそうで、心配です」

「でも、……あの、いま、お金がなくて」


 店に入っても注文できないことに気兼ねしているようだ。


「そんなの、いいんです」


 重ねて言うと、彼は意を決したように、うなずいた。それから、張り詰めていた茶色がかった瞳のアーモンド形の目がやわらかくゆるみ、私をみつめる。


「ありがとう、ございます」


 溶けるように、細まる目。


 なんということだろう、その瞬間、私は彼に恋をしてしまったのだ。





 その次に彼に会ったとき、彼にすきなひとがいることが分かった。


 あの土砂降りの日の数日後、からん、と遠慮がちにドアベルを響かせて、彼が店に入ってきた。私の心臓は、面白いくらいにどくんと跳ねた。


 こんにちは、と、はじめの日と同じ魔法じみた破壊力の微笑みで、彼は私を見る。それからその視線が私から外れて、隣に並んだ背の高いひとに向けられた。


「ほら、ここ」

「へえ……雰囲気あるなあ」


 彼の隣に立った、彼と同じ高校の制服の背の高い男の子は、眼鏡を押し上げながらそう言うと、店内をぐるりと見渡した。


「アオイ、絶対、気に入ると思ったんだよ」

「うん、……素敵だ」


 アオイ君は落ち着いた声で答えると、私に軽く会釈をする。物腰も、使う言葉も、高校生らしからぬ大人びた雰囲気があった。


「……あの」


 ほんの一瞬、彼はアオイ君を強い視線で見つめたあと、何でもないような顔に戻って、私に向き直る。

 それを見た瞬間、私には、わかってしまった。彼は隣のこのひとのことが、好きなのだと。


「この間は、ありがとうございました。傘も、タオルも、コーヒーまで。本当に助かりました。これ、大したものじゃないですけど、お礼です」

「そんな、わざわざ良かったのに」


 うしろからオーナーの、柔らかい声が答えた。


「風邪はひかなかった?」

「はい。おかげさまで。 ……え、と、連れとコーヒー飲ませてもらっても、いいでしょうか」

「もちろんだよ」


 私は、彼とアオイ君を、窓際のソファ席に案内する。

 ソファ席に並んで腰かけると、彼がアオイ君に何かをささやき、アオイ君は軽く目を見開くと噴き出して、彼を肘で軽く小突いた。


 そのまま並んでソファで肩を揺らし続ける二人を、私はまぶしく眺める。

 私の初恋は、二日で終わりかたが決まってしまったのだ。





 それから、彼らはときどき、この店にやって来た。


 背の高いアオイ君は、月に数回、週末に一人で店にやって来ては、コーヒーを片手にゆっくりと本を読み、午後のひとときを過ごしていく。映画のワンシーンのように、この店と彼はしっくりと馴染んでいた。


 私のすきなひとの名前は、ユウキくん。苗字なのか名前なのかも分からないが、アオイ君に彼はそう呼ばれていた。

 ユウキ君は忙しいらしく、めったに店にはやってこない。来るときは、必ずアオイ君と連れ立っていた。


 ユウキ君は、高校で陸上部に入っていて、かなりの実力の、長距離選手だった。それを知ったのは、秋の終わり、松葉づえをついた彼とアオイ君が、連れだって店にやって来た時だ。


「スペシャルブレンドと、チョコパフェをふたつ、ください」


 それまで、いつもレギュラーブレンドのホット一択だった彼らが、初めてかなり値の張る注文をした。


 いつも屈託ないユウキ君が、その日はじっとうつむいて、固い顔をしていた。

 松葉づえと、彼の表情で、ひどくつらいことが彼に起きたことだけは分かった。


 アオイ君は、慰めの言葉も労わりの言葉も、ひとことも口から出さなかった。

 ふたりはただ黙ってソファに並んで座り、この店で一番高いコーヒーを飲み、一番豪華なパフェを食べて、窓の外を眺めていた。


 やがて二人は、連れ立って店を出て行った。


 それから数時間して、アオイ君だけが、もう一度店にやって来た。


「あいつ、すごくいい選手だったんです。大会でも結構いいところまで行って、インターハイにも……」


 カウンターに座ったアオイ君は、私とオーナーに向かって、ユウキ君がいかに優秀な陸上選手だったか、どれだけ努力していたか、ひたすらに話し続けた。コーヒーが冷めるのもお構いなしに、切れ目なく、彼の言葉は続いた。


