スカスカ0人間の描く正解

小林勤務

第1話 反発

 初冬の風が、路地に散らばった枯葉を舞い上げる昼下がり。


 俺は彼女からお誘いをうけた。

 なんでも、伝えたいことがあるらしい。

 その内容がこれだ――


「ねえ。0+0っていくつになると思う?」


「は?」


 なんじゃそりゃ、というのが第一声。


 武蔵境から西部多摩川線に乗り換えて、終点の是政に向かった。駅に降りると一足先に彼女が待っていた。ここは多摩川北沿いに広がる遊歩道かぜのみちの最寄り駅。小さな改札口を抜けると、強い風が横顔を叩く。川から流れる冷たい風が冬の訪れを予感させて、思わずダウンのジッパーを首元まで上げる。微かに香るのは、彼女の黒髪を揺らしたリンスの匂い。


 彼女と会うのは一年振りだ。同じ高校を経て、同じ大学に進学し、就職を機に別れた。付き合いこそ長いが恋仲になったことは一度もない。冒頭の俺への投げかけ通り、彼女はよくわからない人なのだ。


 何かにつけて俺に屁理屈をこねる。映画やランチ、何度もデートらしきものを重ねたが、いつも寸前のところではぐらかされた。


 私、そういうんじゃないから。


 その断り文句を十回聞いたのち、俺は彼女と少し距離をとり、同じゼミで知り合った後輩と付き合うことになった。一方の彼女は浮いた話はからっきし。噂だけでなく、本人からも聞いていない。

 ということは、つまりそういうことなんだろう。

 かくいう自分も就職を機に忙しくなり後輩とも休日が合わず、そのうち疎遠になり、今はひとりになったんだけど。


「ねえ。は? じゃなくて答えてよ。0+0を」

「てゆうか、これって何かのクイズ?」

「そのままの意味よ」

「それなら0じゃないの。だって0は0だろ。何個足しても0は0だよ」

「正解」


 少しずっこける。


「正解かよ。なんか捻りがあるのかと期待したじゃない」

「捻りなんかないわ。でも、これって不思議なことなのよ」

「なにが」

「だって、0はいくつ足しても0のまま、どこまでいっても1に成り得ない解答なわけ。じゃあ、私たちの体の最小単位って知ってる?」

「最小って……なによ」

「素粒子よ」


 ああ、そういえば高校の物理でそんなの習ったような。

 澄みきった空の下、昔を思い出しながら並んで調布方面へと歩く。歩調は彼女に合わせて。彼女は喋りは達者だが足はのろい。並んで歩くといっても二人の距離は1メートル以上も離れている。彼女はやたらと対人距離を取りたがる。


「素粒子って細かくあげればキリがないけど、大体17種類に分かれているの。そして、驚くことにどれもが重さがないのよ」

「ほうほう」

「ほうほうって」彼女は呆れた顔を見せた。「おかしいと思わない? だって重さがないのよ。つまり、0よ0」

 ああ、なんとなくわかった。


「要は、人間を構成する素粒子の重さが0なのに、なんで俺らが70キロなり、きみの60キロなりするのかってことが言いたいのかな」


「ちなみに私は60キロもないけどね」

 彼女はむすっと頬を膨らまして腕を組む。

「でもさ、あくまで重さを0と仮定しているだけであって、それこそ素粒子が何兆個も集まって出来たのが人間なんだから、チリも積もればなんちゃらと同じでしょ」

「アレを見て」


 彼女はこちらの言葉を遮り、眼下に広がる河川敷運動場を指差す。休日ということもあり、少年サッカーの試合で盛り上がっている。歓声が青い空に突き抜けていき、こちらまで楽しくなってしまう。


「原子って丁度あんな感じよ」

「どういうことよ」

「サッカー場に人間は何人いると思う」

「またクイズか」

「いいから答えてよ」


 勝手知ったる仲ではあるが、彼女と話すといつも向こうのペースに乗せられる。サシで飲んだ時は大変だった。彼女には終電という概念はない。


「とりあえず選手だけでいい? 1チーム11人だから22人」

「まあ、そうね。だだっ広いサッカー場にたった22人。スカスカだと思わない? 運動場の広さに対して選手が」

「これ以上増えたらアメフトになっちゃうだろ。選手でぎゅうぎゅう詰めのサッカーなんてドリブルも出来ないし、見ても退屈だろ」

「話を戻すとね、選手を素粒子と仮定したら、あのサッカー場が私たちを構成する原子なわけ。重さ0の素粒子が、スカスカの空間で動き回ってるだけの集合体なのよ、私たちは」

「んん? よくわからないよ。一体、何を言いたいの」


 時折通り抜けるランナーを避けつつ首を傾げる俺を無視して、彼女はうっとりと多摩川を眺めた。


「私はね、前から不思議だったの。重さ0でスカスカの集合体の人間なのに、どうしてお互いが透き通ることなく、体を触れ合うことができるのかって。だって、体重0のスカスカ人間同士なんだから、体がぶつかってもうまいことすり抜けると思うじゃない」