 夕闇が迫るころ、唐突に、彼の言葉が途切れた。


「……すみません」


 我に返ったようにぽつりと彼は言うと、冷めたコーヒーを一気に飲み干して静かに立ち上がり、もう一度、店を出て行った。

 からん、と寂しげに閉まった扉の外に、一瞬、寒々しい秋の雨が空気を濡らし始めているのが見えた。





 ユウキ君は時間に余裕ができたようだった。これまでとは違い、ユウキ君とアオイ君は二人でときどき平日の夕方にやって来て、すみの席でノートを広げていた。彼らはいつも遠慮がちで、お行儀のよいお客さんだった。オーナーは微笑ましそうに彼らを眺め、ときどき、クッキーなんかを差し入れていた。


 わたしたちがひそかに衝撃を受けた出来事は、それからしばらくして起こった。


 その日、いつものようにひょろりとしたアオイ君のシルエットをドアの外に認めて、いらっしゃいませ、と言いかけた私の声は、思わず尻つぼみになった。


 アオイ君の後ろから、サラサラのワンレングスの黒髪をなびかせ、お人形さんのようなぱっちりとした目をした、とてもきれいな女の子が姿をあらわした。


「へえ。ここが、アオイ君の秘密基地」

「……変にはしゃぐなよ。そういう場所じゃない」

「分かってるわよ」


 女の子の桜色の唇の両端がきゅっと上がる。私は動揺を悟られないように素早く背を向けて、二人を席へと案内した。


 女の子は、同性の私から見てもほんとうにきれいなひとだった。それだけではなく、仕草の端々から、さりげない気くばりや素直な好奇心が溢れていて、とても良い子のように思えた。


 それから、店のすみのアオイ君の指定席の隣に座ってノートを広げるのは、ユウキ君ではなくて、その女の子になった。サツキさん、というその子は、いつもアールグレイを飲んでいた。





「こんにちは」


 かなり久しぶりに、アオイ君のうしろからユウキ君があらわれた時、私はすきなひとに会えてうれしい、という昂ぶった思いよりなにより、ただただほっとしていた。


 ユウキ君は少し照れくさそうな顔をして、アオイ君と並んで、ソファー席に座った。


「スペシャルブレンドと、チョコパフェをください」


 私はどきりとして、思わず二人の顔を盗み見る。ふたりはこれ以上ないくらい、楽しそうな顔をしていた。


「おめでと、アオイ」

「はは、……ありがとう。ユウキもな」

「専門受かってもめでたくねーよ。落ちたらお祓い受けるレベルだわ」

「まあな」


 アオイ君は、ソファの背もたれに背を預けると脚を組む。彼がこんな風にリラックスしている姿を久しぶりに見た、と私は思う。


 二人の様子は、よく一緒にここでノートを広げていたころと、何のかわりもないようだった。やがて出来上がったチョコパフェを、二人は、黙々と無心に食べていた。


「やっぱり、特別な日はここだよな」

「……何か、お祝いなのかな」


 オーナーが、笑みを含んだ声をかける。


「あ、はい。こいつ、推薦で大学受かって」

「へえ、それは、おめでとう。差し支えなければ、どこに受かったの」

「K大です」


 それは、知らない人はいないのではないかと言うくらいの名門の大学だった。


「へえ、すごいねえ」

「いえ。……推薦なので」


 アオイ君は、本当に大したこととは思っていない様子だった。


「ユウキ君は」

「俺は、専門学校で。……ちょっと、遠いとこなんですけど」

「じゃあ、ここは離れるんだね」

「そうですね……」


 その瞬間、二人の目に走った色を、私は見逃すことができなかった。ほんの一瞬、二人は全く同じ、痛みをこらえるような目をしていた。


 それが、制服姿の彼らを見た、最後の日だった。





 私がオーナーから店を任されたのは、ユウキ君が街を去って2年が経った頃だった。

 

 大学生になったアオイ君は、ここに来てくれるようになったはじめの頃のように、週末ごとにゆっくりと、コーヒーを飲みながら本を読みに来ていた。彼はいつも、一人だった。



 夏の半ばのうだるように暑い日、いつもよりもかなり早い昼前に、アオイ君が店に現れた。


「あの、今日はここでも、いいですか」

 彼が指さしたのは、テーブルを挟んで椅子が向かい合う、2人席だった。


「ええ、構いませんが……」


 いつもは彼のお気に入りの、すみの一人掛けか、空いている時にはソファ席に座ってもらっていた。どうしたのだろう。私は、妙に強張っている彼の背中を見ながら、ゆっくりとコーヒーカップを温める。


 それからお昼を過ぎるまで、彼はずっと本に目を落としていた。でも、その本のページは、一枚もめくられることはなかった。


 昼過ぎに、待ち人があらわれた。恐らくそうだろうなとは思っていたが、それはやはり、少し髪が長く、明るい色になった、でも紛れもない、ユウキ君だった。


「おお、アオイ、お前ほんと、変わんねえな」

「1,2年でそんなに変わってたまるか。お前も、自分で思うほど変わってないぞ」

「ええ……。よく見ろよ、この髪型。ほらほら、ピアス開けたんだぞ」


 私の胸はふんわりと温かくなる。もう、彼の笑顔が私の心をかき乱すことは無くなっていたけれど、それでも今でも彼の屈託のない声は、店の照明が明るくなったかのように、私から見える当たり前の景色を華やがせてくれた。


「おお。……お前、耳たぶに穴開けるとか、よく頑張ったな。痛いの死ぬほど苦手なのに」

「皮膚科でぶっ倒れた」

「ええ……迷惑すぎるだろ……」

「開院以来はじめてだって言われた」


 アオイ君は、こちらが心配になるくらい、ひきつけを起こしそうな勢いで笑っていた。


「……はあ。やばい、ハラが筋肉痛。……それはそうと、おばさん、大丈夫なのか」

「ああ。別に、命に別条ある病気じゃねえし。大げさなんだよ」


 彼らの話から、ユウキ君のお母さんが何かの手術を受けることになって、夏休みに、彼が実家に帰って来たらしいことが分かった。

 彼らは頻繁に連絡は取り合っているらしいけれど、顔を合わせるのは久しぶりのようだ。


「なあ、ユウキ」

 そこで、ふいにアオイ君の、キンと芯のある固い声が響いた。


「……おう」

 ユウキ君の声が、身構えるように低くなる。


「……俺さ、……婚約したんだ」

「コンヤク……」

 ユウキ君の、地を這うようなつぶやき声。


「ああ。卒業したら、結婚を考えてる。だから、お前がこっちに戻って来ても、あんまりつるんだりはできないと思う。……それも含めて、就職先、考えて欲しい」

「ケッコン……」


 ユウキ君の声は、消え入るように小さく、低かった。


「相手、サツキちゃん、だよな」

「ああ」

「……そうかあ」

 ユウキ君の声が、屈託のなさを取り戻す。


「おめでと、アオイ」

「……ありがとう」

「あの!」


 そこでユウキ君が、私を振り向いた。


「チョコパフェ二つ下さい!!」

「……いや、俺、今、そんなに食えないよ……」

「いや、めでたい時はここのチョコパフェだ!!」


 私はそっとアオイ君を見たが、彼は、あきらめたように首を振っていた。

 出来あがったチョコパフェを、二人は向かい合って、いつかのように黙々と平らげた。


 それからしばらくして、ユウキ君は店を出て行った。


 そのうしろ姿を座ったまま見送って、アオイ君は再び、文庫本を取り出して目を落とす。そのあとも、彼が腰を上げるまで、彼の手元のページは一度もめくられることはなかった。