「まあ、考えようによっちゃそうかもね」


「でしょ! でもね、スカスカ0人間でも、ちゃんとお互いが触れ合える理由があるのよ。なんとね、疲れ知らずで動き回る重さ0の電子が原子核の周りにいて、その電子が互いに反発することによってお互いを認識してるんですって。スカスカ0人間同士がお互いすり抜けないのは反発の作用なのよ。もう、これを知ってから目から鱗だったわ。全身に文字通り電流が走った。つまり大事なのは電子による反発なわけよ。直接触れてるわけじゃないんだから」


「随分大げさだな。そんなに――」


「でも、これだけじゃないのよ!」彼女は目を輝かせて、バッグから一冊の本を取り出す。「これを見てよ」


 手渡された本は、万葉集「東歌」。あるページに付箋が貼ってある。何かと思い、そのページを開くと、ご丁寧に黄色のマーカーが引かれた一文が目に止まる。


 多摩川に曝す手作さらさらに

 何そこの児のここだ愛しき


 俺にはその意味がわからない。「愛」という漢字が使用されていることから、これは何かの恋文かと思い描く。その程度の理解だ。一体何だっていうんだ、この古めかしい和歌が。


「武蔵野ってさ今はマンションや商店街ばかりで風情ないけど、昔は多くの歌が詠まれたんだって。望郷の想いだったり、誰かに宛てた恋心だったり」


 彼女は俺との距離を縮めることなく、本に書かれた一文を指差す。二人の間に風が通り抜け、微かに水草の湿り気を運ぶ。


「私はね、その歌もそうだけど、大抵の和歌って恋文なのかなって思うの。誰かが誰かを想い描いて、直接だったり比喩だったり、その想いを言葉に変えて。きっと、この歌だって多摩川に靡く綺麗な手拭に、愛しい人を重ねたんじゃないかな。こういうのを眺めるとこんな疑問が湧くの」

「どんな?」


「なんで、わざわざ歌にする必要があるのかって」


「そりゃあ、会えないからとか、直接伝えられないからとかじゃないのか」

「そうよね。でも、それなら誰かに伝えてもらうやり方もあるじゃない。なんで記録として残る歌にしたのかってことよ。だから、私はこう思ったわ――」


 彼女が本当に伝えたいことが近づいているような気がした。素粒子の様に二人の距離は遠くわずかな緊張感が漂うなか、彼女を正面に見据えて黙って続きを待つ。


「――言葉の記録って、電子を発生させるんじゃないかって」


「電子?」


 再びなんじゃそりゃになり、情けなく口が開いてしまう。


「だって考えてみてよ。こんな大昔に記録された歌を読んだ私が、まるでこの歌を詠んだ人の温もりに触れているような感覚に陥るのよ。当然会ったこともないし、どんな人かもわからない。でも、こういう言葉の記録は何百年経っても色褪せない。言葉に込めた想いが強いほど、あたかも直接触れなくても、その人に触れた気にさせてしまう作用があるのよ。だから、皆、歌にして記録に残したんじゃないのかな」


「いや、まあ、とんでもない飛躍だな。ただ単に言葉の情報を読み取って、俺らが脳内でイメージしたのを五感に伝えてるだけじゃないのか」


「いーや、違うね」彼女はきっぱりと否定した。「言葉を情報で読み取るだけなら、単純に知識としてインプットするだけで終わりじゃない。この歌はこういう意味だって。体が作用する必要なんてどこにもないじゃない。実際に反発が起きてるから、胸が震えるのよ」


「そりゃあ、屁理屈――」


「だから、これ!」


 彼女は遮るように叫んだ。興奮を隠しきれない様子で一歩後ずさる。いつも以上に俺との距離を空けて、一枚のメモ用紙を手渡そうと思いっきりこちらに腕を伸ばした。伸ばした手から乾いて赤く荒れた皮膚が覗く。


「書いた! 私も!」

「急になんだよ」

「これなら直接触れなくても反発を起こすでしょ」

 彼女の激流に呑まれるようにメモを受け取ろうとするが、


「あっ!」


 土手から煽られた突風に煽られて、メモは青い空に吸い込まれていく。同時に、大歓声が起こる。どうやら少年サッカーで誰かがゴールを決めたようだ。一方、こちらは虚しい風に吹かれて呆然と空を見上げる大人が二人。


 俺はなんとなく気付いてしまった。それは遅すぎるぐらいだけど。彼女はずっとそのことを気にしていた。それは俺が思っている以上に。


 一世一代の勝負で不戦敗したように放心状態の彼女に一歩近づく。互いに息が交わるぐらいに距離を縮めた。


「なんで、いつも離れるんだよ」

「意味はないわ」


 彼女は目を伏せて距離を取ろうとするが、俺はさせまいと体を寄せた。恥ずかしがって横を向くそのうなじも、ちらりと覗いた腕のように白く粉が吹き、何度も搔きむしったように固く赤く荒れている。


 彼女は昔からひどいアトピーで悩んでいた。幸いそれを理由に苛められることはなかったが、状態が悪いときは学校を休んだり、その素顔を見られたくないと年中マスクをしていた時もあった。


 彼女は必要以上に人と距離を取っていた。


 誰も自分なんかに触れたくない。


 きっと、そう思ってたんだ。


「俺はずっと近づきたかったんだぞ」


「なによ、それ」


「和歌が電子なんか発生させるわけないだろ」


 そして、そのまま一気に距離を縮めて勢いのまま抱きしめた。

 二人の間で反発した電子は、俺の胸を発火させた。



 了


 



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