 喫茶店などという場所は、ただでさえ時間の流れがゆっくりな場所だ。それに加えて、私はもともとがのんびりとした性格なものだから、ますますもって、当たり前に通り過ぎ変わっていくひとびとの営みに、おいていかれそうになる。


 毎週のように土曜日の午後、からんとドアベルを鳴らしてそっと店に滑り込み、もう勝手に隅の一人掛けに腰を落ち着けては、レギュラーブレンドのホットを2杯ゆっくり飲みながら文庫本を読みふけっていく、そんなアオイ君がいつの間にか社会人になったことも、分かってはいたが、実感をもってはいなかった。


 彼は相変わらず、店に来るときは、いつも一人だった。


 その日も彼は、定席に落ち着いて本に目を落としていた。外には、けぶるような小糠雨こぬかあめが降っていた。


 からん、と軽い音とともに、扉が開く。

 いらっしゃいませ、私は反射的に声をかける。

 後ろを向いて扉を閉め、胸元の雨粒を払っていたそのひとが振り向いた時、私は軽く息を飲んだ。


 ユウキ君だった。


 少し精悍な顔立ちになった彼は、懐かしげに私に微笑みかけて、カウンター席に腰かけた。入り口に背を向けて一人掛けに座るアオイ君に、気がついてはいないようだった。


「お久しぶりです」

「本当に。……ここは、変わらないですね」

「そうですね。良くも悪くも、昔のままです」


 私は、ユウキ君と話しながら、目のはしで、店の一番奥の一人掛けに座る人影を捉えていた。

 彼が、顔を上げてこちらを振り向く気配がした。


 その瞬間、ユウキ君の茶色がかった瞳のアーモンド形の目が、みるみる見開かれた。

 がたん、と、立ち上がった彼の後ろで椅子が音を立てる。


「え、……アオイ?」

「……ユウキ」

「お前、何でここに……」

 

 そのままユウキ君は、一番奥のアオイ君のもとまで、大股にまっすぐに歩み寄る。どこかが痛むように微かに眉をひそめたアオイ君は、黙って、近づいて来る彼を見つめていた。


「お前、就職して引っ越したんだろ。サツキちゃんと、暮らしてるんじゃないのか。なんで、こんなところに、一人で、いるんだよ……」

「……」


 アオイ君は、唇を噛んでいる。しばらくの沈黙のあと、ふう、と、アオイ君の軽いため息が聞こえた。


「サツキとは、別れた。というか、別れてた、お前と最後に会ったときには」

「はあ?」


 彼ら以外のお客さんのいない店内には、ユウキ君の少し震える声が、びっくりするくらいよく響いた。


「なんで、どういうことだよ」

「……当たり前に、だめになった。……なんでかなんて、分かるだろ。……いや、分からないのか、お前には」

「わかんねえよ!!」


 ばん、と、アオイ君の座るテーブルに、ユウキ君が勢いよく手をついた。ガチャリと、コーヒーカップが音を立てる。


「……すみません」

 はっと我に返ったように、ユウキ君は私を振り向いて謝った。


「いいえ。……お二人で、ソファ席に、お移りになりますか」

「……」


 二人は顔を見合わせると、ふたりして同時に、気の抜けた顔をした。

 それから、ふふ、と肩を震わせると、アオイ君の瞳が私を向く。


「はい。……すみません、お願いします」





 わたしの知っている、わたしのすきなひとのすきなひとのはなしは、ここでおしまいだ。


 今でも彼らは、土曜日の午後、ときどきこの店にやって来る。

 ふたりは、いつもはレギュラーブレントのホットをふたつ、たまに、スペシャルブレンドふたつとチョコパフェをひとつかふたつ、頼んでくれる。


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